古代ギリシャには、後世に「牧人の楽園」として伝承され、「理想郷」の代名詞となった「アルカディア」がありました。
日本の戦国時代のように戦乱が絶えない時代に身を置くと、明智光秀ならずとも古代中国の堯・舜のような仁政を行う徳のある指導者のもとに現れるという「麒麟」がくることを願う気持ちになると思います。
また不平等な社会、法と正義が行われない社会、不正・腐敗・汚職が蔓延する社会、努力が正当に報われない社会、理不尽なことがまかり通る社会に生きる人々は、理想的な社会を求める気持ちが強くなるものです。
イギリスでは「イギリス革命」(清教徒革命と名誉革命)、フランスでは「フランス革命」が起こりました。ロシアでは「ロシア革命」が起こり、中国では「辛亥革命」が起こりました。日本でも「明治維新」という一種の革命が起きました。ただし、明治維新は市民革命ではなく、実態的には「薩摩藩による徳川幕府に対するクーデター・革命」でした。
イギリス・フランスや日本は最終的に民主主義国家になり、ロシアや中国は最終的に共産主義国家になったという違いはありましたが・・・
古代ギリシャの哲学者プラトン(B.C.427年~B.C.347年)は、「ポリテイア(国家論)」や「ノモイ(法律)」で理想国家を説き、古代キリスト教の神学者・哲学者・説教者アウグスティヌス(354年~430年)は「神の国」で理想の国を説きました。
このように古来、「アルカディア」「ユートピア」「桃源郷」「シャングリラ」「新しき村」など様々な理想郷が語られてきましたが、今回はその代表である「アルカディア」と「ユートピア」についてご紹介したいと思います。
1.アルカディアとは
実在の「アルカディア」(上の写真)は、ギリシャ南部、ペロポネソス半島の中央部の高原地帯で、古代アルカディア人の住んだ場所です。名称は、ギリシャ神話に登場する「アルカス」(アルカディア人の祖)に由来します。
マンティネイア・テゲアなどの「ポリス」があり、紀元前4世紀には「アルカディア同盟」が成立して、中心地として「メガロポリス」が建設されました。
高い山や峡谷によって他から孤立し、農耕に適さない貧しい山岳地帯で、牧畜を主としていましたが、後世「牧人の楽園」との伝承が生まれました。ユートピア・理想郷・牧歌的な楽園・理想的田園の代名詞的意味は、この「牧人の楽園伝承」から生じました。
古代ギリシャにおける「理想郷」とされ、17世紀の絵画や文芸などに影響を与えました。
余談ですが、かつて在日朝鮮人の大規模帰国事業が行われた北朝鮮は当時「地上の楽園」と呼ばれました。この話は、いかに「楽園」や「理想郷」と呼ばれる場所が、理想とは程遠いものであることを如実に示しています。まさに「ディストピア」(理想郷と対極の世界)だったのです。
2.ユートピアとは
「ユートピア」とは、サー・トマス・モアが1516年にラテン語で著した長編小説「ユートピア」で彼が使った造語です。ギリシャ語の「ou(ウー)」(否定詞)と「topos(トポス)」(場所)に由来する言葉で、どこにも存在しない場所、転じて理想的社会、空想的社会の意味になります。日本語では「無何有郷(むかうのさと)」などとも訳されました。
これは当時のイギリス社会の矛盾や不正に憤り、理想的な共産制社会を描いた小説です。架空の国ユートピアの見聞録という形で、当時のヨーロッパ社会を批判し、自由平等な共産主義的社会、宗教の寛容を説いています。
正式の題名は、「社会の最善政体について、そしてユートピア新島についての楽しさに劣らず有益な黄金の小著」です。
当時のヨーロッパの君主は、自分の富や領土を増やすことのみに専念し、一方民衆は「囲い込み」によって土地を奪われ、牛馬よりもひどい労働を強いられていました。国家や法律も貧しい人々を搾取するための金持ちの共謀による私物化に過ぎず、諸悪の根源は貨幣経済と私有財産制であると考えました。
