河鍋暁斎の花鳥画・山水画・仏画・浮世絵・風刺画・戯画の代表的作品を紹介!

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河鍋暁斎

河鍋暁斎(かわなべきょうさい)はここ数年、毎年のように相次いで開催された大型の回顧展により、その知名度は一気に高まりつつあります。

皆さんは、彼の作風や人柄に対して、どんなイメージをお持ちでしょうか?

書画会での派手な即興画パフォーマンスや「狂斎」と称して明治政府を強烈に風刺した絵を描いて投獄されたエピソードなどから豪放磊落な「反骨の人というイメージや、エキセントリックかつファンタスティックな作品を好んだ「奇想の系譜系の画家という印象を持っている人が多いようです。

しかし実は河鍋暁斎は、卓越した絵画技術を持ち、激動する時代の中で伝統的な花鳥画・山水画・歴史画から、浮世絵や風刺画、戯画まであらゆる画題を描き尽くし、幕末から明治中期にかけて活躍した天才絵師です。

そこで今回は、天才絵師・河鍋暁斎の全体像を知っていただくために、彼の花鳥画・山水画・仏画・浮世絵・風刺画・戯画の代表的作品をご紹介したいと思います。

なお、河鍋暁斎については、「河鍋暁斎とは?画鬼と称した幕末から明治にかけての反骨の浮世絵師。」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

(1)花鳥画

河鍋暁斎は数多くの花鳥画を残しました。彼の花鳥画は、狩野派等に由来する日本画テイストの強さが特徴です。幼い頃から写生を得意としていた河鍋暁斎にとって、花鳥画はその本領とも言える分野だったのです。

河鍋暁斎の晩年にあたる1881年(明治14年)に描かれた「古木寒鴉図」(こぼくかんあず)は、河鍋暁斎の花鳥画のなかでも大変有名な作品です。古木寒鴉図によって、河鍋暁斎は狩野派本流の絵師として世間に評価され、知られるようになりました。

写実的に描かれた1羽のカラス(鴉)と、筆の勢いで描かれたデフォルメ調の古木の組み合わせが何とも味があります。

本作品で注目すべき点は、筆数が少ないにもかかわらず、河鍋暁斎の画家としての技量が一目で分かる点です。多色を用いたわけでもない白黒調の素朴な絵画にもかかわらず、観る人を吸い込むような不思議な魅力があります。

古木寒鴉図は、1881年(明治14年)に国が主催した第2回内国勧業博覧会に際し、河鍋暁斎が出品した4作品のうちの一つです。博覧会では高い評価を獲得し、日本画の最高賞である「妙技二等賞牌」を受賞しました。

そして河鍋暁斎は、古木寒鴉図に対して「100円」の価値を付けて売り出します。明治初期は物価の変動が激しい時期であり、正確に現在の価値に置き換えることはできません。

しかし明治時代の1円は、およそ現在の約3,600円とも、20,000円とも言われています。いずれにしても、非常に高価な価格を打ち出したことが分かります。

この価格設定は、周りから「高すぎる」とバッシングを受けています。しかし河鍋暁斎はそれでも「これは鴉の値段ではなく長年の画技修行の価である」として値を譲りませんでした。

このインタビューに感銘を受け、最終的に日本橋の老舗菓子商である「榮太樓」(えいたろう)が買い手に名乗りを挙げます。当時は、「カラスを描いただけの絵画」が規格外の高値で取引されたとして話題を集めます。

この出来事から、この作品は「百円鴉」という俗称でも呼ばれることになりました。

(2)山水画

花鳥画のみならず、河鍋暁斎は「山水画」でも傑出した作品を送り出しました。

特に有名な作品は、湯島天満宮宝物殿に所蔵され、文京区指定文化財にも認定されている「龍虎鷹山水図衝立」です。

湯島天宮宝物殿を訪れると、龍と虎がダイナミックに描かれた衝立を間近に観ることができます。河鍋暁斎が長きにわたって学び続けた狩野派の特徴を残した作品で、虎の目がもつ鋭い迫力は一度観れば忘れられません。

龍虎鷹山水図衝立は河鍋暁斎と娘の河鍋暁翠、さらに息子の河鍋暁雲による親子合作作品です。虎の裏面に描かれた滝は娘の河鍋暁翠が手掛けており、龍の裏にある鷹を描いたのは息子の河鍋暁雲でした。河鍋暁斎を継ぐ2人の絵師の、父譲りの画才を一度に観ることができる貴重な作品でもあります。

しかし、初めから合作が予定されていたわけではありません。河鍋暁斎は表面の龍と虎のみを衝立に描くと、残る2面を描き切ることなく亡くなってしまったのです。

そこで、河鍋暁斎の没後に河鍋暁翠と河鍋暁雲が揃って裏面を補いました。こうした機運により、父子による貴重な合作作品が残されることになったのです。

(3)仏画

仏画は、狩野派が伝統的に取り組んできた画題です。河鍋暁斎も狩野派の門下生として、多数の仏画を手がけました。

「毘沙門天之図」(びしゃもんてんのず)は、河鍋暁斎が18歳のときに描いた作品で、現存する最初期の肉筆作品です。

この頃、河鍋暁斎は駿河台狩野派の修業を終えた時期に当たり、狩野派の正当な描き方が用いられています。

毘沙門天之図を描くにあたり、毎日のように観音を描く徹底した練習ぶりで、当時から絵画にかける情熱はひとしおでした。なお毘沙門天の下には邪鬼がいるのですが、こちらは未完成だったとも伝えられています。

