日本三大美人には、「美人の多い地域」という観点から「秋田美人・京美人・博多美人」という言い方もありますが、通常は、「衣通姫(そとおりひめ)/衣通郎姫(そとおしのいらつめ)」「小野小町(おののこまち)」「藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)」です。
この中で「衣通姫(衣通郎姫)」は伝説上の人物であり、「藤原道綱母」もあまり詳しいことはわかりませんので、一番有名なのは「小野小町」です。
しかしそうは言っても、紫式部や清少納言などと比べて、小野小町について詳しく知っている人は少ないのではないかと思います。
そこで今回は小野小町について詳しくご紹介したいと思います。
1.小野小町とは
小野小町(825年?~900年?)は平安時代前期(9世紀ごろ)の女流歌人で、「六歌仙」「三十六歌仙」の一人です。「古今和歌集」の代表的歌人で、恋愛歌に秀作があります。
安倍清行(825年~900年)、小野貞樹(生没年不詳)、文屋康秀(?~885年?)、凡河内躬恒(859年?~925年?)、在原業平(825年~880年)、僧遍照(816年~890年)らとの歌の贈答があったことから、文徳・清和・陽成朝(850~884年)が活動期と考えられています。
出自は、系図集「尊卑分脈」によれば、「小野篁(802年~852年)の息子である出羽郡司・小野良真の娘」とされていますが、はっきりしません。年代的には「小野篁の娘」と言った方が合っているような気がします。身分についても、「更衣」や「采女」とする説もありますが、はっきりしていません。
小野氏出身の宮廷女房と見られ、仁明(にんみょう)天皇(810年~850年)と文徳(もんとく)天皇(827年~858年)の後宮に仕えていたようです。宮廷貴族や歌人との交流や数々の恋愛があったことは、残された和歌などから間違いはないと思われます。
平安中期から、その歌才、美貌、老後などについて様々な伝説が生まれています。これだけ有名な歌人の生没年や出自・墓所などがはっきりしておらず、多くの伝説と作った歌だけが後世に残っているのは、不思議な気もします。
100年ほど後の時代の「源氏物語」を書いた紫式部、「枕草子」を書いた清少納言、あるいは和泉式部のように結婚して子供(小式部内侍)がいたり、「和泉式部日記」のような日記でも残していれば、もう少し詳しいことがわかったかもしれません。しかし、それでこそ「レジェンド(legend)」(伝説の人)なのでしょう。
2.小野小町の和歌
「よき女の悩める所あるに似たり」と評されるように、この時代としては珍しく女の立場から情熱的に恋愛感情を率直に表現した恋の歌で知られています。華麗な技巧と大胆な着想に富む新風の和歌が彼女の魅力です。ただし、哀感・諦念のこもった「実を結ぶことのない不毛の愛」を詠んだ歌に特色があります。
その歌作には、漢詩の表現が多く取り入れられており、中国文学の豊かな知識を持つ教養の高い女性であったことがわかります。
宮廷貴族や歌人らとの贈答歌には、愛の移ろいを恨んだり、誠意の足りなさを責めたり、無抵抗に靡いたりなど千変万化の媚態が見られます。
一方、「題しらず」歌には、人生の空しさや衰えを嘆き、現世で叶わぬ恋をはかない夢に賭けるなど純粋で情熱的な女人像を示しています。
このような歌の印象が、色好みな女や遊女、零落した老女、貴人王族との悲恋など様々な「小町伝説」を生むことになりました。
「花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」
「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを」
「いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣をかへしてぞきる」
「秋風にあふたのみこそ悲しけれわが身むなしくなりぬと思へば」
「秋の夜も名のみなりけり逢ふといへば事ぞともなく明けぬるものを」
「あはれてふことこそうたて世の中を思ひはなれぬほだしなりけれ」
「今はとてわが身時雨にふりぬれば言の葉さへにうつろひにけり」
「色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける」
3.小野小町伝説
(1)福島県小野町の伝説(小野町公式ウェブサイトより引用)
