高槻市は歴史の古い町ですが、全国的に知られているのはキリシタン大名の「高山右近」と「今城塚古墳(継体天皇陵)」、「高槻ジャズストリート」ぐらいでしょうか?
そこで今回は高山右近について、キリシタンに改宗した理由と国外退去処分になっても棄教しなかった理由について考えてみたいと思います。
1.高山右近はなぜキリシタンになったのか?
戦国大名の一人である高山右近はなぜキリシタンになったのでしょうか?
(1)父の影響
きっかけは、キリシタン大名であった父の高山友照の勧めです。友照は、もとは摂津国高山村(現在の豊能郡豊能町高山)の土豪で、三好長慶の勢力下にありましたが、摂津国滝山城主の松永久秀が大和国に侵攻し、宇陀郡の沢城を落とした後、沢城主となっています。
ここで1563年にイエズス会宣教師ロレンソの説教に感動して受洗し、京都地方キリシタン伝道の道を開いています。1568年に織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、摂津国芥川山城から三好一族の三好長逸を追い出し、足利義昭の側近だった和田惟政に芥川山城が与えられると、高山父子はその組下に付けられます。その後、和田惟政は高槻城に移り、友照は芥川山城に城代として入ります。
和田惟政は1571年に荒木村重らとの「白井河原の戦い」で討死し、惟政の子惟長が高槻城主となります。しかし惟長が高山父子の暗殺を企てたため、逆に惟長を討って和田一族や家臣を追放し、友照が高槻城主となり、荒木村重の支配下に入っています。
友照は右近に家督を譲った後は信仰一途に生き、領民にもキリスト教の信仰を説きました。右近のキリシタン大名としての信仰は、父を模範としたものだったようで、他の大名たちにもキリシタンへの改宗を勧めています。
1578年に荒木村重が信長に反旗を翻すと、その組下にあった高山父子も高槻城に拠って信長に反抗しています。右近は城を出て信長に降伏しましたが、友照は徹底抗戦を主張して敗れ、越前国へ追放されます。
一方右近の降伏は、荒木村重配下の中川清秀の信長への寝返りを誘い、村重敗北の大きな要因となったため、右近は高槻城主を安堵されています。
(2)父から引き継いだ統治政策上の理由
父の友照は、教会の建築やキリスト教の布教に熱心な一方、領内の神社仏閣を破壊し、神官・僧侶を迫害しています。右近も20を超える教会を建設する一方、神官・僧侶へ同様な迫害を続け、高槻市内の八幡大神宮など古い神社仏閣の建物や古い仏像をほとんど残らず破壊したそうです。
これは九州のキリシタン大名と同様、「一向一揆」に悩まされたり、旧来の仏教や神道の横暴や勢力拡大を快く思わない気持ちもあり、キリスト教を国教のようにして領民に帰依させて統治しやすくしようという底意があったのだと思います。右近も、純粋な信仰心もあったかもしれませんが、父のこの政策を受け継いだということだと思います。
「フロイス日本史」などのキリスト教徒側の史料では、右近はあくまで住民や家臣へのキリスト教入信の強制はしなかったことになっていますが、その影響力が絶大であったため、領内の住民25,000人のうち18,000人(72%)がキリスト教徒になったそうです。
長崎などでは今でも熱心なカトリック教信者が多く、江戸時代に信仰を貫いた「隠れキリシタン」が多数いたという話も聞きますが、高槻市の地元に江戸時代の昔から住んでいる人々にはほとんどカトリック教信者はいません。領民にとっては事実上、上からの指示によるキリスト教入信のため、形式的なうわべだけの改宗だったのでしょう。したがって高槻市には「隠れキリシタンの里」のようなものはありません。仏教を本当に信じているかどうかは別にして、高槻市には「浄土真宗」の檀家が多いようです。
なお、九州の大友宗麟・大村純忠・有馬晴信などの大名がキリシタンに改宗した理由は、何だったのかというと、私は次の二つだと思います。
第一に「南蛮貿易」による利益獲得と最新の武器・弾薬の入手です。
第二に「統治のための手段」としてです。「一向一揆」に悩まされたり、旧来の仏教や神道の勢力拡大を快く思わない大名としては、新しい「カトリック教」をいわば「国教」として領民に帰依させることで、統治をしやすくすることを狙ったものです。
2.国外追放処分でも棄教しなかった理由は何か?
彼は、「大名の地位を捨ててまでも信仰を貫いた殉教者」として、ローマ教皇から「キリスト教会の福者」に認定されています。
彼はあまりにもキリスト教にのめり込みすぎ、仏教や神道を否定し、神社仏閣をことごとく破壊した上に、多くの大名たちをキリシタンに改宗させるなどしていたために、「キリスト教を捨てる」という変節・後戻りが出来ないような立場に追い込まれていたのではないかと思います。
日本の教育者が、戦時中は「鬼畜米英」「撃ちてし止まん」などと子供に教えていたのに、敗戦後は手のひらを返したように、「日本の軍国主義」をことさらに批判し、「アメリカの民主主義礼賛」をした無節操な変節に比べれば、一片の良心は残っていたと言うべきかもしれません。
3.高山右近のプロフィール
高山右近(1552年~1615年)は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・キリシタン大名で摂津高槻城主です。「南方(みなみのぼう)」「等伯」と号する茶人としても有名で、千利休門下の七高弟(利休七哲)の一人です。
彼(洗礼名:ジュスト)は2016年に、「日本人殉教者」としてローマカトリック教会から「福者」に列せられました。
12歳の時に父高山友照(?~1595年)の勧めで、奈良県の沢城で洗礼を受け、21歳で高槻城主となっています。荒木村重(1535年~1586年)の家臣として織田信長に反抗しましたが、イエズス会宣教師オルガンチノの勧めで降伏し、その後は信長の家臣となっています。
1582年の「本能寺の変」の後は豊臣秀吉に協力し、明智光秀との「山崎の戦い」で武功を立て、明石城主となっています。
彼は黒田官兵衛、小西行長、蒲生氏郷、牧村利貞ら多くの武将をキリスト教に導き、細川忠興、前田利家も洗礼は受けませんでしたが彼の影響でキリシタンに好意的でした。
しかし1587年の豊臣秀吉による「禁教令(バテレン追放令)」発布の時、キリスト教の信仰を捨てなかったため、除封・追放されています。
その後、前田利家に招かれて3万石を与えられ、26年間過ごしていますが、1614年の江戸幕府の禁教令に触れて、国外追放となり、マニラに流されて、到着後ほどなくして亡くなっています。