幕末から明治にかけて、欧米の技術・学問・制度を導入して「殖産興業」と「富国強兵」を推し進めようとする政府や府県などによって雇用された多くの外国人がいました。
彼らは「お雇い(御雇)外国人」(あるいは「お抱え外国人」)と呼ばれました。
当時の日本人の中からは得がたい知識・経験・技術を持った人材で、欧米人以外に若干の中国人やインド人もいました。その中には官庁の上級顧問だけでなく単純技能者もいました。
長い鎖国時代が終わり、明治政府が成立すると、政府は積極的にアメリカ、ヨーロッパ諸国に働きかけて様々な分野の専門家を日本に招き、彼らの教えを受けて「近代化」を図りました。
当時の日本人にとって、「近代化」とはイコール「西洋化」のことでした。その結果、1898年頃までの間にイギリスから6,177人、アメリカから2,764人、ドイツから913人、フランスから619人、イタリアから45人の学者や技術者が来日したとされています。
彼らは「お雇い外国人」などと呼ばれ、本格的な開拓が必要だった北海道はもちろん、日本全国にわたって献身的に日本に尽くし(中には傲慢な人物や不埒な者もいたようですが)、政治・経済・産業・文化・教育・芸術など多くの分野で日本の「近代化」に貢献するとともに、日本人の精神に大きな影響を与えました。
主にイギリスからは「鉄道開発・電信・公共土木事業・建築・海軍制」を、アメリカからは「外交・学校制度・近代農業・牧畜・北海道開拓」などを、ドイツからは「医学・大学設立・法律」など、フランスからは「陸軍制・法律」を、イタリアからは「絵画や彫刻などの芸術」を学びました。
そこで、シリーズで「お雇い外国人」をわかりやすくご紹介したいと思います。
第13回はエドワード・S・モースです。
1.エドワード・S・モースとは
エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse)(1838年~1925年)は、アメリカの動物学者です。名字の「モース」は「モールス」とも書かれます。
「腕足動物(わんそくどうぶつ)」(*)の標本採集のために来日し、請われて東京帝国大学で動物学の「お雇い教授」を2年務め、大学の社会的・国際的姿勢の確立に尽力しました。
(*)「腕足動物」とは、2枚の殻を持つ海産の底生無脊椎動物です。シャミセンガイ、チョウチンガイなどと呼ばれるものを含みます。一見、二枚貝に似ていますが、貝類を含む軟体動物門ではなく、独立の腕足動物門に分類されます。
大森貝塚を発掘し、日本の人類学・考古学の基礎を作りました。また、日本に初めてダーウィンの進化論を体系的に紹介しました。
2.エドワード・S・モースの生涯
(1)若年期
モースは、1838年にメイン州ポートランドで生まれました。父は会衆派教会の助祭で厳格なカルヴァン主義者でしたが、母は夫の宗教的信念を共有しておらず、子供の科学への興味を奨励しました。
最初にポートランドの村の学校、1851年にニューハンプシャー州コンウェイのアカデミー、1854年にブリッジトン・アカデミーに通いましたが、手に負えない学生だったモースは全ての学校から退学させられました。
ブリッジトンアカデミーの退学理由は、机に彫刻をしたためでした。その後、メイン州ベテルのグールド・アカデミーに通いましたが、ここでモースはナサニエル・トゥルーと出会い、トゥルーから自然研究への興味を追求するように勧められました。
モースは、貝やカタツムリを求めて大西洋の海岸を探検したり、動物相や植物相を研究するために野に出かけることを好みました。そして、正式な教育を受けていなかったにもかかわらず、思春期の間に形成されたコレクションは、すぐにボストン、ワシントン、さらにはイギリスの著名な科学者が見に来るほどになりました。
モースは12歳になるまでにカタツムリの新種を発見しました。1854年、18歳で博物学協会に入会。1857年に新種のカタツムリを協会誌上に報告しました。
若い頃は、ポートランド機関車会社の機械製図技師、ボストンの会社の木彫職人として働いていました。
ダーウィンの『種の起源』が出版された1859年、フィリップ・ピアサール・カーペンターがモースの知的資質とデッサン力を認めて、ハーバード大学比較動物学博物館のルイ・アガシーに推薦し、1861年まで軟体動物や腕足類のコレクションの保存、記録、デッサンを担当する助手を務めました。
アガシーの教えを受ける中で、アガシーが腕足類を擬軟体動物に分類していたのを疑問に思ったのが、腕足類研究を思い立ったきっかけでした。アガシーやジェフェリーズ・ワイマンの講義を聴き、ワイマンの貝塚発掘にも関係し、生物学界に人脈も作りました。
南北戦争中、第25メイン歩兵隊に入隊しようとしましたが、慢性的な扁桃腺感染症のために断念しました。
1863年6月18日、ポートランドでエレン・エリザベス・オーウェンと結婚しました。2人の間には子供が2人生まれました。
講演が得意で、その謝礼金が生活を助けました。1867年、ジョージ・ピーボディの寄付を得て、3人の研究仲間とセイラムに『ピーボディー科学アカデミー』(1992年以降のピーボディ・エセックス博物館)を開き、1870年まで軟体動物担当の学芸員を務めました。1868年、セイラムに終生の家を構えました。
1871年、大学卒の学歴がないにもかかわらず、31歳でボウディン大学教授に就任し、ハーバード大学の講師も兼ねながら、1874年までボウディン大学で過ごしました。
1872年から「アメリカ科学振興協会」の幹事になりました。
(2)来日
進化論の観点から腕足動物を研究対象に選び、1877年(明治10年)6月、腕足動物の種類が多く生息する日本に渡りました。文部省に採集の了解を求めるため横浜駅から新橋駅へ向かう汽車の窓から、貝塚を発見しました。これが、後に彼によって日本初の発掘調査が行なわれる「大森貝塚」です。
訪問先の文部省では、外山正一から東京大学の動物学・生理学教授への就任を請われました。江ノ島に臨海実験所を作ろうとも言われました。
翌7月、東大法理文学部の教授に就任。当時、新設なった東大の外国人教授の大半が研究実績も無い宣教師ばかりだったため、これに呆れたモースは彼らを放逐すると同時に、日本人講師と協力して専門知識を持つ外国人教授の来日に尽力しました。
物理学の教授には、トマス・メンデンホールを、哲学の教授にはアーネスト・フェノロサを斡旋しました。さらに、計2,500冊の図書を購入したり、寄贈を受けたりして、東大図書館の基礎を作りました。
そして江ノ島の漁師小屋を『臨海実験所』に改造して、7月17日から8月29日まで採集し、9月12日から講義を始めました。9月16日、動物学科助手の松村任三や、学生の佐々木忠次郎、松浦佐用彦と「大森貝塚」を掘り始め、出土品の優品を教育博物館に展示しました。9月24日、東大で進化論を講義し、10月には、その公開講演も行いました。
大学での講義や研究の合間を縫って、東京各地を見物し、日光へ採集旅行もしました。これらの間に、多くの民芸品や陶磁器を収集したほか、多数のスケッチを書き残しました。
11月初め、一時帰国しました。東大と外務省の了解を得て、大森貝塚の出土品の重複分を持ち帰りましたが、この出土品をアメリカの博物館・大学へ寄贈し、その見返りにアメリカの資料を東大に寄贈して貰うという、国際交流を実行しました。
(3)二度目の来日
1878年(明治11年)4月下旬、家族を連れて東京大学に戻りました。
6月末浅草で、『大森村にて発見せし前世界古器物』を500人余に講演し、考古学の概要、『旧石器時代』『新石器時代』『青銅器時代』『鉄器時代』の区分、大森貝塚が『新石器時代』に属することを述べ、出土した人骨に傷があり現在のアイヌには食人風習がないから「昔の日本には、アイヌとは別の、食人する人種が住んでいた」と推論しました。演説会の主催および通訳は、江木高遠でした。ただし、講演の中の『プレ・アイヌ説』は、考古学の主流になりませんでした。
7月中旬から8月末まで、採集に北海道を往復しました。この間函館にも『臨海実験所』を開いています(矢田部良吉「北海道旅行日誌」鵜沼わか『モースの見た北海道』1991年)。
10月の『東京大学生物学会』(現在の『日本動物学会』)の発足に関わりました。これは日本初の学会です。
この滞日期には、『進化論』(4回)、『動物変進論』(3回)、『動物変遷論』(9回)の連続講義を始め、陸貝、ホヤ、ドロバチ、腕足類、ナメクジ、昆虫、氷河期、動物の生長、蜘蛛、猿、などに関する多くの学術講義や一般向け講演をしました。江木高遠が主宰した『江木学校講談会』の常任講師でした。(『動物変遷論』は、1883年、モースの了解のもとに石川千代松が、『動物進化論』の名で訳書を出版しました。)
貝塚の土器から興味が広がり、1879年初から、蜷川式胤に日本の陶器について学びました。5月初めから40日余、九州、近畿地方に採集旅行をし、陶器作りの見学もしました。この折に大阪府八尾市の高安古墳群を調査し、開山塚古墳の内部のスケッチを添えた論文「日本におけるドルメン」を発表しています。
1879年7月、「大森貝塚」発掘の詳報、”Shell Mounds of Omori”を、Memoirs of the Science Department, University of Tokio(東京大学理学部英文紀要)の第1巻第1部として出版しました。ときの東大綜理加藤弘之に、「学術報告書を刊行し、海外と文献類を交換するよう」勧めたのです。(この中で使われた”cord marked pottery”が、日本語の『縄文土器』となりました。)
1879年8月10日、冑山(現在の熊谷市内)の横穴墓群を調査し、その31日、東京大学を満期退職し、9月3日、離日しました。後任には、チャールズ・オーティス・ホイットマンを斡旋しました。
この時期、「大森貝塚」発見報告について、『ネイチャー』誌上でフレデリック・ヴィクター・ディキンズに批判されており、モースはダーウィンに書簡を送り、その結果、ダーウィンの推薦文とモースの記事が『ネイチャー』誌に掲載されています。
1880年7月、古巣の『ピーボディー科学アカデミー』の館長となり、講義講演の活動を続けましたが、日本の民具・陶器への執着は衰えませんでした。
(4)三度目の来日
1882年(明治15年)6月初め、家族を残し、日本美術研究家のビゲローと横浜に着きました。東大側は歓迎し宿舎を提供しました。あちこちで講演し、冑山の再訪もしましたが、今回は民具と陶器の収集が目的で、民具は、『ピーボディー科学アカデミー』用でした。大隈重信が、所蔵の全陶器を贈りました。
7月下旬から9月上旬まで、フェノロサ、ビゲローらと、関西・中国へ収集・見学の旅をしました。そして武具や和書も集めたのち、1883年2月、単身離日しました。
(5)帰国
離日後、東南アジア・フランス・イギリスを回って収集し、6月ニューヨークに着きました。集めた民具は800点余、陶器は2900点に上りました。
1884年、「アメリカ科学振興協会」の人類學部門選出副会長、1886年、同協会会長となりました。1887年、1888年、1889年にもヨーロッパへ、学会や日本の陶器探しの旅をしました。
1890年、日本の陶器の約5,000点のコレクションを「ボストン美術館」へ売却して管理に当たり、1901年、その目録(Catalogue of the Morse Collection of Japanese Pottery)を纏めあげました。
(6)晩年
1898年(明治31年)、東京帝国大学(後の東京大学)における生物学の教育・研究の基盤整備、日本初の学会設立などの功績により、日本政府から勲三等旭日中綬章を受けました。
