<レカミエ夫人の肖像>(1800年 ダヴィッド作)
前にルイ15世の愛妾「ポンパドゥール夫人」についての記事を書きましたが、彼女は愛妾としての地位を利用して政治に口出しするなどして権勢をふるいました。今回ご紹介するレカミエ夫人は世界史上最も美しい女性と言われていますが、皇帝ナポレオンの求愛を拒絶するなど、気骨のある婦人だったようです。
1.レカミエ夫人とは
<レカミエ夫人の肖像>(1805年 ジェラール作)
(1)生い立ち
レカミエ夫人とは、ジュリエット・レカミエ(1777年~1849年)のことで、19世紀フランスの「文学・政治サロン(*)の花形」となった女性です。
(*)「サロン」
「サロン」とは、「宮廷や貴族の邸宅を舞台とした社交界」で、女主人が文化人、学者、政治家、作家らを招いて知的な会話を楽しみました。17世紀初めのランブイエ侯爵夫人のサロンがはしりと言われます。ヴェルサイユ宮殿などで、ラ・ファイエット夫人やポンパドゥール夫人らの文学サロンが開かれています。そのほかにもたくさんのサロンがあったようですが、レカミエ夫人のサロンが「最後のサロン」と呼ばれており、その後は下火になったようです。
彼女は銀行家(あるいは公証人?)の娘としてリヨンで生まれ、1793年に26歳年上の銀行家ジャック=ローズ・レカミエと結婚しています。しかし、ジャックは彼女の母親の愛人で、実の父親だったようです。彼女の母親が、彼女をジャックの財産の正統な相続人にするために結婚(「白い結婚(偽装結婚)」)させたのではないかと言われています。
彼女は強く美しい目を持ち、髪は短く、ギリシャ風の衣装「ヒマティオン」を好んだそうです。ダヴィッドの肖像画もその衣装ですね。
彼女は聡明で教養が高い美人で、性格は非常に信念が強く、忍耐強く、頑固だったそうです。
(2)執政政府時代(1799年~1804年)のサロンの花形
二人の間に夫婦らしい関係はなく、夫は非常に人気の高い夫人をうれしそうに見ていたそうです。
彼女がパリに開いた「サロン」には、元王党派を含む多くの文人や政治家が集まりました。ジャン=バティスト・ベルナドット(後のスウェーデン王カール14世ヨハン)、ジャン・ヴィクトル・マリー・モローなどもいました。
彼女は、スタール夫人、シャトーブリアン、バンジャマン・コンスタンと親交を結んでいます。
「社交界の華」と呼ばれたテレーズ・カバリュスとは友人で、後にナポレオン・ボナパルト(1769年~1821年)の妻となるジョゼフィーヌ・ド・ボアルネとも一時友人関係にありました。彼女はこの二人の友人と共に「パリの三美神」と呼ばれたそうです。
ナポレオンは国内軍司令官になってから、彼女のサロンに出入りするようになります。
ナポレオンの妹は彼女に憧れ、ナポレオンの弟は彼女に何度も熱烈なアプローチをしています。
「ロマン派文学」の胎動が、スタール夫人や彼女のサロンから生まれたと言われています。
(3)ナポレオン時代(1804年~1814年)
1804年にナポレオンが皇帝に就任した時、彼女は反対しています。彼女にとってナポレオンは「尊敬できない成り上がり者」だったのではないかと思います。茶々(後の淀殿)にとっての豊臣秀吉のような存在だったのかもしれません。
彼女は皇帝ナポレオンから愛人になるよう強要されますが、その求愛を拒絶しています。ナポレオンは彼女を愛人にするための贈り物として、ダヴィッドに彼女の肖像画を描かせますが、彼女は制作理由が気に入らず、未完成に終わっています。
ジェラール作の肖像画は、彼女自身がダヴィッドの弟子のジェラールに依頼したもので、プロイセン王子アウグストに贈られています。
彼女はナポレオンと対立するスタール夫人と親交を結んでいましたが、ナポレオンはそれが気に入りませんでした。彼女は、スタール夫人の愛人であるコンスタン(小説家で政治家)とも恋愛関係にあったようです。コンスタンはスタール夫人とともにナポレオンの独裁政治を批判した人物です。
夫ジャックの銀行はフランスから融資を受けていたため、彼女の求愛拒絶の意趣返しとしてナポレオンによって、破産の憂き目にあい、資産が無くなります。
1811年にはナポレオンとの対立が決定的となって、彼女はパリを追放され、故郷のリヨンやローマ、ナポリに滞在することになります。
(4)王政復古時代(1814年~1830年)の晩年
1815年に、スイスに隠遁しているスタール夫人を訪ね、夫との離婚を画策しています。かねてから好意を寄せられていたプロイセン王子アウグストとの結婚を考えていたようです。
しかし、夫は離婚に応じず、やがて全財産を失った彼女は1819年にパリのオー・ボア修道院に引きこもります。ここへ定期的に通って来たのが小説家で政治家のシャトーブリアン(1768年~1848年)です。シャトーブリアンは、「彼女には処女と愛人との奇妙な魅力が入り混じっている」と評しています。
晩年は白内障でほとんど視力を失いましたが、この文豪への愛を貫いたそうです。