韓信の股くぐり・薩摩守忠度・尾生の信など人名の付く面白いことわざ・慣用句。

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韓信の股くぐり

1.韓信の股くぐり(かんしんのまたくぐり)

韓信の股くぐりのエピソード

韓信(?~B.C.196年)が若い頃、町のごろつきに喧嘩を売られましたが、あえて争うことを避けて言われるままに無頼の若者の股をくぐらされるという屈辱に耐えて、後年大成したという「史記」に見える故事から、大志を抱く者は目前の小さな恥辱には耐えなければならないという戒めです。

韓信は、秦末から前漢初期にかけての武将で、劉邦の下で数々の戦いに勝利し、劉邦(前漢の初代皇帝)の覇権を決定付けました。張良・蕭何とともに「漢の三傑」の一人です。

「感心なことだ」という意味で相手を褒める際、「韓信」と「感心」を掛けて「感心の股くぐり」と洒落て使うことがあります。

2.薩摩守忠度(さつまのかみただのり)

「忠度」に「ただ乗り」を掛けて「無賃乗車」のことを言います。

薩摩守忠度とは、平家物語にも出てくる平忠度(たいらのただのり)(1144年~1184年)のことで、官位が正四位下薩摩守であったためこのように呼ばれます。彼は平清盛の異母弟で、「一ノ谷の戦い」で討死しました。

不名誉なことに「無賃乗車」の「隠語」として使われていますが、幼少から藤原俊成について和歌を学び、「千載集」「新勅撰和歌集」「玉葉集」などに11首選ばれています。

「千載集」の撰者・藤原俊成は、朝敵となった忠度の名を憚り、「故郷の花」という題で彼が詠んだ「さざ波や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな」という歌を「詠み人知らず」として掲載しました。

3.尾生の信(びせいのしん)

一旦交わした約束は固く守ることです。また融通がきかず、馬鹿正直なことを言います。

「尾生」は中国春秋時代の人の名前です。「信」は信義・信実の意です。「抱柱之信(ほうちゅうのしん)」とも言います。

中国春秋時代、魯の国の尾生という男が一人の女性と橋の下で会う約束を交わしたが、相手は現れず、そのうち大雨で川が増水してきた。しかし、尾生はその場を立ち去らず、女性との約束を守り通し、ついに橋の柱に抱きついたまま溺れ死んだという故事が由来です。

現代ならスマホで相手の女性に事情を確認し、問い詰めることも可能だと思います。しかし尾生の性格なら、スマホがあっても愚直にひたすら待ち続けたかもしれませんね。

4.孔子の倒れ(くじのたおれ)

孔子のような聖人やどんな名人・達人でも、時には失敗することがあるというたとえです。「孔子倒れ(くじだおれ/こうしだおれ)」とも言います。

「くじ」は孔子の呉音読みです。

孔子(こうし)(B.C.552か551年~B.C.479年)は、言うまでもなく「論語」で有名な中国春秋時代の学者・思想家で、儒教の祖です。

5.弘法にも筆の誤り(こうぼうにもふでのあやまり)

弘法大師のような書道の達人でも、時には書き損じをすることがあるということで、どんなにその道の名人上手でも、時には失敗することがあるというたとえです。

「孔子の倒れ」と同様の意味です。

弘法大師は、平安時代初期の僧空海(くうかい)(774年~835年)のことで、真言宗の開祖であり書の達人(三筆)としても知られていました。

弘法も筆の誤りの應

弘法大師が天皇の命を受けて、宮中の「應天門」の扁額を書きました。ところがいざ額を掲げてみると、なんと「應」の字の一番上の点を一つ書き落としていた(「广(まだれ)」とすべきところを「厂(がんだれ)」にしてしまった))という故事に由来します。

なお、この話には続きがあります。

弘法大師は慌てず騒がず下から「えいっ」と筆を投げると、見事あるべき場所に点を打ったということです。これはあくまでも「伝説」ですが、「五筆和尚」の面目躍如たる伝説ですね。

五筆和尚の絵

なお、弘法大師にはこのほかに「弘法筆を選ばず」ということわざがあります。これは本当の名人は道具の善し悪しなど問題にしないというたとえです。「能筆筆を選ばず」とも言います。

6.弁慶の立ち往生(べんけいのたちおうじょう)