1902年、60歳を越えたモースは、20数年ぶりに動物学の論文の執筆を再開し、1908年に渡米した石川に対しても「私は陶器も研究しているが、動物学の研究もやめない。」と述べるなど、高齢になっても研究に対する執念は尽きませんでした。
1913年、75歳となったモースは、30年以上前の日記とスケッチをもとに、『Japan Day by Day(日本語訳題:日本その日その日)』の執筆を開始。1914年、ボストン博物学会会長となりました。
1915年、『ピーボディー科学アカデミー』から改名した『ピーボディー博物館』の名誉会長になりました。1917年、『Japan Day by Day』を書き終えて出版しました。1922年(大正11年)、日本政府から勲二等瑞宝章を受けました。
1923年、関東大震災による東京帝国大学図書館の壊滅を知り、全蔵書を東京帝国大学に寄付する旨、遺言を書き直しました。
1925年(大正14年)、87歳になってもなお手術後の静養中に葉巻をふかすなど健康でしたが、脳溢血に倒れ、12月20日に貝塚に関する論文を絶筆に、セイラムの自宅で没しました。
遺言により、脳は翌12月21日にフィラデルフィアのウィスター解剖学生物学研究所に献体され、1万2,000冊の蔵書が東京帝国大学に遺贈されました。遺体はハーモニー・グローヴ墓地(Harmony Grove Cemetery)に葬られています。
彼は左右の手で別々の文章や絵を描くことができる両手両利きでした。『Japan Day by Day』に掲載されたスケッチも両手を使って描かれたもので、両手を使うので普通の人より早くスケッチを終えることが出来ました。講演会でも、両手にチョークを持って黒板にスケッチを描き、それだけで聴衆の拍手喝采を浴びるほどでした。脳を献体するという遺言も、両手両利きに脳が与える影響を研究してほしいというモースの希望によるものです。
(7)死後
翌1926年(大正15年)、東京人類学会は『人類学雑誌』第41巻第2号でモースの追悼特集を組み、彼の教育を受けた研究者たちの回顧録が掲載されました。
「大森貝塚」が取り持つ縁で、大田区とセイラム市とは、姉妹都市になっています。
埼玉県熊谷市の石上寺に銅像が設置され、2015年12月20日に除幕式が行われました。
3.エドワード・S・モースの言葉
・正直・節検・丁寧・清潔 日本は一冊の本になる。
・人々が正直である国にいることは実に気持がよい。私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。
錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りしても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。
・日本人の清潔さは驚く程である。
家は清潔で木の床は磨きこまれ、周囲は奇麗に掃ききよめられている。
・レインをはじめ文筆家たちは「日本の住居にはプライバシーが欠けている」と述べている。
しかし彼らは、プライバシーは野蛮で不作法な人々の間でのみ必要なことを忘れている。
日本人は、こういった野蛮な人々の非常に少ない国民である。
・日本人は生れながらに善徳や品性を持っている。
・この地球上の表面に生息している文明人で日本人ほど、自然のあらゆる形況を愛する国民はいない。
・労働の辛さを、気持ちのよい音か拍子かで軽めるとは、面白い国民性である。
・子供が誤って障子に穴をあけたとすると、四角い紙片をはりつけずに桜の花の形に切った紙をはる。
・世界中で日本ほど、子供が親切に取扱われ、そして子供の為に深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。
・赤坊が泣き叫ぶのを聞くことは、めったになく、又私はいま迄の所、お母さんが赤坊に対して癇癪を起しているのを一度も見ていない