時は平安朝初期、七里ヶ沢といわれたこの一帯に、公家の血を引く小野篁が救民撫育のためにやって来た。都の教養人であった、篁は、この地を「小野六郷」と称して治め、産業や文化の礎を築くのに懸命の日々を送っていた。ちょうどその頃、篁の荘園に仕える一人の娘がいた。愛子(めずらこ・珍敷御前)というその娘は息をのむほどに美しかった。篁と愛子はたがいに文を交し合う仲となり、そして結ばれた。間もなく玉のように愛らしい姫が生まれた。二人は姫を比古姫と名付け、たいそう大事に育てた。やがて比古姫が六歳になったあ る春の日、篁は妻愛子をこの地に残し、姫を連れ都へ上がっていったのだった。この比古姫こそ後の小野小町である。
(2)百夜通い(ももよがよい)伝説
深草少将(ふかくさのしょうしょう)という人物が、小野小町に惚れて恋文を送りました。しかし、小町はこれに困って、彼に諦めさせようと「私のもとに百夜通ってくれたら、思いを受けます。ただし会いもしないし、声をかけてもいけません」と返事を返します。
少将は雨の日も風の日も、毎日通います。しかし雪の降る99日目の夜に倒れ、息絶えてしまったということです。
「榻の端書き(しじのはしがき)」も似たような伝説です。
これは男の恋心の切実さのたとえ、また、思うようにならない恋のたとえです。昔、男が女との恋を成就するために、百夜通ったら会おうという女の言葉に従って99夜通い、榻(しじ)にその印をつけたが、あと1夜という時に差し支えができ、ついにその恋は叶わなかったという伝説です。
ちなみに「榻」とは、「牛車(ぎっしゃ)から牛を外したとき、車の轅(ながえ)の軛(くびき)を支え、乗り降りに際しては踏み台とする台」のことです。
(3)七小町伝説
以下の「七小町伝説」は謡曲の題材となっています。
①「草子洗小町(そうしあらいこまち)」伝説
小野小町を陥れようとして「入れ筆」をした大伴黒主の罪を、紙を洗って暴き、それでも寛容に大伴黒主を許す話です。
②「雨乞小町(あまごいこまち)」伝説
雨が降らず干ばつになった時、小野小町が神泉苑で歌を詠み、その徳でにわかに大雨を降らせたという話です。
③「通小町(かよいこまち)」伝説
これは、「百夜通い伝説」の続編のような話です。深草少将は怨霊、小野小町も亡霊となっており、亡霊と怨霊が僧のおかげでまさかのハッピーエンドを迎えるという伝説です。
④「清水小町(しみずこまち)」伝説
これは、絶世の美女小野小町が老い始めた頃の話です。都で年老いた彼女が故郷を懐かしく思い、再びたどり着いた所が上岩川の小野村でした。この上岩川の岸辺に冷泉があり、彼女もこの冷泉を汲んで使ったので、後世「小町の清水」と呼びました。
この関清水という地に住んでいた彼女の小さな庵に在原業平が訪ねて来て、仏教に帰依することを勧めたので、彼女は諸国巡りの旅に出るという話です。
⑤「関寺小町(せきでらこまち)」伝説
華やかだった昔と現在との対比で、老女になった小野小町の深い嘆きの伝説です。
近江国関寺の僧が和歌の話を聞くために、稚児を伴って、近くに住む老女の庵を訪れます。和歌の物語の端々から、僧たちは老女が小野小町の成れの果てと知るという話です。
⑥「鸚鵡小町(おうむこまち)」伝説
老いて零落した小野小町が、帝の御詠に対し、「鸚鵡返しで返歌をした」という話です。彼女は100歳近くの老婆で物乞いになっていますが、和歌の能力だけは、全てを失っても健在だという伝説です。
⑦「卒塔婆小町(そとばこまち)」伝説
100歳近い物乞いの小野小町に高野山の僧が説教しようとしますが、彼女が逆に「もともと本来無一物であり、仏も衆生も隔てない」と説教します。僧は「誠に悟れる非人」と頭を地につけて三度礼拝します。
そこで老女は小野小町と名乗り、昔に引きかえた有様を恥じます。その有様を語るうちに深草少将の怨念が憑き半狂乱になるという話です。
(4)美人零落を記した書
「玉造小町壮衰書(たまつくりこまちそうすいしょ)」があります。「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」や「徒然草」でも、この書物を引用しています。
①古今著聞集巻第五「小野小町が壮衰の事」
小野小町がわかくて色を好みし時、もてなしありざまたぐひなかりけり。「壮衰記」といふものには、三皇五帝の妃も、漢王・周公の妻もいまだこのおごりをなさずと書きたり。かかれば、衣には錦繍のたぐひを重ね、食には海陸の珍をととのへ、身には蘭霧を薫じ、口には和歌を詠じて、よるづの男をