江戸川柳でたどる偉人伝(江戸時代②)浅野内匠頭・大石内蔵助・吉良上野介・宝井其角・加賀千代女

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刃傷松の廊下

「川柳」は「俳句」と違って、堅苦しくなく、肩の凝らないもので、ウィットや風刺に富んでいて面白いものです。

今では、「サラリーマン川柳」や「シルバー川柳」など「〇〇川柳」というのが大はやりで、テレビ番組でも紹介されており、書籍も出ています。

そこで今回はシリーズで、日本古来の「偉人」を詠んだ「江戸川柳」を時代を追ってご紹介したいと思います。

川柳ですから、老若男女を問わず、神様・殿様も、猛者も貞女も大泥棒も、チャキチャキの江戸っ子が、知恵と教養と皮肉の限りを尽くして、遠慮会釈なくシャレのめしています。

第12回は「江戸時代②」です。

1.浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)

浅野内匠頭

・手廻しの悪さ短刀長袴(ながばかま)

・そば近く寄って切らぬが粗忽(そこつ)なり

・えぐればいいにしょうしょうの傷を付け

・手を出した方が負けだと下馬(げば)で言い

・抜き所(どこ)が悪いさかいと公家衆(くげしゅ)言い

・短気故(ゆえ)名代(なだい)の塩も人のもの

浅野内匠頭こと浅野長矩(あさのながのり)1667年~1701年)は、播磨赤穂藩の第3代藩主。官位は従五位下・内匠頭。元禄14年(1701年)勅使下向の接待役を命じられた際、礼式指南役の吉良上野介に辱(はずかし)めを受けたため、江戸城本丸大廊下(通称「松の廊下」)で、吉良に対して刃傷に及び、即日切腹となりました。それに続く「赤穂事件」は『忠臣蔵』として広く知られています。

江戸城松の廊下で、恨み重なる吉良上野介に斬りかかった浅野内匠頭。悪役の見本のような吉良が相手ですから、川柳でも浅野内匠頭に共感と同情が集まると思いきや、存外冷静に観察されています。

最初の句は、人に斬りつけようというのに、長いぞろぞろした袴を穿(は)いて、短い刀しか持っていないとは段取りが悪いというのです。

場所柄、短刀しか持っていないのは仕方ないとして、それならもっとそばに寄って斬ればいいのにというのが2番目の句です。

短刀でも腰だめでえぐれば致命傷が与えられるのに、振りかぶって斬りつけたりするから、少々の傷しかつけられなかったのだというのが3番目の句です。「少々」は、吉良の官位「権少将(ごんのしょうしょう)」と掛けています。

江戸城下馬先で待機しているお供たちの意見は、「手を出したほうが負けだ」というのが4番目の句です。

一方、饗応された勅使たちも、事件を聞いて「お城の中とは、浅野はんもちょっと抜きどころが悪いさかい(悪いから)・・・」などとひそひそ話しただろうと想像したのが5番目の句です。

短気のためにお家は断絶、身は切腹。名代の赤穂塩も他人の手に渡りました(6番目の句)。

2.大石内蔵助(おおいしくらのすけ)

大石内蔵助

・悪く言う沙汰を大石嬉しがり

・山科にいて関東の脈をとり

・山科は能ある鷹のかくれ里

・たくみとは家老の方へ付けたい名

・一(ひと)しきり四十五人が悪く言い

・十三日(じゅうさにち)迄は小石のように見え

・煤払い(すすはき)のあしたよごれた名を雪(すす)ぎ

・どらも打ち敵(かたき)も討った国家老

大石内蔵助こと大石良雄(1659年~1703年)は、播磨赤穂藩の筆頭家老。通称は内蔵助(くらのすけ)。江戸時代中期に起きた赤穂事件の赤穂浪士四十七士の指導者として知られ、元禄15年(1702年)12月14日本所松坂町の吉良邸へ討ち入り、上野介の首級をあげました。

これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で有名になりました。忠臣蔵の作品群では「大星由良助(おおぼしゆらのすけ)」の名で伝えられています。なお、長男の大石良金(主税)も赤穂浪士の一人で最年少です。

内蔵助は、敵討ちの意志がないように見せるため、山科に家を買って悠々自適の風を見せ、さらに色町で遊興に耽ったりしました。そんな生活ぶりを悪く言う噂が広まれば、吉良方も油断するはずだと、大石は嬉しがっただろうというのが最初の句です。

しかし実態は、秘かに関東の様子を探り(2番目の句)ながら、黙って爪を磨いていた(3番目の句)のです。

これは実に巧みな作戦です。主君は浅野内匠頭(たくみのかみ)ですが、「たくみ」は家老の内蔵助の方に付けたい名だというのが4番目の句です。

それで、敵方のみならず、味方まですっかり騙されました。息子の主税(ちから)以外の同志全員が悪く言う始末(5番目の句)です。

討ち入りの前日13日までは「ありゃあ、やる気ないねえ。大石じゃなくて小石だね」と馬鹿にされたというのが6番目の句です。「軽石(かるいし)」や「昼行灯(ひるあんどん)」とも嘲笑されたようですね。

江戸で大掃除をする12月13日の翌日、みごと本懐を遂げて汚名を雪いだというのが、7番目と8番目の句です。

3.吉良上野介(きらこうずけのすけ)

吉良義央吉良上野介・松の廊下

・黒羽二重(くろはぶたえ)でかくれると知れぬとこ

・白綾(しろあや)は屋根へ上がると知れぬとこ

・南無熊野権現と炭部屋に居る

・煤掃きの明日逃げても炭だらけ

・炭俵取りのけやれと検死言い

吉良上野介こと吉良義央(きらよしひさ/よしなか)は、江戸時代前期の高家旗本(高家肝煎)。元禄15年(1702年)の「元禄赤穂事件」で浅野旧臣(四十七士)に殺害されました。題材をとった創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれます。幼名は三郎、通称は左近。従四位上・左近衛権少将、上野介。