・外国人の筆者が一人残らず一致することがある。それは日本が「子どもたちの天国だ」ということである。
4.エドワード・S・モースが見た明治初期の日本の風景
幕末から明治時代にかけて、欧米諸国からやってきた人々は日本論・日本人論をしばしば書き残しており、日本でも翻訳されて読み継がれてきました。そこには、この国の風土や文化への愛着や、あるいは後進性への批判が書かれていることが多くあります。
そうした中でも、大森貝塚を発見したことで知られるエドワード・モースによる『日本その日その日』(講談社学術文庫)は、当時の来日西洋人にありがちな、西洋文明優越主義にとらわれていないことに特色があります。牧野愛子氏による解説では、こう紹介されています。
本書には、明治初期の町の様子と人々の暮らしぶりが、新鮮な筆致で描かれている。一人の研究者らしいすぐれた観察力によって残された明治日本の風景は、記録として貴重なだけではない。
現代の日本人は驚き、同時に郷愁を覚えるだろう。そこに現代日本が忘れ、失いつつある、何か大切なものをみいだす人もいるにちがいない。
モースによる1870年代、明治初期日本の記録を、『日本その日その日』の中から一部ご紹介します。
(1)日光旅行で見た「日本の田舎」
田舎の旅には楽しみが多いが、その一つは道路に添う美しい生垣、戸口の前の綺麗に掃かれた歩道、家内にある物がすべてこざっぱりとしていい趣味をあらわしていること、可愛らしい茶吞茶碗や土瓶急須、炭火を入れる青銅の器、木目の美しい鏡板、奇妙な木の瘤、花を生けるためにくりぬいた木質のきのこ。これ等の美しい品物はすべて、あたり前の百姓家にあるのである。
この国の人々の芸術的性情は、いろいろな方法――極めて些細なことにでも――で示されている。子供が誤って障子に穴をあけたとすると、四角い紙片をはりつけずに、桜の花の形に切った紙をはる。この、綺麗な、障子のつくろい方を見た時、私は我が国ではこわれた窓硝子を古い帽子や何かをつめ込んだ袋でつくろうのであることを思い出した。(『日本その日その日』p.38)
農家はこざっぱりと、趣深く建てられ、そして大きな葺いた屋根があるので絵画的であった。時々お寺やお社を見た。これ等にはほんの雨露を凌ぐといった程度のものから、巨大な萱葺屋根を持つ大きな堂々とした建築物に至る、あらゆる階級があった。
これ等の建築物は、恰もヨーロッパの寺院[カセードラル]がその周囲を圧して立つように、一般民の住む低い家々に蔽いかぶさっている。面白いことに日本の神社仏閣は、例えば渓谷の奥とか、木立の間とか、山の頂上とかいうような、最も絵画的な場所に建っている。聞く処によると、政府が補助するのをやめたので空家になったお寺が沢山あるそうである。
我々は学校として使用されている寺社を幾つか見受けた。かかる空家になったお寺の一つで学校の課業が行われている最中に、我々は段々の近くを歩いて稽古に耳を傾け、そして感心した。(同書p35-36)
(2)寺で見つけた「本当の基督教的精神」
薄暗い寺院の隅々では、涼しそうな服装をした僧侶が動きまわり、人々があちらこちらにかたまって祈祷をしていた。日本人は、私が今まで見たところによると、祈祷をする時以外に熱心そうな表情をしない。寺院の内にある奇妙な物象は、屡々人を驚かし、軽蔑の念をさえ起させる。
この問題に関して米国の一宣教師雑誌は、この宗教的建築物の壁にかかっているある品物――太平洋の便船「シティ・オヴ・チャイナ号」の石版画を額に入れたもの――を捕えて嘲弄の的にした。私はこれを信じることが出来なかった。
それで初めてこの寺院に行った時、特に探したところが、なる程、他の記念品や象徴物の間にはいって壁を飾っていた。それは記叙してあった通り、蒸汽船の、安っぽい、石版の色絵で、よごれた所から見ると何年かそこに掛っていたものらしい。硝子板の横の方に何か五、六行縦に書いてあった。
