枯山水の庭(石庭)の砂の筋目(砂紋)の入れ方とは?龍安寺の石庭の謎も紹介!

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龍安寺の石庭・秋

皆さんは「龍安寺」などの日本のお寺によくある「枯山水(かれさんすい)の庭」(石庭)をご存知だと思いますが、足跡を付けずにどうやって箒で砂の筋目を入れるのか不思議に思ったことはありませんか?

私はその思いから、ネットで調べてみると、ピッタリの動画が見つかりましたのでご紹介します。

あわせて、世界文化遺産「古都京都の文化財」の一角を担う名刹・龍安寺の石庭の謎についてもご紹介します。

1.枯山水の庭(石庭)の砂の筋目(砂紋)の入れ方

これは、妙心寺・退蔵院の石庭の砂紋の入れ方を紹介した動画です。

ちなみに枯山水の庭の「砂紋(さもん)」は、砂漠や砂丘で風によってできる自然現象の砂紋(風紋)とは異なるため、「箒目(ほうきめ)」とも呼ばれます。

「箒目」には、井桁紋 網代紋 青海波紋、渦巻紋 曲線紋などの種類が存在します。

2.「龍安寺の石庭」について

(1)「龍安寺の石庭」の紹介ビデオ

①春

②秋

③冬

(2)「龍安寺の石庭」とは

京都市の北西に位置する衣笠山の麓に、白砂の石庭で有名な、世界文化遺産にも登録されている「龍安寺(りょうあんじ)」があります。「龍安寺」を「りゅうあんじ」と読む人が意外と多いのですが、正しくは「りょうあんじ」です。

龍安寺は「応仁の乱」の東軍の総大将であった細川勝元(1430年~1473年)が1450年(宝徳2年)に創建した禅宗寺院です。この龍安寺にたくさんの観光客が訪れる理由は、やはり、禅の境地を表現しているとされる「石庭」に魅力があるからでしょう。

ただし、日本人の国民性である「同調圧力」によって、何もわからなくても有り難がる一面もあると私は思います。

花の池と称せられる「鏡容池(きょうようち)」を見ながら進むと、庫裏(くり)があり、さらに先に進んだ方丈の南側に、白砂が敷き詰められた「龍安寺の石庭」があります。

この名高い石庭は正式には「方丈庭園」といいます。方丈の広縁に腰を降ろして眺める石庭は東西の幅が25メートル、奥行きが10メートルの長方形で、その面積は約75坪。畳にすると150畳程の広さがあります。

(3)15個の石に隠された謎

そこに敷き詰められた白砂には、あたかも大海がうねるかのような波模様の筋目がつけられ、そこに15個の石が置かれています。

石は東から5個、2個、3個、2個、3個と置かれていて、その数から「七五三の庭」とか「虎の子渡しの庭」と呼ばれています。

七・五・三はめでたい数とされ、祝儀事によく用いられる数で、男の子が3歳と5歳、女の子なら3歳と7歳を祝う「七五三」も、その一例です。

石の配列は一見、無造作に見え、白砂と石以外は何もありません。この殺風景にも思える空間は、日本人が持っている独特の研ぎ澄まされた感性を表し、宇宙を表現していると言われています

ところで、この15個の石の配置には不思議なことがあります。それは一度にすべての石を見ることができない配置になっているということです。

庭のどの位置から眺めても、15個の石のうち、必ず1個は他の石に隠れて見ることができないのです。もちろん、空から見れば当然、15個すべての石を一度に見ることはできますが、この庭が作られた当時は空から見るという発想はなく、本来の庭の見方から逸脱したものです。

15という数十五夜、つまり満月に結びつけられ、それは「完全」を意味するとされています。

しかし、この世には完全というものは存在せず、ものごとは完成した時点から崩壊が始まるという思想のもと、この石庭の作者は15個の石を置きながらも、完全とされる数の15にひとつ足りない14個の石しか見えるように設計したのではないかと言われています。

(4)石庭に施された工夫

このように石庭は極めてシンプルな庭ですが、いろいろと工夫が施されています。

例えば、一見、水平に見える石庭ですが、実際には庭の手前左角から右奥角へ向かって低く作られています。これは排水のためで、傾斜をつけることで雨水などが石庭に溜まらないようにしているのです。

また、石庭を囲っている土塀は、見た目にはお世辞にも綺麗とは言えない色合いをしていますが、これは土に菜種油を入れて練られた油土塀というもので、白砂からの照り返しの防止風化を防ぐ効果があります。

さらにこの土塀には、ある仕掛けがされています。この油土塀は左(東)から右(西)へ向かうに従って、塀の高さが低くなっています。これは遠近法の原理を取り入れた工法で、これによって視覚的に奥行きを感じさせ、庭全体を実際より広く見せるというトリック効果を生んでいます。

(5)「龍安寺の石庭」最大の謎

龍安寺の石庭は室町時代に作られたとされていますが、作者が誰なのかが未だにわかっていません。開山の義天玄承(ぎてん げんしょう)、寺の建立者である細川勝元その実子の政元絵師の相阿弥(*)茶人の金森宗和(かなもり そうわ)など、様々な人物の名前が上げられています。なかでも多くの造園を手掛けた相阿弥説が有力ですが、どれも確証はないようです。

(*)相阿弥(そうあみ)(生年不詳~1525年)とは、は室町時代の絵師・鑑定家・連歌師です。姓は中尾、名は真相(しんそう)、号は松雪斎・鑑岳。父は芸阿弥、祖父は能阿弥。

祖父・父に引き続いて足利将軍家に同朋衆として仕え、唐物奉行も務めました。阿弥派の絵画の大成、書院飾りの完成、書画の管理・鑑定、造園、香、連歌、茶道など多方面で活躍しました。

狩野正信に対して画題・画本の選択や画事の相談を行なったりもしています。更に正信の子・狩野元信は、墨の調子を相阿弥に学ぶべきだと忠告されたとの話もあります。

画家としては三条西実隆『実隆公記』や景徐周麟『翰林葫蘆集』でその活躍が記され、「国工相阿」と称されています。また『翰林葫蘆集』には相阿弥の描いた書斎図に題して、「(原叔首座が)国工相阿に絵を請い、且つ又予に就て賛詞を求む」とあります。

一般に五山文学において、絵師に画を求める時の常套的な表現は「工に命じて」描かせるというもので、絵師の名さえ記されないのが通例です。それに比べ、ここでの「我が国の名画工相阿弥に頼んで描いて貰った」という表現は、非常に丁寧であり、相阿弥の画技は一般の職業画工より高いランクが与えられていたことがわかります。弟子に単庵智伝がいます。

鑑定家としての側面を見ると、『蔭涼軒日録』には相阿弥が唐物の値付けをしている記述が頻出します。「応仁の乱」以降、東山御物の名品が市場に流出し、堺の豪商や町衆たちの手に渡るといった流行が起きており、相阿弥もこうした時流に直接関わっていったと想定できます。

永正8年(1511年)には150人ほどの中国画家列伝と座敷飾りの図入り解説、香合や茶碗などの唐物の説明から成り立つ『君台観左右帳記』、大永3年(1523年)には座敷飾りの方式をまとめた『御飾記』を著しました。大永5年(1525年)10月27日死去。享年は70前後とされます。

彼の作庭になる庭園は以下の通りです。

・青蓮院築山泉水庭

・龍安寺方丈庭園(諸説あり)

・慈照寺庭園

・長楽寺庭園

・願泉寺庭園

そういう中で興味深いのは、左から二番目の石の裏に刻まれていた「小太郎・▢二郎」という2人の名前。1人は小太郎と判読できましたが、もう1人は最初の文字が消えてしまっていて、名前がはっきりしません。

一般的に庭の作庭者は1人とされているので、2人が作庭者である可能性は低いと考えられますが、ただ、石に名前が刻印されていたということは、少なくともこの2人が石庭の何かに関係していた可能性は十分に考えられます。

いずれにせよ、これだけ有名な石庭でありながら、作った人物が未だにわからないとは、まさに龍安寺石庭の最大の謎と言えるでしょう。

(6)解釈は見る人それぞれの自由

このように謎の多い石庭ですが、その解釈は見る人に任されています。石庭に対峙する人の自由な解釈によって、石庭は人の心の中でさまざまな形に変化するのです。あなたも石庭に向き合って、語りかけてくる石庭の声を心で感じてみてはどうでしょうか?

これは「」「禅の公案」や「瞑想」に通じるもので、「心の平静(peace of mind)」に役立つものだと私は思います。