江戸川柳でたどる偉人伝(鎌倉・室町時代②)日蓮・楠木正成・新田義貞・高師直・足利尊氏・小栗判官・一休・太田道灌

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日蓮

「川柳」は「俳句」と違って、堅苦しくなく、肩の凝らないもので、ウィットや風刺に富んでいて面白いものです。

今では、「サラリーマン川柳」や「シルバー川柳」など「〇〇川柳」というのが大はやりで、テレビ番組でも紹介されており、書籍も出ています。

そこで今回はシリーズで、日本古来の「偉人」を詠んだ「江戸川柳」を時代を追ってご紹介したいと思います。

川柳ですから、老若男女を問わず、神様・殿様も、猛者も貞女も大泥棒も、チャキチャキの江戸っ子が、知恵と教養と皮肉の限りを尽くして、遠慮会釈なくシャレのめしています。

第8回は「鎌倉・室町時代②」です。

1.日蓮(にちれん)

日蓮像・佐渡

・由比(ゆい)が浜すでに一宗(いっしゅう)絶えるとこ

・もちっとの事で日蓮片月見(かたつきみ)

・龍ノ口(たつのくち)翌日ご利生(りしょう)の次第

日蓮(1222年~1282年)は、鎌倉時代の僧で、鎌倉仏教のひとつである日蓮宗(法華宗)の宗祖です。安房国小湊に生まれで、『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』などで幕府を非難したため弾圧されました。「蒙古襲来を予言した話」でも有名です。

日蓮は、過激な布教活動を鎌倉幕府にとがめられ、1271年、由比ヶ浜龍ノ口の刑場で処刑されることになりますが、首斬り役人が刀を振り上げた時、その刀がバラバラに折れてしまい、また鎌倉から赦免の使者も到着して、危ういところを助かりました。

最初の句は、こういう奇跡がなければ、日蓮は斬られてしまい、すんでのことに日蓮宗は絶えてしまうところだったという意味です。

2番目の句の「片月見」とは、8月15日に月見をして9月13日に月見をしないことで、忌むべきものとされました。「龍ノ口の法難」は9月12日のことですから、もう少しで日蓮は片月見になるところだったということです。

江戸川柳では、「片月見を忌む」ことは、吉原で8月15日と9月13日の両日に客を来させようとする商魂に使われることになっていますので、それを法難という深刻な事件にあてはめたところが可笑しい句です。

3番目の句の「ご利生」とは、仏様のご利益(りやく)のことです。「~の次第」は、瓦版売りの決まり文句です。「龍ノ口事件」は、翌日すぐに瓦版で報道されただろうというのです。もちろん、日蓮の時代に瓦版のあるわけがありません。歴史的事象を江戸時代に引き直すのは、江戸川柳の得意技です。

2.楠木正成(くすのきまさしげ)

楠木正成像

・正成は鎧を着せておかしがり

・楠木は立て掛けてみておかしがり

・兵糧(ひょうろう)の殻を楠木武者にする

・正成は後でわらじにしろと下知(げち)

・正成は鼻をふさいで采を振り

・軍用に使う千早(ちはや)の惣雪隠(そうせっちん)

・屎(くそ)の煮えたも知らないで押し寄せる

楠木正成(1294年?~1336年)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての河内(かわち)国の土豪で、楠木正行(くすのきまさつら)の父です。後醍醐天皇の檄(げき)に応じて挙兵し、「建武の新政」に多大の貢献をしましたが、足利尊氏の軍に敗れ、兵庫湊川で討ち死しました。

楠木正成が、数に勝る幕府軍を奇策によって苦しめたのは有名ですが、最初の句もその一つです。

河内の千早城に籠った正成は、百万騎の大軍に千人足らずの手勢で抗戦しました。ある時、藁人形を20~30体作って鎧を着せ、城の麓に置いてどっと鬨(とき)の声をあげさせ、本物の兵と間違えた敵兵が集まってきたところへ、大石を一気に落として三百余人を打ち殺すという奇抜な作戦を成功させました。

正成は藁人形を作って鎧を着せながら、我ながらとんでもない作戦に可笑しがったというのです。

2番目から4番目の句も、この作戦を詠んだものです。

なお『太平記』には見当たりませんが、敵兵に向かって煮えたぎった糞尿をかけたという俗説があります。これを詠んだのが5番目から7番目の句です。なお「惣雪隠」とは「共同便所」のことです。

3.新田義貞(にったよしさだ)

太刀を海に投じる新田義貞・月岡芳年画

・義貞の士卒荒布(あらめ)でつんのめり

・義貞の勢(ぜい)はあさりを踏みつぶし

・汐時(しおどき)を一度は太刀で狂わせる

・ひたひたひたと鎌倉へ乱れ入り

・焼き飯を三つ義貞踏みつぶし

新田義貞(1301年~1338年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将です。1333年に挙兵し、足利尊氏の六波羅攻めと呼応して、分倍(ぶばい)河原合戦で北条軍を撃破、稲村ヶ崎を突破して鎌倉を攻略し、鎌倉幕府を滅亡させました。

