江戸時代の笑い話と怖い話(その17)。茶の湯のたしなみとは?

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茶の湯

「茶の湯」は、戦国時代の武将で農民出身ながら「天下統一」を果たした豊臣秀吉(1537年~1598年)が大変好んだことで有名です。

ストレスの多い人生だったにもかかわらず、秀吉が61歳まで長生きできた理由は、歴史学者の小和田哲男静岡大学名誉教授によると、「茶室でリフレッシュ・リラックスしていたからではないか」ということです。

秀吉は「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」や「黄金の茶室」でも有名な「大のお茶好き」でした。彼は「茶の湯は慰みじゃ」と自らも気晴らしに良いと語っています。

秀吉が好んだ千利休(1522年~1591年)の「侘茶(わびちゃ)」ですが、それからまだ日が浅い江戸時代の初期あたりまでは、大名や裕福な商人などが「茶の湯」に招かれる主な客でした。

それから約1世紀を経て元禄期(1688年~1704年)になっても、誰もが愛好する時代ではありませんでしたが、「茶の湯」ついての知識も徐々に世の中に広まっていきました。

1.『初音草噺大鑑(はつねぐさはなしおおかがみ)』より「玄関よりにじりあがり」

茶室の躙り口

茶室には、「茶の湯」ならではの狭い入り口があり、身をかがめて躙(にじ)って入ることから「躙り口(にじりぐち)」と呼ばれています。元禄11年(1698年)に京で出版された笑い話の本である『初音草噺大鑑』には「躙り口」がテーマの次のような話があります。

ちなみに主人公の名前の甚六(じんろく)とは、ぼんやりと育った男のことで、今でも「惣領(=長男)の甚六」などと言いますね。

あるお金持ちの人に、かなり間の抜けた甚六という息子がいました。この子に実社会を見せたら、少しは賢くなるかもしれないと父親は考えて、人付き合いをさせることにしました。

たまたま自分の知り合いの一人に世斎(よさい)という人がいて、普段から周囲の人々をもてなし、例の間抜けな甚六も彼のもとに招待されることになりました。

そこで手代(=番頭と丁稚の間に位置する使用人)が、前もって甚六に教えました。「世斎さんは有名な風流人ですから、しっかり茶の湯をお勉強なさいませ。だいたいの茶室には躙り上がりや露地(=茶室の庭園)入りといった難しい作法があるのです。よく注意して、お行きなさいませ」しかし甚六は「心配ご無用。恥なんてかかないから」と答えて出発しました。

世斎のお屋敷に到着するやいなや、甚六は門のところで足元を踏みにじり、玄関からは膝で踏みにじって座敷へ進みました。

可笑しく思った世斎は、からかってやろうと声を掛けました。「さて、甚六どのは何事にもよくお気づきになりますね。なかなか、そんなふうには躙られないものですよ」

すると甚六は、「ご丁寧なご挨拶、恐れ入りますが、次からは茶の湯のない気楽な席にお招きください。躙り上がりだと、着る物が傷みますので」

2.『軽口蓬莱山(かるくちほうらいさん)』より「茶の湯に廻す陶」

ある家主を第一のお客にして、近所の門弟たちがニ、三人ほど茶をふるまう席に招かれましたが、家主は風流の道など全く知りませんでした。

しかし「知りません」というのも悔しいので、何でももっともらしくやってのけようと思いました。

上座(かみざ)に座ると、お茶をズルズルとすすり飲み、しかも茶碗を次の人に渡しません。「あのう、こちらにお茶碗を回してください」と頼まれると、「でしたら。お回ししましょう」と答え、まだかなり入っていたお茶を一気に飲み干し、畳の上で茶碗のふちをつまんでグイッとひねりました。茶碗はクルクル回って主人(=茶をたてるホスト役)の膝のあたりに近づき、そこで止まりました。

みんながドッと盛り上がると、家主が口を開きました。「全く不作法で失礼しました。それにしても若い頃と違って手もとが狂い、回るばかりで、ちっとも唸りませんでした」

家主にとっては、「唸り独楽(うなりごま)」のように音まで出なかったのが失礼と思ったようです。



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