これに対して、ユートピアでは市民は平等であり、貨幣は存在せず、財産共有制が敷かれています。全ての人間が労働するので、少ない労働時間で十分であり、自由な時間を「精神の洗練」のために用いるのです。
ユートピア国は理想的な共産主義社会で、物資財産は国民の共有で貧乏というものがありません。ダイヤモンドや真珠は玩具で、いつまでもそんなものを欲しがっていると軽蔑されます、怠惰は罪とされますが、1日6時間働けば十分で、あとは読書、音楽、高尚な談話などに過ごします。肉体の健康が重視され、病気は罪とされます。教育の男女平等、宗教上の寛容が完全に行われます。絶対に戦争放棄で軍備はしません。万一やむを得ない時は、外国の傭兵で国を守る。しかし、戦争をして人々が殺し合うより、賄賂を用いたり、敵の指導者を暗殺したりして、戦争を予防する方がはるかによいと考えます。
この小説は、愉快な物語の形式を借りて、当時の腐敗したキリスト教社会の改革・再生を政治家や知識人に訴え、真の公共性・正義とは何かを問うた作品です。
ただ「ユートピア」は、唯一の価値観・唯一の基準・唯一の思想による全体の知と富の共有で、確かに反対する者が存在しないという意味で平和で理想的なように見えます。
しかし、その実現には「人間的なもの」や「自由」を全て完全に圧殺しなければ実現し得ないことは明白で、理性以外の全てをそぎ落とした果てにある「機械的な冷酷さ」が垣間見えます。
現代のロシア・中国・北朝鮮のような「共産主義国家」の実態を見てもわかるように、とても「理想郷」とは言えません。「形を変えた絶対王政」になっているのが実情です。
3.サー・トマス・モアとは
サー・トマス・モア(1478年~1535年)は、イギリス(イングランド)の法律家・思想家・人文主義者(ヒューマニスト)です。
彼はオックスフォード大学でギリシャ語を学び、次いで法律を学んで法律家となりました。若い頃、ロンドンに来たエラスムス(1466年~1536年)と知り合い、生涯の友情を結びました。
1515年に外交交渉の一員としてオランダに渡り、アントウェルペンに滞在中に「ユートピア」を書き始め、翌年ロンドンで発表しています。
外交交渉の手腕を買われて、帰国後ヘンリー8世(1491年~1547年、イングランド王在位:1509年~1547年、アイルランド王在位:1541年~1547年)に仕えて、裁判官も務め、1529年には法律家の最高位である大法官に任命されています。
その頃ドイツの神学者ルター(1483年~1546年)の宗教改革の嵐がイギリスにも及んできて、宗教界は大きく揺らぎ始めていました。彼は、ローマ教皇から信仰擁護者とされたヘンリー8世を支持し、ルターの改革には反対して、カトリックが唯一の正当なキリスト教であるとの立場を守りました。彼は3年間で6人の異端者を処刑するほどの熱心なカトリック信徒でした。
ところが、ヘンリー8世が男子世継ぎを得るためにキャサリン・オブ・アラゴン王妃を離婚しようとすると、彼は「ローマ教会の認めない離婚は不可である」とし、さらにヘンリー8世がローマ教会からの分離を図った「首長法(国王至上法)」(1534年)の制定に対しても、「俗人が教会の首長になることは不可能である」として反対し、大法官を辞任しました。
その結果、彼は「査問委員会」にかけられ、「反逆罪」に当たるとしてロンドン塔に幽閉され、翌1535年に断頭台で処刑されました。
この処刑は、「法の名の下に行われたイギリス史上最も暗黒な犯罪」と言われています。
4.ロンドン塔にまつわる話