数日後私は学生の一人と一緒にまた浅草寺へ行って、そこに書いてあることを翻訳して貰うと、大体以下のような事が書いてあるのであった――「この汽船は難船した日本の水夫五人を救助して日本へ送り届けた。外国人のこの親切な行為を永く記念するために、当寺の僧侶がこの絵を手に入れ、当寺の聖物の間にそれを置いた。」
これは日本人が外国人に対して、非常な反感を持っていた頃行われたことで、僧侶達が本当の基督教的精神を持っていたことを示している。そして日本人はこの絵画を大切にする。(同書p83-34)
(3)寛容さと行儀のよさ
大人が寛容で子供が行儀がいい一例として、どんなに変った、奇怪なみなりをした人が来ても、それに向って叫んだり笑ったり、何等かの方法で邪魔をしたりしない。私は帽子として大きな日本の蟹の甲羅をかぶっている人を見たことがある。
これは日本の近海でとれる巨大な蟹で、胴体の長さが一呎以上に達し、爪は両方へ四、五呎もつき出している。この男が歩いて行くのを多くの人が眺め中には微笑した人もあった。殆ど全部の人々が頭を露出しているのに、これはまた奇妙な物をかぶったものである。(同書p.84)
(4)四季と自然の愛し方
この地球の表面に棲息する文明人で、日本人ほど、自然のあらゆる形況を愛する国民はいない。嵐、凪、霧、雨、雪、花、季節による色彩のうつり変り、穏かな河、とどろく滝、飛ぶ鳥、跳ねる魚、そそり立つ峯、深い渓谷――自然のすべての形相は、単に嘆美されるのみでなく、数知れぬ写生図やカケモノに描かれるのである。
東京市住所姓名録の緒言的各章の中には、自然のいろいろに変る形況を、最もよく見ることの出来る場所への案内があるが、この事実は、自然をこのように熱心に愛することを、如実に示したものである。(同書p125)
我々は多くの美しい生垣を通過した。その一つ二つは、二重の生垣で、内側のは濃く繁った木を四角にかり込み、それに接するのは灌木の生垣で、やはり四角にかり込んであるが、高さは半分くらいである。これが町通りに沿うて、かなりな距離並んでいたので、実に効果的であった。
日本の造園師は、植木の小枝に永久的の形がつく迄、それを竹の枠にしばりつけるという、一方法を持っている。私の見た一本の巨大な公孫樹は、一つの方向に、少くとも四十呎、扇のように拡りながら、その反対側は、日光も通さぬくらい葉が茂っていながらも、三呎とは無かった。樹木をしつける点では日本人は世界の植木屋中第一である。(同書p38)
(5)日本人の「ものづくり」
維新から、まだ僅かな年数しか経ていないのに、博覧会[上野公園で開かれた内国勧業博覧会]を見て歩いた私は、日本人がつい先頃まで輸入していた品物を、製造しつつある進歩に驚いた。
一つの建物には測量用品、大きな喇叭、外国の衣服、美しい礼服、長靴や短靴(中には我々のに匹敵するものもあった)、鞄、椅子その他すべての家具、石鹸、帽子、鳥打帽子、マッチ、及び多数ではないが、ある種の機械が陳列してあった。海軍兵学寮の出品は啓示だった。
(中略)学校用品は実験所で使用する道具をすべて含んでいるように見えた。即ち時計、電信機、望遠鏡、顕微鏡、哲学的器械装置、電気機械、空気喞筒(そくとう)等、いずれもこの驚くべき国民がつくったものである。(p126)
機械的の玩具は、常に興味を惹く。構造はこの上もなく簡単で、その多くは弱々しく見えるが、しかも永持ちすることは著しい。図の鼠は皿から物を喰い、同時に尻尾を下げる。横にある竹の発条(ばね )は、下の台から来ている糸によって、鼠に頭と尾とを持上げた姿をとらせているが、発条を押す瞬間に糸はゆるみ、頭と尾がさがり、そして頭は皿を現す小さな竹の輪の中へはいる。鼠には色を塗らず、焦した褐色で表面をつくってある。
日本人はこの種類の玩具に対する、非常に多くの面白い思いつきを持っている。それ等の多くは棒についていて糸で動かし、又は我が国の跳びはね人形のように動く。(p223-224)