河鍋暁斎の仏画で特に人気があり、また自身も数多く手掛けたのが「風神雷神図」でした。そのなかでも最も有名なのが、ボストン美術館に所蔵された風神雷神図です。風神と雷神の鮮やかな色彩感と墨で描かれた背景は、観る者を圧倒するほどの美しさを誇ります。

しかし、この作品には奇妙な点があります。狩野派における風神雷神図には決まりがあり、右に雷神、左に風神を配置するのが通例でした。しかし、本作品では配置が逆になっていることが分かります。

この配置は俵屋宗達を創始者とする琳派に見られる配置です。残念ながら、河鍋暁斎がなぜ琳派の配置を採用したのかという意図は分かっていません。

(4)浮世絵

日本画での活躍が目立ちますが、河鍋暁斎は浮世絵番付で一番を獲得したこともある実力派の浮世絵師です。

浮世絵師・歌川国芳の門下生だった経験もあり、浮世絵の制作も精力的に行なっていました。師匠の歌川国芳が得意とした残酷絵(無残絵)だけでなく、混乱する幕末の情勢を浮世絵作品で表現しています。

河鍋暁斎の描く浮世絵は、構図から配色まで大胆な発想が光ります。「明治元戊辰年五月十五日 東台戦争落去之図」では、1868年(慶応4年・明治元年5月)7月に勃発した上野戦争の様子が描かれています。「東台」とは関東台嶺(かんとうだいりょう)のことで、現在の上野公園内にある東京国立博物館近辺です。

上野戦争とは、江戸の反新政府派が蜂起したことで発生した内戦。1867年11月(慶応3年10月)に「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が大政奉還を行ない、のちに江戸城は無血開城となりました。

このとき江戸上野山(現在の東叡山寛永寺円頓院)に蟄居(ちっきょ)した徳川慶喜の助命を嘆願するため、古くからの側近「小川興郷」(おがわおきさと)達が同志を募ります。

新政府軍に抵抗する抗戦派の幕臣達がこれに合流する形で、1868年(慶応4年・明治元年)、のちに彰義隊(しょうぎたい)と呼ばれる同盟を結成しました。徳川家霊廟の警護と称して彰義隊が上野山に拠点を移すと、上野山には続々と同志が集まります。

やがて、彰義隊の規模は2,000人以上に膨れ上がり、新政府軍も無視できない軍事組織へと変貌したのです。本来は徳川慶喜の助命嘆願を目的とした同盟でしたが、組織の肥大化とともに強硬派が台頭。薩長新政府軍の討伐を掲げて憚らなくなり、新政府軍との全面衝突に発展しました。

上野戦争は、わずか1日で決着がつき、結果は新政府軍の圧勝に終わります。残された彰義隊の残党達は、「榎本武揚」(えのもとたけあき)所有の船で東北地方に落ちのび、旧幕府軍と新政府軍の戦いの舞台は北へと移り変わっていきました。

その上野戦争の顛末を描いたのが、「明治元戊辰年五月十五日 東台戦争落去之図」です。彰義隊の強硬派が擁立したのは、最後の輪王寺宮と呼ばれた「輪王寺宮能久親王」(りんのうじのみやよしひさしんのう)でした。作品の中央で黄色い装束をまとった人物が、それに当たります。皇族である輪王寺宮能久親王が裸足で逃げ出そうとしており、彰義隊の敗北を物語っています。

一方、赤い制服を着用しているのが新政府軍の兵士です。彼らが所持しているミニエー銃や新式のスナイドル銃といった西洋の武器が精密に描かれています。鮮やかな赤い毛皮の被り物は、ヤクの毛を赤く染めた「赤熊」(しゃぐま)と呼ばれる被り物です。

新政府軍の赤い制服、赤熊の赤毛、そして戦火の赤が色鮮やかにまんべんなくちりばめられ、作品全体が強い赤色の印象を与えています。これは、新政府軍の色である赤色が優勢であることを、色調によっても表現した巧みな技法でした。

河鍋暁斎は本作品を描くにあたり、上野戦争の翌日に写生に赴いたと伝わります。幼少期から変わらぬ絵への執念を窺わせるエピソードであり、戦場のリアリティある表現はそうした姿勢が描き出して見せたものだったのです。

なお浮世絵画業は、彼の子ども河鍋暁翠・河鍋暁雲にも受け継がれます。特に河鍋暁雲は、父譲りの印象的な肉筆浮世絵を描きました。

(5)風刺画

河鍋暁斎は、1858年(安政5年)からは狩野派を離れ、風刺画でも人気を勝ち取ります。彼を有名絵師へ押し上げたのは、その優れた風刺センスでもあったのです。

特に、河鍋暁斎の風刺画は戯画風をかけ合わせた物が多く、幕末以降も大ヒットを続けました。明治政府への風刺画はのちに筆禍事件を起こしてしまいましたが、そうした事件もあって河鍋暁斎は反骨精神の人として知られるようになります。