弁慶の立ち往生

弁慶が大長刀(おおなぎなた)を杖にして立ったまま死んだというところから、進退窮まってどうにもならないことのたとえです。

武蔵坊弁慶(?~1189年)は、源義経の家来ですが、衣川の合戦で義経をかばうために、大長刀を杖にして橋の中央で矢面(やおもて)に立ち、敵の矢を全身に受けて立ったまま死んだという伝説に由来します。

7.弁慶の泣き所(べんけいのなきどころ)

弁慶の泣き所

弁慶ほどの豪傑でも痛がって泣く急所の意から、向こう脛(むこうずね)のことです。また強い者の最も弱い所、唯一の弱点のことを指します。

8.弁慶の七つ道具

弁慶が戦場で武器として用いたという大刀・刀・鉞(まさかり)・薙鎌(ないがま)・熊手(くまで)・撮棒(さいぼう)・鋸(のこぎり)などです。

転じて、ある仕事をする時に携帯する様々な小道具一式のことを指します。

9.板倉殿の冷え炬燵(いたくらどののひえごたつ)

非の打ち所がないこと、また「火のない炬燵」のことを洒落て言います。

単に「板倉炬燵」とも言います。

京都所司代周防守板倉重宗(いたくらしげむね)(1587年~1656年)は、優れた政治を行い、「非の打ち所がなかった」と言われるところから、「非がない」に「火がない」を掛けてこのような言葉が生まれました。

板倉重宗は、2代将軍徳川秀忠の側近として仕えた後、父の板倉勝重のあとを継いで京都所司代に就き、在職35年、厳正な裁判で知られました。「父子二代の名所司代」と言われました。

10.原憲の貧(げんけんのひん)

行いが正しく私欲がないために、貧しく生活が質素であるたとえ、清貧に甘んじることです。

出典は「荘子」です。

孔子の弟子の原憲(生没年不詳)は清貧に甘んじ、同門の子貢の贅沢な身なりを窘(たしな)めた故事が由来です。

11.陶朱猗頓の富(とうしゅいとんのとみ)

陶朱は金満家として知られ、猗頓は魯国の富豪であったところから、莫大な富、富豪のことです。「猗頓之富」とも言います。出典は「史記」です。

陶朱は中国春秋時代の越王勾践に仕えた范蠡(はんれい)(生没年不詳)の通称で、商売で巨万の富を手に入れました。猗頓は陶朱から牧畜と蓄財の方法を学び、大富豪となりました。

12.魯陽の戈(ろようのほこ)

中国戦国時代、楚の魯陽(生没年不詳)が漢と戦い、その最中に日暮れを迎えたが、戈を取って差し招いたところ、日が三星宿だけ戻ったという故事から、勢力が盛んなことです。

「魯陽が日を返す勢い」とも言います。出典は「淮南子(えなんじ)」です。

13.盧生の夢(ろせいのゆめ)

人の世の栄華の儚(はかな)いことのたとえ、人生の儚いことのたとえです。「邯鄲の夢(かんたんのゆめ)」とも言います。

中国唐代、出世を望んでいた盧生という若者が、邯鄲の町で道士の呂翁(りょおう)から借りた出世が叶うという枕で寝たところ、良い妻を得、大臣となって富み栄え、栄華に満ちた一生を終える夢を見ました。目が覚めてみると、宿屋の主人に頼んでおいた黄粱(おおあわ)の粥(かゆ)がまだ炊き上がらないほどごく短い時間であったという故事が由来です。

14.先ず隗より始めよ(まずかいよりはじめよ)

遠大な計画も、まず手近なところから着手せよということです。また、物事はそれを言い出した人から始めるべきだという意味です。

中国戦国時代、郭隗(かくかい)(生没年不詳)が燕の昭王に「賢者を用いる法」を聞かれた時に、「賢者を招きたいならば、まずこの私・隗から優遇しなさい。(自分のようなつまらない者をも優遇しなさい)そうすれば、より優れた人材が次々と集まってくるでしょう」と答えた故事に由来します。

15.石部金吉(いしべきんきち)

これは実在の人物の名前ではなく、石と金という二つの堅いものを並べた「擬人名」で、道徳的に潔癖で身持ちが固く、金銭や女色に惑わされない人のことです。

また、生真面目過ぎて融通の利かない人、男女間の情愛を理解できない人のことを言います。

「石部金吉金兜(いしべきんきちかなかぶと)」とも言います。

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