「私は虫。虫は私」と言った熊田千佳慕は、「私は草木の精」と言った牧野富太郎と似ている。

フォローする



熊田千佳慕

現在放送中のNHK朝ドラ「らんまん」の主人公槙野万太郎のモデルとされる植物学者牧野富太郎(1862年~1957年)は、「日本植物学の父」と呼ばれるように植物の新種発見や分類・命名で有名ですが、植物の細密画(ボタニカルアート)も得意としていました。「私は植物の愛人として生まれて来た。あるいは草木(そうもく)の精かも知れん」と語り、94歳の天寿を全うしました。

一方、熊田千佳慕は昆虫の細密画の大家で、自ら「私は虫である。虫は私である」「花と語り、虫と遊び、絵を描いて暮らしている」と語り、98歳の天寿を全うしました。何だかよく似ていますね。

前に「熊田千佳慕は昆虫と花の細密画の天才画家で日本のプチファーブルの異名も」という記事を書きましたが、今回は熊田千佳慕の人物像と生涯について詳しくご紹介したいと思います。

1.熊田千佳慕とは

熊田千佳慕

熊田千佳慕(くまだ ちかぼ)(1911年~2009年)は、神奈川県横浜市出身のグラフィックデザイナー・絵本画家・挿絵画家・童画家で、本名は熊田五郎(くまだ ごろう)です

兄は詩人の熊田精華(くまだ せいか)(1898年~1977年)で、野尻抱影(のじり ほうえい)(1885年~1977年)の親友でした。その関係で野尻抱影の実弟で作家の大佛次郎(おさらぎ じろう)(1897年~1973年)とも親交があり、熊田千佳慕も大佛次郎に可愛がられたそうです。熊田千佳慕のオシャレの先生は大佛次郎だそうです。

ペンネーム「千佳慕」の由来は、絵本の挿絵を描いた際、孫のために絵本を買った読者(姓名判断をする老人)から「この名前(本名の五郎)は縁起が良くない」と言われたことから改名しました。 名前の意味は「千人の佳人 (美人)から慕われる」だそうです。

熊田千佳慕は貧乏が続いても常に前向きで明るい性格で、茶目っ気たっぷりで人から愛される(好かれる)人柄(「愛されキャラ」)だったようです。(この点でも、ピュアで天真爛漫で人に好かれる性格だった牧野富太郎とよく似ていますね。)

昆虫と花の細密画の天才画家で、「日本のプチファーブル」の異名もあります。

熊田千佳慕は、「ファーブル昆虫記」の挿絵に代表される、自然の中の虫や草花を描き続けた画家です。彼の描く絵は「生きている」と評されるほど、細部に至るまで忠実で躍動感に満ちています。

彼は地面に這いつくばり、顔をギリギリまで近づけて、虫に愛情を注ぎながら虫の目と同じ高さの視点で観察を続けました。そして脳裏に焼きついた虫の姿を、繊細な点と線を何回も塗り重ねる独特の画法で描いたのです。

このスタイルになったきっかけは彼が学生の頃、軍事教練でのこと。腹這いになって撃つ練習をしていた時、草むらからコオロギなどが出てきたのを見て、「虫の世界は、自分の目をそこまで下げないと見えない」と考えたからだそうです。

この姿勢も、しゃがんで(あるいは腹ばいになって)植物の高さと同じ目線でじっくり間近で観察して植物の細密画を描いた牧野富太郎とよく似ていますね。

点描技法は、彼が普通の画家のように、何度も描いて消すというやり方ができなかったため、じっと見つめて点をとりながら見極めてから書くようになったものです。

物資が不足し、消しゴムもなく、安易な線も引けない状況で「ものをよく見て、見つめて、見きわめる」というプロセスを「神さまから授かった」と彼は語っています。

また、彼の配色技法は、戦中、空襲の焼け跡から出てきたカチコチの絵具を、色鉛筆のようにして使ったことから、この技法が生まれました。
下の色が上に出てくる特色を生かし、柔らかく立体的に見えるように表現しました。

