日本語の語源には面白いものがたくさんあります。
前に「国語辞典を読む楽しみ」という記事を書きましたが、語源を知ることは日本語を深く知る手掛かりにもなりますので、ぜひ気楽に楽しんでお読みください。
以前にも散発的に「日本語の面白い語源・由来」の記事をいくつか書きましたが、検索の便宜も考えて前回に引き続き、「50音順」にシリーズで、面白い言葉の意味と語源が何かをご紹介したいと思います。季語のある言葉については、例句もご紹介します。
1.洗い/洗膾/洗魚(あらい)
「洗い」とは、刺身の一種で、コイ・コチ・スズキなどの新鮮な白身魚を薄く切り、冷水や氷にさらしたものです。
洗いは、冷水で洗うところから付いた名で、動詞「洗う」の名詞形です。
漢字表記には「洗い」や「洗魚」のほか、「洗膾」があります。
「洗膾」と書くのは、元々「洗い鱠(あらいなます)」と言ったことに由来します。
室町時代末期には、すでに「洗鯉(あらいごい)」という語が存在します。
洗いには上記の魚のほか、フッコ・クロダイ・ボラ・エビ・カニなども材料とされます。
「洗い」は夏の季語で、次のような俳句があります。
・ビードロに 洗ひ鱸(すずき)を 並べけり(正岡子規)
・日中の 盃把(と)りぬ 洗鯉(尾崎紅葉)
・忌に寄りし 身より皆知らず 洗ひ鯉(杉田久女)
2.垢(あか)
風呂に入らないとどんどん溜まっていく「垢」。
最近は「韓国風アカスリ」という垢をこすり取る商売もあるようですね。
「垢」とは、皮膚の上皮が汗や脂、ほこりなどと混じって出る汚れ。水中の含有物が容器などに付着したもののことです。
垢の語源は、「アセカ(汗気)」の意味、「アカ(悪所)」の意味、「アクタ(芥)」の略など諸説あります。
「水垢」や「湯垢」など、水中の含有物が付着したものをいう「垢」の語源には、仏に供える水やその容器を意味する「閼伽(あか)」と関連付けた説もあります。
しかし、「水垢」や「湯垢」は、皮膚の垢から派生した表現であることや、汚れと仏の水には接点がないため妥当ではありません。
「垢」は、中世になると体の汚れだけでなく、汚れを喩えていうようになり、さらに「洗練されいないところ」や「泥臭さ」を意味するようにもなりました。
ここから「垢抜ける」で 「洗練される」という意味で使われるようになったとされています。
3.あだ名/渾名/綽名(あだな)
最近「あだ名で呼ぶことを禁止する」学校が出てきたそうです。理由は「いじめをなくすため」だそうですが、どうもピント外れのような気がします。
「あだ名」とは、その人の容貌、容姿や性質、挙動、習癖などの特徴から本名のほかにつけた別の名前です。ニックネーム。愛称。通称。
愛称名もありますが嘲笑(ちょうしょう)名もあり、本人が承認しない例が多いようです。本人が認めれば人格と不可分のものとなり、通称となります。
あだ名の「あだ」は、「他のものである」「異なっている」という意味の形容詞「あだし」の「あだ」で、外から(他人が)付けた別の呼び名とする説が通説となっています。
しかし、「あだし」が「他の」といった意味で用いられていた時代は「あたし」と清音で、濁音化されてからは「不誠実」や「浮気っぽい」などの意味で用いられているため、あだ名との繋がりが見えません。
その他、あだ名の語源には、中国で男子が元服の際につけて通用させた別名の「あざな(字)」が、「男女関係のうわさ」や「浮名」を意味する「あだな(徒名・仇名)」と音が似ていることから、混同されて別名を「あだ名」と言うようになったとする説もあります。
中国の「あざな(字)」は、日本でも「別名」の意味で用いられていたことから、十分に考えられる説です。
4.あぶく銭/泡銭(あぶくぜに)
「あぶく銭」とは、働かず、また不正なことで儲けた金のことです。「悪銭(あくせん)」とも言います。「悪銭身に付かず」ということわざもあります。
正当でない方法で手に入れたお金は身につかず、泡のように消えてしまうところから「あぶく銭」というようになりました。
「あぶく」は「あわぶく(泡ぶく)」の略。「ぶく」の語源には「吹く」、「ブクブク」という音から、「あわうく(泡浮)」の約転などの説があり、「吹く」が有力とされています。
ただし、動詞が語末にきて名詞化する場合、普通は「いぶき(息吹)」「しぶき(飛沫・繁吹き)」のように連用形であるため、断定はできません。
5.危ない(あぶない)
「危ない」とは、危険だ、悪い結果・状態になりそうだ、信頼できない、不確かだということです。
あぶないの「あぶ」は、「あやふし・あやぶし(危うし)」の語幹「あやふ・あやぶ」の縮約です。
あぶないの「ない」は、意味を強める形容詞的接尾語で、古くは「なし」。
元々は、類義語である「危うい」が文語的表現で、「危ない」は口語的表現でした。
「危」の「厂」は「がけ(崖)」を表し、その上下は人がしゃがんでいるさまで、「危」の漢字は、危ない崖にさしかかり、人がしゃがみこむ姿を表したものです。
6.飴(あめ)
「飴」とは、米や芋などのデンプン含有材料を糖化させた、粘り気のある甘い食品です。砂糖などの糖類を煮詰めて冷却し固めたキャンディーです。
飴は「あまい(甘い)」の「あま」が交替した語です。
古く中国から伝来したといわれ、『日本書紀』に飴が作られていたとの記述があることから、720年以前には存在していたことがわかります。
当時の飴は現在の水飴のようなもので、「阿米」の表記が見られることから、米が原料であったと推測されます。
現代の飴には様々な着色がなされていますが、水飴は透明、良質なものであれば半透明な黄褐色で、このような水飴の色を「飴色」といいます。
古くから珍重されていた飴は、菓子としてだけではなく調味料や滋養食品としても用いられ、神仏への供え物にもされていました。
飴が一般に食べられるようになり、様々な種類の飴が売られるようになるのは近世以降のことで、「飴細工」も江戸時代以降に作られ始めたものです。
漢字「飴」の「台」は、人工を加えて調整するという音符で、穀物を人工的に柔らかくし、甘くした食品を表した文字です。
関西では大人でも、「飴ちゃん」と接尾語を伴なった呼び方をします。
「飴ちゃん」と呼ぶ理由は、「雨」との区別とも言われますが、関西では「お芋さん」や「お粥さん(おかいさん)」などの食べ物や、「おはようさん」や「ありがとさん」などの挨拶語にも「さん」を付けているため、その流れと考えられます。ただし、飴以外は「さん」なので、「ちゃん」が付くのは珍しいケースです。
「豆」は「お豆さん」と言うので、小さいものだから「ちゃん」という訳でもなさそうです。
おかずとして出される食品より身近な菓子であることや、関西人は飴の携帯率が高く、より身近な物であることから、飴だけが「ちゃん」付けされて呼ばれるようになったのではないかと思われます。
7.新しい
「新しい」とは、今までにはない、初めてだ、できて間もない、従来のものとは違うという意味です。食べ物などが新鮮である意味でも使われます。
「あたらしい(新しい)」の本来の語形は「あらたし」で、「あらたむ(改む)」「あらためる(改める)」などと同源です。
平安初期頃から、「あらたし」が音変化して「あたらし」となり、「あたらしい」になりました。
「あらたしい」から「あたらしい」になったと言われることもありますが、形容詞が「しい」の形になる以前の変化なので厳密には間違いです。
上代の「あたらし」は、別語として「惜しい」「もったいない」の意味で用いられています。
「惜しい」意味の「あたらし」と、「新しい」を意味する「あらたし」が混同され、「た」と「ら」が入れ替わったものか定かではありませんが、「あらたし」が音変化した以降、「惜しい」意味の「あたらし」は使用が減り、現在では、わずか「あたら若い命を散らす」の表現にのみ用いられます。
なお、本来の語形の「あらたし」は、形容動詞や副詞では「あらたなる」「あらた」の形で、「た」と「ら」の入れ替えがないまま現在でも用いられています。
余談ですが、伊藤左千夫に「牛飼(うしかひ)が 歌読む時に 世のなかの 新(あらた)しき歌 大いにおこる」(意味:牛飼いをしている私が、歌を詠むその時、世の中の新しい歌がまさに起こるだろう)という有名な短歌があります。
この歌の「新しき」の読みは、「あたらしき」ではなく、上代(万葉集の時代)の読み方である「あらたしき」です。勘違いしていた方も多いのではないでしょうか?
8.当て馬(あてうま)
「当て馬」とは、相手の出方を探るために、仮に表に出す人のことです。
当て馬は、馬の種付けの際、牝馬の発情の有無を調べたり発情を促進するために近づける牡馬のことで、牝馬の発情が確認されると当て馬は引き離されます。
そこから、スポーツで仮の選手を挙げておいて相手の出方を窺い、相手の選手が発表された後に正式な選手を決める時の「仮の選手」を言うようになりました。
この「仮の選手」は実際には試合に出場しません。
また、剣道や柔道などの団体戦で、味方の弱い選手を敵の強い選手に当てておき、他の選手でポイントを稼ごうとする時の弱い選手も「当て馬」と言います。
なお、似て非なる言葉に「かませ犬」(噛ませ犬/咬ませ犬)があります。これはもともと、「闘犬において、訓練したい犬に噛み付かせて自信を付けさせる引き立て役として宛がわれる弱い犬」のことです。
そこから転じて、「勝負事において引き立て役として対戦させる弱い相手」や、「主役を引き立てるために一方的に負ける役目の者」をいうようにもなりました。