皆さんは歴史の授業で美濃部達吉の「天皇機関説事件」というのを習ったと思いますが、誤解されている部分もありますので、今回正しくわかりやすくご紹介したいと思います。
1.「天皇機関説」
(1)天皇機関説とは
「国家を統治権の主体とし、天皇は国家のあらゆる機関の中での最高機関ではあるが、あくまでも一機関に過ぎない。とする明治憲法の解釈」のことで、美濃部達吉らによって主張された学説です。
そして、「内閣や議会は、最高機関(天皇)を輔弼(ほひつ)する補助機関である」とする解釈です。
この説は、ドイツの公法学者ゲオルグ・イェリネックが主唱した「君主は国家における一つの、かつ最高の、機関である」とする「国家法人説」に基づいて大日本帝国憲法を解釈し、日本の統治機構を説いた学説です。
現代の我々から見ると、常識的で説得力のある解釈だと思います。
(2)天皇機関説を主張・支持した学者
・一木喜徳郎(いちききとくろう)(1867年~1944年)
1887年に東大を卒業して内務官僚となり、1890年にはドイツに留学して行政法を学び、帰朝後の1894年に東大法学部教授となって「天皇機関説」を唱えました。
これはドイツの公法学説の「国家法人説」に基づくものです。
・美濃部達吉(みのべたつきち)(1873年~1948年)
兵庫県出身の憲法学者で、貴族院議員も務めました。美濃部亮吉元東京都知事の父です。彼は東京帝国大学法学部に進んで、「天皇機関説」を主唱した一木喜徳郎に師事しました。
彼も一木と同様に1897年に東大を卒業して内務官僚となり、1899年にドイツやフランス、イギリスに留学し、帰朝後1902年に東大法学部教授となりました。
1912年に刊行した「憲法講話」で、「天皇機関説」を発表しました。この説は、ドイツの公法学者ゲオルグ・イェリネック(1851年~1911年)が主唱した「君主は国家における一つの、かつ最高の、機関である」とする「国家法人説」に基づいて大日本帝国憲法を解釈し、日本の統治機構を説いた学説です。
・佐々木惣一(ささきそういち)(1878年~1965年)
憲法・行政法学者で京大名誉教授・立命館大学学長を務めました。
天皇機関説・民本主義を主張しましたが、京大教授在任中の1933年、「滝川事件」(*)に連座して退官しています。大正デモクラシーの有力な論客で、立憲主義的で客観主義的かつ論理主義的な憲法論を展開しました。
(*)滝川事件とは
1933年に刑法学者の滝川幸辰(たきがわゆきとき)京大教授を文部省が一方的に休職処分にした事件で、「京大事件」とも言います。滝川教授の中央大学での講演(注1)や、著書「刑法読本」の内容(注2)が「危険思想」であるとの理由で問題視されたものです。
(注1)「トルストイの価値観と刑法の話」の中で、「犯罪は国の組織に問題があるから発生するのに、犯罪を行った者をその国が処罰するのは辻褄が合わない」といった内容。(これは「政治犯」のことを指した話のようです)
(注2)内乱罪についての「国家の基盤を破壊する「内乱罪」という罪を犯した者の動機自体は否定されるべきではない。内乱罪を犯した者たちは、人類にとってより良い社会を作ることを目的に実際の社会を破壊しようとしているのである」といった内容。
この処分に対して、佐々木惣一・末川博・恒藤恭ら京大法学部の全教官が「大学の自治を侵害するもの」として抗議のため辞表を提出しました。文部省は滝川・佐々木・末川・恒藤ら8教官を免官としました。
(3)大正期に天皇機関説が「学界の通説」となり政界でも認められた背景
天皇機関説は、1900年代から1935年頃までの30年余りにわたって、「憲法学の通説」とされ、「内閣と議会の地位を強化しようとする学説」であるため政界でも認められて「政治運営の基礎的理論」とされた学説です。
天皇機関説は、「議会の役割」を重視し、「政党内閣制(政党政治)」と「憲政の常道」を支えました。
