「葉隠(はがくれ)」「葉隠武士道」とは?わかりやすくご紹介します

フォローする



葉隠精神

皆さんは「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という言葉で有名な「葉隠」をご存知でしょうか?

私は大学生の時に、三島由紀夫(1925年~1970年)の「葉隠入門」を読みました。その数年後の1970年に彼は自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入して、バルコニーから集まった自衛隊員に対して「蹶起」(クーデター)を呼びかけるアジ演説を行った後、割腹自殺を遂げました。いわゆる「三島事件」です。

三島由紀夫は「葉隠」を「私のただ一冊の本」として心酔していたようです。

彼は徴兵検査には合格したものの、入営検査の時に「気管支炎」を「肺浸潤」と誤診されて即日帰郷となりました。その負い目が彼にはずっとあったようで、それが彼をボディビルによる肉体改造や剣道、さらには三島事件へと駆り立てたのかもしれません。

三島事件

そこで今回は、「葉隠」「葉隠武士道」をわかりやすくご紹介したいと思います。

1.「葉隠」とは

「葉隠」は、江戸時代中期の「武士道」を説いた武士の修養書で、正式名称は「葉隠聞書(はがくれききがき)です。

山本常朝

隠居していた肥前佐賀(鍋島)藩士「山本常朝(やまもとつねとも)」(1659年~1719年)が口述した談話を、同藩士で門人の田代陣基(たしろつらもと)が筆録したもので11巻から成り、7年をかけて1716年に完成しました。

常朝は戦乱の世から50年以上後に生まれましたが、「命を懸けて戦った昔の武士への憧れに似たノスタルジー」を持っていたようです。

(1)内容

1・2巻は武士たる者の心構え、3~9巻は歴代の鍋島藩主および鍋島武士の言行、10巻は他藩の武士の言行をまとめたもので、11巻は補遺となっています。

本書は、「忠節・封建倫理観」がベースにありますが、元禄時代における儒教的な武士道論から見れば、極端ともいうべき「尚武思想」に貫かれているため、藩内でも「禁書」「奇書」の扱いを受け、公開を禁じられました。死を美化する「葉隠」は、時代遅れで異端とみなされていたようです。

「葉隠」は冒頭に、「この書は必ず全部焼き捨てよと言われた」(堅く火中仕るべき由、返す返すも御申し候なり)と書かれています。これは藩士の失態や衆道をめぐるいざこざが山本常朝の手厳しいコメント付きで記されていたためのようです。

鍋島藩内では、写本によってひそかに読まれ続けましたが、活版印刷が盛んだった江戸時代においても「葉隠」が刊行されることはなく、明治39年(1906年)に初めて活字化されました。

このように、明治中期以降に再認識・再評価され、広く一般にも読まれるようになりました。

200年以上を経た太平洋戦争末期、特攻隊員ら死地に赴く若者の間に突然の大ブームを巻き起こすことになります。

戦後、軍国主義的書物として一時「禁書」扱いされましたが、近年では「地方武士の生活に根ざした書物」として再評価されています。

(2)書名の由来

本来「葉隠」とは、「葉陰、あるいは葉陰となって見えなくなること」を意味する言葉のため、「蔭の奉公を大義とする」という説や、「緑豊かな佐賀城を護持する鍋島侍を象徴する」という説、「木の葉隠れの雑談であり、今でいう緑陰閑話を指す」という説、もと武士で僧侶・歌人でもあった西行(1118年~1190年)の「山家集」の「葉隠の和歌(*)に由来する」とするものなどがあります。

(*)葉隠れに散りとどまれる花のみぞ しのびし人に逢ふ心地する

この和歌は、「葉隠れにわずかに散り残っている花を見る時は、それこそ心ひそかに思っている人に逢えたような気持ちがするよ」という恋の歌ですが、「葉隠」で「忍恋(しのぶこい)」が理想とされていることからの連想かもしれません。