2.熊田千佳慕の生涯

熊田千佳慕

彼は1911年(明治44年)7月21日、現在の横浜市中区住吉町に生まれました。父・熊田源太郎は耳鼻科医、長兄・精華は開港派の詩人。父親は洋行帰りの開業医で、ハイカラな港町・横浜で少年時代を過ごしました。

上の熊田千佳慕の写真は、何だか下の牧野富太郎の写真とよく似ていますね。

牧野富太郎

家は裕福でしたが幼少期は病弱で、「10歳まで生きられないだろう」と言われていたそうです。(ちなみに、牧野富太郎も家は裕福な造り酒屋でしたが幼少期は病弱でした。)そのため、外に出ることが許されず、一日中庭で虫を見たり、家の中で絵を描いたりして過ごしました。その頃から、虫や草花が一番の友達だったのです。(虫や草花などの自然と戯れて天真爛漫だったところも、牧野富太郎とよく似ていますね。)

虚弱児だった幼稚園児の頃のある日、父からファーブル先生の話を聞きました。フランスには、虫の生活や性質などをこまかに観察して「昆虫記」という本を書き、世界の人々に知らせてくれた偉い先生がいるという話でした。

とっさに彼は「虫たちと遊んでいれば、虫の偉い先生になれるんだね。お父さん」と言って目を輝かせて飛び回ったそうです。

彼は観察対象の目の高さの姿勢で至近距離まで接近してじっくり観察し、対象と一体化・同一化して「私は虫である。虫は私である」と語っています。(これは「私は植物の精」と自称した牧野富太郎とよく似ていますね。牧野富太郎は植物採集に熱中して野山を駆け回ったりしています。そして寺子屋に通うようになった頃には体が丈夫になったそうです。)

1917年(大正6年)、横浜市立尋常小学校に入学。1923年(大正12年)、関東大震災で被災したため生麦に転居、鶴見町立鶴見小学校に転入します。

1924年(大正13年)、神奈川県立工業学校図案科に進学、在学中は博物学教諭の宮代周輔(みやしろ しゅうすけ)(1888年~1969年)に影響を受けます。

この宮代周輔は、「エンマ」と呼ばれるくらい怖い先生でしたが、彼には特に目をかけてくれたそうです。授業の時、ほかの生徒たちは文字でノートを取りますが、彼は全て絵で描いていました。植物だったら、花びらや雄しべ・雌しべなどをページいっぱいに描いたのです。

これを見た「エンマ先生」は、驚いてみんなに見せ、「こんなノートを見たのは初めてだ」と言って激賞したそうです。これがきっかけで、「エンマ先生」がいる博物室への出入りが自由になり、標本にも自由に触れるようになりました。また、休日には「エンマ先生」の植物採集にお供して、たくさんのことを学んだそうです。

この「エンマ先生」こと宮代周輔先生は植物の研究家で、のちに12万点に及ぶ膨大な植物標本を収集しました。それらは「横浜市こども植物園」に寄贈され、現在も「宮代コレクション」として大切に保管されています。(これも何だか牧野富太郎によく似た話ですね。)

またシュールレアリスムに傾倒し、前衛的な金工作家の高村豊周(たかむら とよちか)(1890年~1972年)に憧れるようになります。ちなみに高村豊周は彫刻家・高村光雲の三男で、高村光太郎の弟です。

なお神奈川県立工業学校図案科在学中に、校内の便所掃除をしている不審な男を発見し、職員室に通報する事件が起きました。現代なら「学校内への不審者侵入」としてニュースにもなりそうな出来事です。実はこの不審な男の正体は、「一燈園」を創始した宗教思想家で後に参議院議員にもなった西田天香(にしだ てんこう)師(1872年~1968年)だったのです。

西田天香師は、一切の財産も家も持たず、路頭に立ち、便所掃除などの奉仕活動をしながら、全国を回っていたのです。「人はみな、自分の欲を捨てて、他人のために捧げて生きなさい」と説き、俳人尾崎放哉をはじめ多くの人々に影響を与えましたが、彼も感化を受けました。

1929年(昭和4年)には東京美術学校鋳造科に入学。同期の学生には、1970年の大阪万博の「太陽の塔」や「芸術は爆発だ!」という言葉で有名な岡本太郎(1911年~1996年)がいました。

なお岡本太郎は、東京美術学校洋画科に入学しましたが、父親(岡本一平)のロンドン軍縮会議取材に伴い一家で渡欧することになり、半年で中退しています。

在学中から、日本の商業デザインのパイオニア・山名文夫(やまな ふみお)(1897年~1980年)(兄・精華の親友)に師事し、卒業を待たずに名取洋之助(なとり ようのすけ)(1910年~1962年)が社長をつとめた制作集団・日本工房に入社します。銀座・交詢社ビルにあったオフィスを舞台に、同僚のカメラマン・土門拳(どもん けん)(1909年~1990年)らと数々のデザインの仕事を手がけました。

ちなみに山名文夫は、大正期から昭和初期にかけてのモダンなアール・デコスタイルで知られ、資生堂の意匠部でイラストやデザインを手がけ、有名な「花椿」や「唐草」の模様を作り上げた人物です。新潮社の葡萄のマークや、スーパーマーケットの紀ノ国屋ロゴマークを作ったのも山名文夫です。

日本工房では山名の弟子として、グラフ誌『NIPPON』のグラフィックデザイン、レイアウト等を担当します。

山名が日本工房を退社(資生堂に復帰)した1936年(昭和11年)以降は、東京高等工芸学校出身の藤本東五とともに『NIPPON』誌制作に携わりました。

表紙こそ1936年の『NIPPON』日本語版(1936年12月)と11号(1937年5月)の2号のみですが、1936年から1937年の2年間は土門拳とコンビを組んで『NIPPON』のほとんどのレイアウトを手がけています。

土門の出世作となった『NIPPON』8号の「伊豆の週末」、9号の「日本の水兵」などは、いずれも熊田のレイアウトの代表作でもあります。

熊田は土門とのコンビで早稲田大学や女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の卒業アルバムの制作も手掛けました。

1937年(昭和12年)10月以降、日本工房は河野鷹思(こうの たかし、本名・河野孝)(1906年~1999年)・亀倉雄策(かめくら ゆうさく)( 1915年~1997年 )らが本格的にデザインに加わり、熊田は折り本『日本』の制作を自宅で手がけるようになります。

しかし、完成を見た翌年3月頃より後は体調を崩し、以降、日本工房の仕事はあまり行いませんでした。1939年(昭和14年)末には日本工房を退社。

このように熊田はグラフィックデザイナーとしての才能を発揮していましたが、体調を崩して日本工房を退社したこともあり、日本グラフィックデザイナー協会初代会長になった亀倉雄策や仏像写真やポートレート写真で名高い写真家・土門拳のように有名にはなれませんでした。

1941年(昭和16年)7月に召集令状(赤紙)が来て入隊しますが、病気のため9月には除隊。1943年(昭和18年)には神奈川県立工業学校の同級生であった高橋錦吉の薦めで日本写真工芸社に入社しています。1945年(昭和20年)に結婚しますが、その8日後には横浜大空襲で父親を失います。

第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)に、日本工房時代の同僚の信田富夫氏の紹介でカネボウに入社し、写真とデザインを担当することになりました。しかし1949年(昭和24年)にはカネボウを退社し、挿絵や絵本のための画家に転身して活躍します

熊田千佳慕

1949年には絵本『みつばちの国のアリス』で児童書装丁賞を受賞。以来「子供たちによい絵本を読ませてあげたい」と、一転して絵本作家の道へ進み、『ふしぎの国のアリス』の日本初の絵本や、『みつばちマーヤ』『オズの魔法つかい』といった名作の挿絵を描いています。