新田義貞が鎌倉を攻める際、稲村ヶ崎で太刀を海中に投じ、突然できた広大な干潟を渡って攻め込んだという『太平記』の物語を詠んだのが最初の句です。

できたばかりの干潟だったら、荒布がいっぱいあるだろうから、義貞の家来たちは足を取られてつんのめっただろうと想像したのです。

2番目の句も、義貞の大軍がアサリを踏みつぶす様子を想像したものです。

自然の摂理を太刀で狂わせた義貞の軍(3番目の句)は、「干た干た」と叫びながらひたひたと鎌倉へ攻め込み(4番目の句)、ついに焼き飯(握り飯)を三つ並べたような北条氏の家紋(三鱗)(下の画像)を踏みつぶすことになりました(5番目の句)。

三鱗紋

4.高師直(こうのもろなお)

高師直像・以前は足利尊氏像高師直・仮名手本忠臣蔵高師直・仮名手本忠臣蔵・垣間見の月

・ただもいられず師直は墨を磨(す)り

・つれづれをほめほめ文(ふみ)を書かせて居(い)

・兼好はあの面(つら)でかとなぐり書き

・ではござるまいと薬師寺苦笑い

・およだれをお拭きなさいと侍従言い

高師直(?~1351年)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて足利尊氏に側近(執事)として仕えた武将です。尊氏の弟・直義(ただよし)と幕府の主導権を争って武闘となり、摂津武庫川で討たれました。『仮名手本忠臣蔵』でも有名です。

『仮名手本忠臣蔵』は、元禄時代にあった赤穂事件を『太平記』の設定に仮託したもので、浅野長矩を塩谷判官高貞、吉良義央を高師直とし、塩谷判官の妻への横恋慕を発端として描いています。塩冶の「塩」は長矩の領地赤穂の特産品、高師直の「高」は義央の役職「高家」に通じます。師直と義央とは領地の三河でも繋がっています。

高師直は、足利尊氏の執事ですが、江戸川柳では、人妻に横恋慕して振られるという見苦しい話の句ばかりです。

『太平記』によると、侍従という女房から、塩谷判官高貞(えんやはんがんたかさだ)の妻が美人だと聞いた師直は、侍従に取り持ちを頼みますがうまく行きません。そこで師直は、『徒然草』の作者吉田兼好に恋文(ラブレター)の代筆をさせます。

「徒然草は面白いですなあ」などとお世辞を言ったり(2番目の句)、傍らで墨を磨ったり(最初の句)して一生懸命ですが、兼好の方は気乗りせず、「あの面で恋文かい」などと雑な仕事振り(3番目の句)です。そのせいか、手紙は捨てられてしまいます。

それでも懲りない師直は、今度は薬師寺公義(きんよし)という人に手紙を書かせて届けますが、返事は「重きが上のさよ衣」とあるだけでした。

これは、「さなきだに(さらぬだに)重きが上のさよ衣 わが妻ならぬ妻な重ねそ」(*)という歌の心で、要するに拒絶の返事なのですが、夢中な師直は「小袖が欲しいということか?」などと頓珍漢なことを言う始末です。薬師寺も困って「そうではないでしょう」と苦笑い(4番目の句)するしかありません。

(*)ただでも夜の衣は重いのに、その上に自分のただでさえ重い夜具の上に、自分の褄(つま)でない衣の褄(つま)を重ねるな。 女犯そのものの罪が重いのに、その上、わが妻でない人妻との関係を重ねてはいけない

なおも諦めない師直に手を焼いた侍従は、相手のすっぴんを見せたら嫌になるだろうと、風呂場を覗き見させますが、言うまでもなくこれは逆効果(5番目の句)になります。

この横恋慕は結局、塩谷判官を讒言して妻ともども死なせることになります。

5.足利尊氏(あしかがたかうじ)

足利尊氏

足利尊氏の肖像画については、団塊世代の私が学校で習った時には、京都国立博物館所蔵の「騎馬武者像」でしたが、現在ではこれは高師直の肖像画とされているようです。有名な神護寺蔵の「伝源頼朝像」が、現在では源頼朝とは別人だと言われているのと似ていますね。

・鍋蓋と釜の蓋とでいじり合い

・足の利く大将筑紫まで逃げる

・鍋蓋が沈んで浮かむ釜の蓋

・楠木がどうかしようと内侍言い

足利尊氏(1305年~1358年)は、鎌倉時代末期から室町時代(南北朝時代)前期の武将で、室町幕府初代征夷大将軍です(在職:1338年~1358年)

最初の句は、鍋の蓋と釜の蓋が責めあうという謎めいたものです。しかし、鍋の蓋が「丸に一つ引き」(下の画像・左)で新田の家紋、釜の蓋が「丸に二つ引き」(下の画像・右)で足利の家紋ということがわかれば、簡単な句です。

新田の家紋・丸に一つ引き足利の家紋・丸に二つ引き

足利尊氏と新田義貞は協力して鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇の親政(建武の新政)が始まりますが、まもなく尊氏が離反し、宮方の義貞と争うことになります。

