以前に書いた「写楽の謎」から派生して、「葛飾北斎の謎」にも興味が出てきました。
1.葛飾北斎とは
葛飾北斎(1760年~1849年)の名前は、誰でも知っているでしょう。江戸時代後期の浮世絵師です。「画狂人北斎」とも称したように、衣食などには頓着せず散らかり放題の部屋でひたすら作画三昧の暮らしだったと言われています。
「富嶽三十六景」は、切手の図案にもなっているので、ご覧になった方も多いと思います。「凱風快晴」や「神奈川沖浪裏」などは、特に有名ですよね。
2.型破りで謎の多い人物
この北斎という人も、写楽に負けず劣らず、謎の多い「型破り」な人物なのです。
この人は、「改号(改名)」すること30回、「転居」すること93回に及び、画業においては合計3万点を超える膨大な作品群を残し、当時としては超長寿の88歳で亡くなりました。
(1)改号(改名)30回
「春朗・群馬亭・北斎・宗理・可侯・辰斎・辰政(ときまさ)・百琳・雷斗・戴斗・不染居・錦袋舎・為一・画狂人・九々蜃・雷辰・画狂老人・天狗堂熱鉄・鏡裏庵梅年・月痴老人・卍・是和斎・三浦屋八右衛門・百姓八右衛門・土持仁三郎・魚仏・穿山甲」およびこれらを組み合わせた「北斎辰政」「北斎改め戴斗」「北斎改め為一」があります。
(2)転居93回
頻繁に転居した理由としては次のような説があります。
一つは、彼は娘のお栄(葛飾応為)との二人暮らしでしたが、彼らが絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れ放題・汚れ放題であったため、「ゴミ屋敷」同然になるとそのたびに引っ越していたという説です。
もう一つは、生涯に百回引っ越すことを目標にした「百庵」という人物に倣い、彼も百回引っ越してから死にたいと言っていたという説です。
(3)多数の弟子・門人の存在
作品数の多さから、3万点の中には、「別人」や「弟子」の手になるものも含まれていると聞いたことがあります。(門人の数は、孫弟子も含めると200人もいたそうです)
(4)トラブルメーカー
また、外国人や歌舞伎役者、武士とトラブルを起こすなど、相当な「問題児」「奇人」「変人」だったようです。「シーボルト事件」(*)にも関係していて、あやうく捕らえられそうになったこともあるそうです。
(*)シーボルト事件:江戸時代後期の1828年に、オランダ商館付きの医師でドイツ人のシーボルト(1796年~1866年)が国禁である日本地図(伊能忠敬が全国を歩いて測量し、苦労して作成した日本地図の複製)などを日本国外に持ち出そうとして発覚した事件です。役人やシーボルトの門人ら多数が処刑されました。
(5)幕府の隠密?
さらに、幕府の隠密だったという説もあるそうです。これは、ちょっと松尾芭蕉の幕府隠密説(奥の細道の旅も、隠密としての旅)に通じるものがありますね
(6)漫画家
「北斎漫画」といわれる漫画も描いているし、いろいろと「奇行」も多かったらしいですよ。
また、葛飾北斎の母親は、赤穂浪士に討ち取られた吉良上野介の家臣「小林平八郎」(討ち死)の孫娘だそうです。これも、興味がない人には、「それがどうしたの?」という感じでしょうが、「忠臣蔵好き」の私にとっては、新しい発見で、とても面白いのです。
3.頻繁な改名と転居の必然性
葛飾北斎の非常に頻繁な「改号(改名)」(30回)と、「転居」(93回)は、度を越していて「異常」と言ってもよいくらいです。
これには、何か深いわけがありそうですね。
現代でも、スター歌手をめざした若者が、何度も芸名を変えたあげく、ヒット曲が出たら、あとはその名前でずっと行くという例は少なくありません。その方が知名度を生かせるからです。
しかし、葛飾北斎の場合、「葛飾北斎」と名乗っていたのは、わずか数年間だけです。
もちろん、現在彼が葛飾北斎と呼ばれているのは、このころの作品が有名だからだと思うのですが、せっかく有名になったのに、名前を変えるのは、上の例を見るまでもなく、得策とは思えません。
有名な浮世絵師であれば、画料も高額でしょうし、あくせくしなくても、十分に裕福な生活ができそうなものです。
「改号」については、新しい表現に挑戦するたびに、真の実力を世に問うために、新人のふりをして号を変えたのだと推理する人もいます。「画狂人」の面目躍如といったところでしょうか?