余談ですが、ヘンリー8世はエリザベス1世(1533年~1603年、イングランドとアイルランドの女王在位:1558年~1603年)の父親です。ちなみにエリザベス1世の母親は、キャサリン・オブ・アラゴン王妃の侍女だったアン・ブーリン(後に二番目の王妃となる)です。
しかし、アン・ブーリンも男子の世継ぎを生めなかったため、姦通罪や魔術を用いた罪などの罪状を着せられてロンドン塔に幽閉され、処刑されました。そしてアン・ブーリンの侍女だったジェーン・シーモアが3番目の王妃になり、エドワード6世を生んでいます。
「理想郷」の「ユートピア」の話から、いつのまにか最後には血腥(なまぐさ)い「ロンドン塔」の話になってしまい申し訳ありません。しかし、サー・トマス・モアも法律家として最高の地位に上り詰めたものの、自己の信念を貫いて国王に意見具申したため、一転して断頭台の露と消える悲運に見舞われました。現実の世界の歴史は相当残酷なものですね。
ちなみに夏目漱石に「倫敦塔」という短編小説があります。ロンドン塔で非業の死を遂げた人々の怨念の文字が壁に刻まれている様子が鬼気迫るように描かれています。
倫敦塔の歴史はボーシャン塔の歴史であって、ボーシャン塔の歴史は悲酸の歴史である。十四世紀の後半にエドワード三世の建立にかかるこの三層塔の一階室に入るものはその入るの瞬間において、百代の遺恨を結晶したる無数の紀念を周囲の壁上に認むるであろう。すべての怨、すべての憤、すべての憂と悲みとはこの怨、この憤、この憂と悲の極端より生ずる慰藉と共に九十一種の題辞となって今になお観る者の心を寒からしめている。冷やかなる鉄筆に無情の壁を彫ってわが不運と定業とを天地の間に刻みつけたる人は、過去という底なし穴に葬られて、空しき文字のみいつまでも娑婆の光りを見る。彼らは強いて自らを愚弄するにあらずやと怪しまれる。世に反語というがある。白というて黒を意味し、小と唱えて大を思わしむ。すべての反語のうち自ら知らずして後世に残す反語ほど猛烈なるはまたとあるまい。墓碣と云い、紀念碑といい、賞牌と云い、綬賞と云いこれらが存在する限りは、空しき物質に、ありし世を偲ばしむるの具となるに過ぎない。われは去る、われを伝うるものは残ると思うは、去るわれを傷ましむる媒介物の残る意にて、われその者の残る意にあらざるを忘れたる人の言葉と思う。未来の世まで反語を伝えて泡沫の身を嘲る人のなす事と思う。余は死ぬ時に辞世も作るまい。死んだ後は墓碑も建ててもらうまい。肉は焼き骨は粉にして西風の強く吹く日大空に向って撒き散らしてもらおうなどといらざる取越苦労をする。
題辞の書体は固より一様でない。あるものは閑に任せて叮嚀な楷書を用い、あるものは心急ぎてか口惜し紛れかがりがりと壁を掻いて擲り書きに彫りつけてある。またあるものは自家の紋章を刻み込んでその中に古雅な文字をとどめ、あるいは盾の形を描いてその内部に読み難き句を残している。書体の異なるように言語もまた決して一様でない。英語はもちろんの事、以太利語も羅甸語もある。左り側に「我が望は基督にあり」と刻されたのはパスリユという坊様の句だ。このパスリユは千五百三十七年に首を斬られた。その傍に JOHAN DECKER と云う署名がある。デッカーとは何者だか分らない。階段を上って行くと戸の入口に T. C. というのがある。これも頭文字だけで誰やら見当がつかぬ。それから少し離れて大変綿密なのがある。まず右の端に十字架を描いて心臓を飾りつけ、その脇に骸骨と紋章を彫り込んである。少し行くと盾の中に下のような句をかき入れたのが目につく。「運命は空しく我をして心なき風に訴えしむ。時も摧けよ。わが星は悲かれ、われにつれなかれ」。次には「すべての人を尊べ。衆生をいつくしめ。神を恐れよ。王を敬え」とある。