彼のように、何があっても風刺画を描き続けてきた画家は大変珍しく、世界の絵画の歴史から見ても非常に興味深い人物です。

「風流蛙大合戦之図」(ふうりゅうかえるだいかっせんのず)は、そのふざけたような表題に反して、大事件である「第一次長州征伐」を描いた風刺画です。本来ならば笑ってもいられない国を揺るがす事件なのですが、河鍋暁斎の手にかかれば、これも笑わずにはいられない戯画に仕上がってしまいます。

そもそも、第一次長州征伐は尊王攘夷を主張した長州藩と、それを制圧しようとした幕府軍との戦いです。全面的な戦争は、江戸の初期以来200年間ずっと起こっておらず、当時は平和を揺るがす大事件でした。

その事件を描いた本作では、かえる達の掲げる軍旗は紀州徳川の六葉葵と毛利家の沢潟紋(おもだかもん)です。その武器は蒲の穂と水鉄砲ですが、その顔は真剣そのもので、なかには流血して倒れている者もいます。

いくら浮世絵とは言え、まさに当時の事件をリアルタイムに描くことはご法度。時代背景や人物名を変えることでカモフラージュして、規制の目を逃れる必要があったのです。「風流蛙大合戦之図」も、そうしたカモフラージュの末に生まれた作品でした。

版元は架空の版元「スハ井」とし、画号も「狂人・狂者」に変化させられています。こうした工夫とともに当時の事件を描いた風刺精神が、河鍋暁斎の人気絵師としての地位を不動のものにしたのです。

2.河鍋暁斎の代表的作品

・「風神雷神図」

風神雷神図

・「古木寒鴉図」

古木寒鴉図

・「花鳥図」

花鳥図

・「風流蛙大合戦之図」

風流蛙大合戦之図

・「横たわる美人と猫」

横たわる美人と猫

・「動物群舞図」

動物群舞図

・「僧正坊 鞍馬天狗 牛若丸」

僧正坊 鞍馬天狗 牛若丸

・「明治元戊辰年五月十五日 東台戦争落去之図」

明治元戊辰年五月十五日 東台戦争落去之図

・「耕雲斎筑波山籠」

耕雲斎筑波山籠

・「今昔未見 生物猛虎之真図」

今昔未見 生物猛虎之真図

・「応需暁斎楽画 第一号 地獄の文明開化」

応需暁斎楽画 第一号 地獄の文明開化

・「応需暁斎楽画 第二号 榊原健吉山中遊行之図」

応需暁斎楽画 第二号 榊原健吉山中遊行之図

・「応需暁斎楽画 第三号 化化学校」

応需暁斎楽画 第三号 化化学校

・「応需暁斎楽画 第四号 極楽と地獄の開化」

応需暁斎楽画 第四号 極楽と地獄の開化

・「応需暁斎楽画 第五号 不動明王開化」

応需暁斎楽画 第五号 不動明王開化

・「応需暁斎楽画 第六号 伊蘇普物語第一 獅子恋幕ノ話」

応需暁斎楽画 第六号 伊蘇普物語第一 獅子恋幕ノ話

・「応需暁斎楽画 第九号 地獄太夫がいこつの遊戯をゆめに見る図」

応需暁斎楽画 第九号 地獄太夫がいこつの遊戯をゆめに見る図

・「応需暁斎楽画 第十一号 或る喇叭の者とりこになりて」

応需暁斎楽画 第十一号 或る喇叭の者とりこになりて

・「応需暁斎楽画 第十五号 翁社中ヲ集テ業ノ上下ヲ見玉ウノ図」

応需暁斎楽画 第十五号 翁社中ヲ集テ業ノ上下ヲ見玉ウノ図

・「閻魔庁図」

閻魔庁図

・「大和美人図」

大和美人図

・「閻魔大王浄玻璃鏡図」

閻魔大王浄玻璃鏡図

・「十二ケ月之内 五月」

十二ケ月之内 五月

・「閻魔奪衣婆図」

閻魔奪衣婆図

・「閻魔と地獄太夫」

閻魔と地獄太夫

・「新板かげづくし天狗の踊り」

新板かげづくし天狗の踊り

・「髑髏と蜥蜴」

髑髏と蜥蜴

・「梟と狸の行列」

梟と狸の行列

・「猫と鯰」

猫と鯰

・「骸骨図」

骸骨図

・「白鷺と猿図」

白鷺と猿図

・「鶏と獺(かわうそ)」

鶏と獺

・「月に狼」

月に狼

・「天狗の鼻切り」

天狗の鼻切り

・「耳長と首長」

耳長と首長

・「幽霊図(生首を咥えた幽霊)」

幽霊図・生首を咥えた幽霊

・「九尾の狐図屏風」

九尾の狐図屏風

・「北海道人樹下午睡図」

北海道人樹下午睡図

・「美人観蛙戯画」

美人観蛙戯画

・「達磨の耳かき図」

達磨の耳かき図

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