「転居」については、画業に没頭して、食べるものや着るものに無頓着になるので、「ゴミ屋敷」同然になると引っ越した。その結果、93回にもなったと推理する人もいます。
確かに、上の二つの推理はそれなりに説得力があります。しかし、どうも決定力に欠けるようです。
私は、やはりそうすべき「必然性」があったのだと思います。
それは、作家の高橋克彦氏が唱える「北斎隠密説」から見ると、なるほどとうなずけるのです。興味のある方は、高橋克彦著の「北斎殺人事件」をぜひお読みください。
当時は、写真もない時代なので、北斎が名前を変えて、各地で別人の絵師として活動したとしても、その絵師が北斎だとは誰もわからないわけです。
そのようにして、幕藩体制に対する要注意人物の監視活動を、北斎が担っていたとすれば、隠密として怪しまれることもなく、任務を果たせたのではないかと思うのです。なるほどと納得が行く推理です。
4.歴史上の人物(個人)を深く知る面白さ
(1)日本の歴史教育の問題点
私は、この年齢(68歳)になってつくづく思うのですが、我々が学校で習った歴史の授業では、「個人」の逸話などはほとんど重要視されず、写楽や北斎にしても、単に「江戸時代の代表的な浮世絵師の一人」という扱いでした。
ですから、以前書いた「写楽の謎」と今回のブログで書いたような逸話は、興味のある人が、勝手に調べたりすればわかる話ですが、そんなことに興味のない大多数の人たちは、単に彼らの名前と代表的な作品名を覚えるだけで終わっていると思います。
だから、歴史の勉強は無味乾燥だったのです。少なくとも私は、今そのように強く感じています。
(2)歴史小説の魅力
しかしそもそも、歴史というものは、有名・無名のいろいろな「個人」が集まって作り出してきたものです。そして、それを鮮やかに描き出した作家の一人が、司馬遼太郎ではないかと思います。
「竜馬が行く」の坂本龍馬や「坂の上の雲」の秋山好古・真之兄弟がその代表例です。
話がかなり脱線してしまいますが、歴史小説で、独自の鮮やかな推理を展開した人として、私は、加藤 廣の名前を忘れることができません。惜しいことに、つい先日亡くなられましたが・・・
この人は、サラリーマン生活を全うした後、作家として後世に残るような歴史小説を書きました。
本能寺三部作の「信長の棺」「秀吉の枷」「明智左馬之助の恋」や、「空白の桶狭間」などは、大変面白い小説です。
「信長の棺」では、信長の遺体が見つかっていないという謎に着目して、本能寺から南蛮寺に通じる「抜け穴」の存在を想定し、周到な独自の推理を積み重ねる手法は見事なものです。
「空白の桶狭間」では、桶狭間の戦いは、「信長の奇跡的な奇襲作戦」ではなく、「秀吉(「山の民」出身)による、大勢の山の民を動員した陽動作戦と、非常に訓練された猟犬による用意周到な今川義元暗殺計画」であったというものです。
確かに、いくら今川義元が油断していたとしても、厳重な護衛もいることだし、そう簡単に討ち取られるわけはないですよね?
興味のある方は、一冊でもよいので、ぜひ読んでみてください。
そのほか、池波正太郎や吉川英治も人物を生き生きと描写して我々を楽しませてくれました。