「中先代の乱」(1335年)の後、鎌倉にいた尊氏はいったん京都に入りますが、義貞らの軍に敗れて九州へ落ちます。2番目の句の「く」とは尊氏のことです。

しかし、尊氏は態勢を立て直して東上し、「湊川の戦い」(1336年)で新田・楠木軍を破って、再び京都を制圧します(3番目の句)。

なお、尊氏が九州へ落ちた時、新田軍が直ちに出兵して尊氏の息の根を止めなかったのは、義貞が美貌の勾当内侍(こうとうのないし)と離れるのを嫌がったからだと『太平記』には書いてあります。おかげで尊氏は命拾いをしました。女性の魅力が歴史を動かしたとも言えます。

「あなた(義貞)が出掛けなくても、楠木が何とかしてくれるわよ」と勾当内侍が言ったと想像したのが4番目の句です。

6.小栗判官(おぐりはんがん)

小栗判官

・美しい車力(しゃりき)熊野の湯場(ゆば)へ来る

・湯治場(とうじば)の評判になる車引き

・車止めすこぶる困る照手姫(てるてひめ)

・照手姫毎日そこら握って見

小栗判官は伝説上の人物で、『説教節』などの登場人物です。婿入りした照手姫の一門の者に毒殺されますが、餓鬼(がき)の姿で蘇り、熊野の湯で本復します。

最初の句には、「美しい車引きが紀州熊野の温泉場へやって来る」とありますが、一体何のことでしょうか?

『説教節』によると、小栗判官は横山氏の娘・照手姫に婿入りし、一門の者に毒殺されますが、閻魔大王から餓鬼の姿でこの世に戻されます。「熊野の湯に入れれば、元の姿に戻る」という閻魔大王からの手紙を読んだ藤沢の遊行上人が、小栗を車に乗せ、善意の人に引いてもらって熊野へ行くよう仕向けますが、途中、流れ流れて美濃青墓で働いていた照手姫が偶然この車を引き、熊野に至って、湯の峰温泉の薬効により小栗は本復します。

この熊野到着の場面を詠んだのが最初の句です。

照手姫は大変な美人なので、熊野ではさぞかし評判になっただろうと想像したのが2番目の句です。

しかし、道中で通行止めでもあれば困っただろうと想像したのが3番目の句です。

温泉に入れて、元の身体に戻るまで49日かかったそうなので、照手姫は毎日気が気でなく、身体のあちこちを触ってみて、「少し肉がついたみたい」と言ったのではないかと想像したのが4番目の句です。

7.一休(いっきゅう)

一休宗純

・ご用心やれ鶴亀と礼者(れいしゃ)逃げ

・一休に上下(かみしも)を着た人だかり

・万歳(まんざい)びっくり一休に出っくわせ

・一休に毬(まり)や羽子板捨てて逃げ

・一休み(ひとやすみ)しろと元日戸をささせ

・一休この方元日は戸をたてる

・元日にわるいいたずら和尚する

一休こと一休宗純(いっきゅうそうじゅん)(1394年~1481年)は、室町時代の臨済宗大徳寺派の僧・詩人です。後小松天皇(1377年~1433年)のご落胤と言われています。説話「一休咄」(頓智の一休さん)のモデルとしても知られています。

一休さんの逸話はたくさんありますが、最初の句は「元日に髑髏(されこうべ)を持ち歩いた話」を詠んだものです。

みんながのんびり元日を祝っているのが気に障った一休さん、墓場で拾った髑髏を竹の先にさして「ご用心、ご用心」と言いながら、京都の町を歩いたそうです(7番目の句)。

驚いたのは町の人たちで、縁起でもないと戸を閉めて家に籠ってしまい、年賀の挨拶に回っている礼者たちは、「やれ、鶴亀、鶴亀」と不吉を払う呪(まじな)いの文句を唱えながら逃げていくというわけです(最初の句)。

一休さんの頃に、庶民が裃(かみしも)を着て年礼に行ったり、三河万歳が町を歩いたり、道路で羽根つきをしていたかわかりませんが、川柳作家お得意のタイムスリップ技巧でしょう。(2番目~4番目の句)

この事件があってから、元日には戸をたてて家にいるようになったというのが5番目と6番目の句です。

8.太田道灌(おおたどうかん)

太田道灌太田道灌・山吹伝説

・山吹(やまぶき)の花だがなぜと太田言い

・帰るさも道灌はてなはてななり

・なあるほどみの一つだになあるほど

・ずぶ濡れになって帰ると歌書を買い

・雨宿りから両道な武士となり

太田道灌(1432年~1486年)は、室町時代後期に関東地方で活躍した武将。扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の執事を務め、江戸城を築き居城としたことでも有名です。名将と言われましたが、讒言を信じた主君・定正に暗殺されました。

今回ご紹介するのは、有名な「山吹伝説」を詠んだ句です。

鷹狩に出て雨にあった道灌は、蓑(みの)を借りようと立ち寄った家の娘から、黙って山吹の花を差し出されて、何のことかわかりませんでした。

あとで、これは「七重八重花は咲けども山吹の みの一つだに無きぞ悲しき」という古歌を踏まえて、「蓑がない」ことを告げたのだということがわかって、大いに恥じ入り、それから歌の道に精進したという話です。

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