天皇主権説では、国家の意思決定は天皇の意思決定となり、徴収した国税も天皇の個人財産になるという考え方で、実情に合うものではありませんでした。
また、国家が戦争の意思決定をすれば、天皇の意思決定でもあることになり、全責任が天皇に集中します。これも実情に合わないもので、この解釈によれば内閣や議会の意思決定を実際に行った責任者が、全責任を天皇に押し付けることも可能になるわけです。
そういうわけで、大日本帝国憲法制定当初は「天皇主権説」が有力でしたが、次第に「天皇機関説」の支持者が増えていき、大正時代になると実情に合った無理のない解釈である「天皇機関説」の方が優勢となったのです。
(4)昭和天皇も天皇機関説を支持していた
昭和天皇自身は機関説には賛成で、美濃部への攻撃で学問の自由が侵害されることを憂えていたそうです。昭和天皇は「国家を人体に例え、天皇は脳髄であり、機関という代わりに器官という文字を用いれば少しも差し支えないではないか」と本庄繁武官長に話していたそうです。
2.「天皇主権説」(天皇神権説)
(1)天皇主権説とは
「天皇を絶対権力者である主権者とみなし、天皇の下に国家が存在していると捉えることで、天皇の完全なる支配下に内閣や議会を位置付ける説」のことです。「天皇神権説」とも言います。
つまり天皇は国家に属する存在ではなく、国家を超越した存在だとする考え方です。
戦前、天皇は神聖不可侵の「現人神(あらひとがみ)」と呼ばれました。これは古事記や日本書紀の神話を真実とみなすような無理のある考え方で、キリスト教でイエス・キリストが処女マリアの懐胎した「神の子」と言われるのと同様、非合理極まりないものです。
(2)天皇主権説を主張・支持した学者
・穂積八束(ほづみやつか)(1860年~1912年)
憲法学者で東大法学部教授を務めました。美濃部達吉らが主張した天皇機関説に対して、天皇主権説を唱えました。
「民法典論争」に際して発表した論文「民法出デテ忠孝亡ブ」で有名です。
・上杉慎吉(うえすぎしんきち)(1878年~1929年)
穂積八束に師事した憲法学者で東大法学部教授を務めました。
天皇主権説を主張する「君権学派(神権学派)」で、天皇機関説の美濃部達吉と激しい論争を展開しました。
3.「天皇機関説事件」
(1)天皇機関説事件とは
1935年2月18日、貴族院本会議の演説で、菊池武夫議員(男爵・陸軍中将・在郷軍人議員)が、美濃部達吉議員(東京帝国大学名誉教授・帝国学士院会員議員)の天皇機関説を、「国体に背く学説」であるとして、「緩慢なる謀反であり、明らかなる叛逆になる」とし、美濃部を「学匪」「謀叛人」と非難し、井田磐楠らと貴衆両院有志懇談会を作り、機関説排撃を決議した事件です。
2月25日には美濃部議員が「一身上の弁明」として、天皇機関説を平易明瞭に解説する釈明演説を行い、菊池議員までもが「これならば問題なし」と語るに至りました。
去る2月19日の本会議におきまして、菊池男爵その他の方か私の著書につきましてご発言がありましたにつき、ここに一言一身上の弁明を試むるのやむを得ざるに至りました事は、私の深く遺憾とするところであります。……今会議において、再び私の著書をあげて、明白な反逆思想であると言われ、謀叛人であると言われました。また学匪であると断言せられたのであります。日本臣民にとり、反逆者、謀叛人と言わるるのはこの上なき侮辱であります。学問を専攻している者にとって、学匪と言わるることは堪え難い侮辱であると思います。……いわゆる機関説と申しまするは、国家それ自身を一つの生命あり、それ自身に目的を有する恒久的の団体、即ち法律学上の言葉を以て申せば、一つの法人と観念いたしまして、天皇はこれ法人たる国家の元首たる地位にありまし、国家を代表して国家の一切の権利を総攬し給い、天皇が憲法に従って行わせられまする行為力、即ち国家の行為たる効力を生ずるということを言い現わすものであります。