2.「葉隠武士道」とは

武士道

教育者で思想家の「新渡戸稲造(にとべいなぞう)」(1862年~1933年)が著した英文の本に「BUSHIDO,The Soul of Japan」というのがあります。彼は「武士道」を象徴する言葉として、七つの言葉「正義・勇気・仁・礼・誠・名誉・忠節」を挙げています。意味は右上の画像の通りです。これは武士のいない時代になっても、日本国民として守るべき徳目として彼が考えたものです。

新渡戸稲造

一方、「葉隠武士道」とは、「武士は、死を恐れない、あるいは忠義のためには死ぬことも厭(いと)わない」とする教えです。「恥をかかないための行動指針」とも言うべきものです。

山本常朝は、藩祖・鍋島直茂(1538年~1618年)を理想の君主、武士の鑑と考えていたようです。直茂は常朝が生まれるずっと前に亡くなっていますが、「直茂が豊臣秀吉の前で生け花をして見事だと褒められた話」など、直茂の事績がたくさん書かれています。

常朝は、元禄13年(1700年)、藩主鍋島光茂(1632年~1700年)の死にあたり、剃髪して隠居しました。

すでに1663年に幕府によって「殉死禁止令」が出されており、光茂の父鍋島勝茂(1580年~1657年)の死にあたって28名もの殉死者を出した佐賀藩でも、光茂の時は殉死する者はおらず、剃髪して隠居したのも常朝ひとりでした。

人は死ぬよりは生きる方がいい。死にたくない、生きたいと思えば思うほど行動が臆病になり、結果的に恥をかいて切腹に追い込まれることになる。むしろ、死のうと思い切ってしまえば腹が据わり、切羽詰まった場にあっても適切な行動がとれる。

これが常朝の教えでした。

一方で、「主君への忠節」を重んじる立場から、「藩主の誤りを正す諫言などは、一般の藩士が行うべきものではない。諫言は家老の役目だから、何か言いたいことがあれば家老のような人に頼って言ってもらう。家老になるまでは、じっと我慢して職務に励め」というのが常朝の生き方でした。「上の方針には正否を問わず、下の者はただそれに従うこと」「盲目的な滅私奉公」を教えるのが「葉隠武士道」と言えます。

しかし、武士は藩主が誤っていると思えば、わが身の危険も顧みず諫言すべきだという考え方もあります。諫言は、生半可な覚悟でできるものではありませんが、「常住死身(じょうじゅうしにみ)」を唱えるのであれば、一般の藩士の諫言を抑えるのは矛盾しているように見えます。

常朝は、「上の者に都合の良い封建的で保守的な考え方」の持ち主だったようです。これは武士に理性的な判断を断念させる(「思考停止」を要求する)姿勢です。

太平洋戦争中、日本で「葉隠」が高く評価された理由は、この「思考停止」「判断中止(エポケー)」を国民に求めるのに好都合だったからでしょう。「集団催眠」というか一種の「マインドコントロール」であり、「プロパガンダ」に利用されました。

「神風特攻隊」に代表される出陣学徒兵の手記「きけわだつみのこえ」を読むと、決して「思考停止」せず、悩み苦しみながらも諦観して死地に赴いたのではないかと感じられます。しかし、マインドコントロールされて「死を本望」と信じ込んでいた兵士もいたことでしょう。

3.処世・ビジネス本としての「葉隠」

「葉隠」には、武士道の心得を説いた記述のほかに、「嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法」や、「部下の失敗をうまくフォローする方法」、「人前であくびをしないようにする方法」など現代で言う「ビジネスマナーの指南書」や「礼法マニュアル」に近い記述もあります。

これは、もともと「藩に属する奉公人たる武士の心構えを説いたもの」であるため、「処世術のマニュアル本」としての一面もあるからです。

そのため、会社勤めの現代のビジネスマンにも共感を呼び、「葉隠」に取材したビジネス書も出版されています。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村