赤穂義士の討ち入りの際、吉良上野介は炭部屋に隠れていたと言われます。最初の句は、黒い炭ばかりある炭部屋に、白い寝巻で隠れるから発見される。黒羽二重なら保護色になってわからなかっただろうにというわけです。しかし、黒羽二重の羽織は、道楽息子のファッションの定番です。

白綾の寝巻なら、雪の降った屋根へ逃げれば見つからなかったのにというのが2番目の句です。

熊野神社のご加護を念じて、炭部屋に隠れていたというのですが、熊野が古来、木炭の有名な産地(現在の「備長炭(びんちょうたん)」)であることを踏まえたのが3番目の句です。

赤穂義士の討ち入りは、12月14日ですが、前日の13日は恒例の年末煤掃き(大掃除)の日です。せっかく煤を払ってきれいにした翌日だったのに、炭部屋へ逃げ込んで炭だらけになってしまったというのが4番目の句です。

検死の役人が「炭俵が邪魔だから取り除けろ」と言ったと、見て来たような嘘をついたのが5番目の句です。

4.宝井其角(たからいきかく)

宝井其角宝井其角と大高源吾

・宗匠(そうしょう)へ蓑よ傘よと土手の雨

・一句吟ずればゆたかの雲起こり

・よく詠んだなあと褌(ふんどし)まで絞り

・たなつもの持って発句(ほっく)の礼に来る

宝井其角(1661年~1707年)は、江戸時代前期の俳諧師で「蕉門の雄」と評されます。本名は竹下侃憲(たけしたただのり)。交遊のあった赤穂義士の大高源吾との「両国橋の別れ」の逸話でも有名です。

最初の句は、土手でにわか雨が降ってきたので、あわてて俳諧の宗匠に蓑や傘を着させているというのですが、次の逸話を踏まえたものです。

其角は芭蕉の弟子の中でもナンバーワンと言われる俳諧師です。その其角が向島土手下の三囲神社(みめぐりじんじゃ)で、「夕立や田をみめぐりの神ならば」という雨乞いの句を詠んだら雨が降ったと言われています。

其角の自選句集『五元集』には、「牛島三繞(みめぐり)の神前にて、雨乞ひするものにかはりて」と前書きしてこの句が載せてあり、「翌日雨降る」と書き添えてあります。ですから、すぐに降り出したわけでもなさそうですが、川柳ではたちまち豪雨になったことになっています。

「夕立(ふだち)や田()をみめぐりの神(み)ならば」の句は、五七五の頭文字が「ゆ・た・か」(豊)になっている「折句」です。雨が降って豊作にという願いが込められているというのが2番目の句です。

にわか雨にあった人が、褌までずぶ濡れになりながら「よく詠んだなあ」と感心しているのが3番目の句です。

4番目の句の「たなつもの」とは、穀物のことです。農民たちが雨を降らせてもらったお礼に其角に作物を持ってきただろうと想像したものです。

5.加賀千代女(かがのちよじょ)

加賀千代女

・翌年は千代井戸端を去って植え

・無雅(むが)なやつからんだ蔓(つる)を切って汲み

・お千代さんさぞねむかろう時鳥(ほととぎす)

・起きて見つ寝て見つ蚊帳(かや)の穴だらけ

加賀千代女(1703年~1775年)は、加賀国松任(今の白山市)で、表具師福増屋六兵衛の娘として生まれました。松尾芭蕉の『奥の細道』が刊行された翌年です。

幼名はつ、号は素園、草風。一般庶民にもかかわらず、幼い頃から俳諧をたしなんでいたということです。

12歳の頃、奉公した本吉の北潟屋主人の岸弥左衛門(俳号・半睡、後に大睡)から俳諧を学ぶための弟子となりました。16歳の頃には女流俳人として頭角を現しています。

17歳の頃、諸国行脚をしていた俳諧師・各務支考(かがみしこう)(蕉門十哲の一人)(1665年~1731年)が地元に来ていると聞き、宿に赴き弟子にしてくださいと頼むと、「さらば一句せよ」と、ホトトギスを題にした俳句を詠むよう求められました。

千代女は俳句を夜通し言い続け、「ほととぎす郭公(ほととぎす)とて明けにけり」という句で遂に支考に才能を認められ、指導を受けました。そのことから名を一気に全国に広めることになりました。

千代が今年起こったことに懲りて、翌年は井戸端から離れたところに朝顔を植えたというのが最初の句です。千代女の「朝顔につるべとられてもらひ水」という俳句を踏まえたものです。

千代は心優しく風流の分かる女性ですから、井戸水を汲み上げる釣瓶に朝顔の蔓が巻き付いているのを見ても、無理に切ったりせずそのままにしておいて、他所へもらい水に行ったのですが、世の中そんな人ばかりとは限りません。

2番目の句の「無雅」とは、風流のわからない野暮な人のことです。

千代女が若い頃、各務支考に才能を認められた有名な句「ほととぎす郭公とて明けにけり」を踏まえた川柳(3番目の句)もあります。この川柳作者はもっぱら寝不足ばかり心配しています。

「起きて見つ寝て見つ蚊帳の広さかな」という句は、実際は浮橋という遊女の作った句のようですが、一般には千代女が夫と死に別れた時に作った句と伝えられています。

しかし、川柳作者は風流心などまるでなくて、我が家のボロ蚊帳を嘆くばかりです。

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