「一身上の弁明」演説
しかし3月に再び天皇機関説問題が蒸し返され、議場の外では皇道派による抗議の怒号が収まらなかったそうです。
批判者の中には「天皇機関説とは何たるか」すら理解していない人も多く、「畏れ多くも、天皇陛下を機関車や機関銃に喩えるとは何事か」と激高する者までいる始末だったようです。
これなどは天皇についての戦前の小学校での教育・洗脳の恐ろしさを如実に示す好例です。余談ですが、戦後のGHQによる「日本人洗脳プログラム」の悪影響も、いまだに日本社会を蝕んでいます。
その後「国体明徴問題(こくたいめいちょうもんだい)」に発展し、政府は美濃部の著書3冊(「憲法撮要」「逐条憲法精義」「日本国憲法ノ基本主義」)を発禁処分とし、「天皇機関説は神聖なる我が国体に反する」という「国体明徴声明」(*)を8月と10月の二度にわたって出しました。
(*)国体明徴の決議
「国体の本義を明徴にし人心の帰趨を一にするは刻下最大の要務なり。政府は崇高無比なる我が国体と相容れざる言説に対し直に断乎たる措置を取るべし」
美濃部議員は「不敬罪」で告発され取調べを受け(起訴猶予処分)、9月には貴族院議員を辞職しました。
(2)天皇機関説事件の背景
政党政治の不全が顕著となり、議会の統制を嫌う軍部が台頭して国体思想が主張され、天皇を絶対視する思想が広まったことが、この事件の背景です。
1931年の「満州事変」以降、軍部や右翼団体が天皇機関説を「国体に反する反逆思想」として攻撃するようになりました。
1932年に起きた「五・一五事件」で犬養毅首相が暗殺され、「憲政の常道」が崩壊するとこの傾向は強まっていきました。
同時期ドイツでアドルフ・ヒトラーが率いるナチスが政権を掌握すると、1933年にはユダヤ人の著作などに対する焚書(ナチス・ドイツの焚書)が行われました。この焚書で、天皇機関説に影響を与えたユダヤ人の公法学者ゲオルグ・イェリネックの著作も焼かれました。
ナチス・ドイツへの関心や親近感の高まりが、天皇機関説敵視に影響を与えた可能性もあります。
また当時の岡田啓介内閣を攻撃して倒閣を狙う野党が便乗して天皇機関説を攻撃する「政党間の政争」の一面もあったようです。
その後1936年に起きた「二・二六事件」で岡田啓介首相も官邸で青年将校たちに襲われましたが、義弟が首相と誤認されて殺害されたため、奇跡的に難を逃れました。
5.日本国憲法と天皇機関説
(1)憲法改正気運と美濃部達吉の対応
終戦後、「憲法改正」の気運が高まる中、明治憲法を支持する美濃部達吉は、枢密院において「現行の憲法(明治憲法)を天皇機関説解釈に戻せば、議会制民主主義は復活できる」と主張して新しい憲法に断固反対しました。
日本政府・自由党・社会党が作った憲法草案は、全て天皇機関説に基づいて構成されたものでした。しかしGHQは「天皇を最高機関とせず、国民主権原理に基づく新憲法草案」を作り、これをベースにした日本国憲法が施行されました。
(2)日本国憲法施行で学説存立の基礎を失う
日本国憲法第1条で、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」とあり、
同第41条で、「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」とあります。
同第65条で、「行政権は内閣に属する」とあり、同第76条で、「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」とあります。
このように日本国憲法では、「天皇は象徴」となり、「国民主権(主権在民)」と「三権分立」が明確に定められたため、天皇は最高機関としての地位を失い、「天皇機関説」という学説も存立の基礎がなくなりました。