1枚の絵に徹底して時間をかけ、細い筆で一本一本繊細に描き込む驚異的な細密描写のため、1冊の挿絵に1年も2年もかけましたので、生活は困窮したそうです。

70歳になるまでは、全くの無名で「ずっと暗いトンネルの中」でした。しかし、一度も他の仕事に就こうとはせず、奥さんにも固く禁じてきたそうです。

(牧野富太郎も、小学校中退という学歴のために東京大学理学部植物学教室の教授などから何度も排斥運動などの嫌がらせや差別を受けながらも、それに耐えて植物学一筋に生き、やがてその能力や真価が認められるようになりましたが、そのような姿もよく似ていますね。)

絵を売れば生活も少しは楽になるのに、一枚も絵を売ろうとはせず、パリのユネスコ本部が、「いくらでも好きな値段を付けてくれ」と申し出ても拒否したそうです。

戦争が終わり、彼は絵本画家となりましたが、さらなる貧乏生活の幕開けとなります。1枚の絵に何年もかける、絵が細密すぎて印刷屋に嫌がられる、描いた絵は決して売らない……。

(この「絵が細密すぎて印刷屋に嫌がられる」というのも、牧野富太郎の植物の細密画と似ていますね。)

「埴生の宿(はにゅうのやど)」と名付けたボロボロの家でひたすら描き続け、いつの間にか70歳。ずっと貧乏。格式高い賞を受賞しても、展覧会が大成功しても、ずっと貧乏でした。それでも、画家・熊田千佳慕の名は高まり、テレビ番組でも取り上げられるようになりますが、やっぱり貧乏。

(牧野富太郎も金銭感覚に乏しくお金に無頓着で、妻に大変な苦労をかけました。)

しかし、うそやごまかしの無い、徹底した観察に基づいたリアルな画法は評判を呼び、絵本のみならず、花や虫、動物などを描いた図鑑、ファンタジーのシリーズなど作品を次々に生み出しました。

花や昆虫といった自然界を対象とした作品が多く、ジャン・アンリ・ファーブルの『昆虫記』をテーマにした『ファーブル昆虫記』などが代表作です。

彼は60歳頃から、『ファーブル昆虫記』を描くことをライフワークとし、完成を目指して日々昆虫を描き続けました。

70歳となった1981年(昭和56年)には『ファーブル昆虫記』の虫たちを描いた作品でイタリアのボローニャ国際絵本原画展に入選、1983年にも入選しました。

1989年(平成元年)には『Kumada Chikabo’s Little World』全7巻により小学館絵画賞(第38回)を受賞しました。

1991年(平成3年)に横浜市文化賞、1996年(平成8年)に神奈川県文化賞を受賞しました

2009年(平成21年)8月、白寿を記念して「プチファーブル・熊田千佳慕展」が東京松屋銀座で開催され、その開催2日目の8月13日未明、誤嚥性肺炎のため自宅にて死去しました。享年98。

熊田千佳慕は、グラフィックデザイナーとして活躍した時期もありましたが、やはり彼が本領を発揮したのは「昆虫と花の細密画」でした。彼には紆余曲折はあったものの、自分が「天職」と信じるものにたどり着いた感じがします。(牧野富太郎は幼いころから植物画や植物学一筋ですが、それを自らの「天職」と信じていたところが似ているように私は思います。)

なお、熊田千佳慕が自らの人生を軽妙な筆致で綴った一代記『熊田千佳慕のハイカラ人生記』は、童話のような大変面白い読み物ですので、ぜひご一読されることをお勧めします。


熊田千佳慕のハイカラ人生記 [ 熊田千佳慕 ]

3.熊田千佳慕の作品

熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕熊田千佳慕展熊田千佳慕

熊田千佳慕

熊田千佳慕熊田千佳慕


クマチカ先生の図鑑画集 [ 熊田千佳慕 ]

ファーブル昆虫記の虫たち(1) [ 熊田 千佳慕 ]

野の風・花の風 熊田千佳慕の理科系美術絵本 [ 熊田千佳慕 ]