1.「敵に塩を送る」という美談
「敵に塩を送る」というのは、現代では「争っている相手が苦しんでいる時に、争いの本質ではない分野については援助を与えることのたとえ」として使われています。具体例としては、赤十字による「人道支援」のようなものがあります。
甲斐の武田信玄(1521年~1573年)は、信濃進出に当たり、1554年に相模の北条氏、駿河の今川氏と同盟を結びました(甲相駿三国同盟)。
三国同盟成立の1年前の1553年から武田信玄と上杉謙信は、犀川と千曲川の合する川中島で雌雄を決する「川中島の戦い」を開始していますが、川中島の攻防は一進一退を繰り返す膠着状態に陥り、十年戦争の様相(1553年から1564年まで五次にわたる合戦があった)を呈します。
そんな中、東海地方への進出も画策した武田信玄は今川氏真との関係悪化により、1561年、今川氏から塩の供給を停止されます。相模の北条氏からも「経済封鎖」に遭い、「甲相駿三国同盟」は崩壊して万事休すです。
甲斐は内陸の国で海がないため塩が取れず、全て駿河湾で取れる塩を今川氏から買っていましたから、この「塩留め」(塩の供給停止措置)は大変な痛手です。
そんな状況を見た義理人情に厚く「義の人」と呼ばれる上杉謙信は、今川氏や北条氏のやり方は卑怯だとして、交戦中の相手である武田信玄に塩を送ってやったという「美談」のような逸話です。
この逸話は、江戸時代の備前岡山藩の儒学者であった湯浅常山が戦国武将の逸話を集めた「常山紀談」という本に載っています。
2.「敵に塩を送る」の真実
しかし、この「美談」は、事実とはだいぶ違っているようです。
ただ、「常山紀談」の中で湯浅常山も明記しているように、上杉謙信は武田信玄に「塩を贈った」のではなく「送った」だけであり、もっと端的に言えば「塩の供給停止措置はせずに、塩を売ってやった」というだけなのです。もっと言えば、これはビジネスであり、越後で余っている塩を甲斐に売り付けて儲けたとも言えるわけです。
もともと直江津における製塩は、上杉謙信の軍資金の重要な拠り所であり、瀬戸内地方から来る竹原塩も加わって越後で塩はダブついていたかもしれないのです。甲斐への塩の販売は大きなビジネスチャンスだったのではないでしょうか?
これなら、疑い深い私でも納得できる話です。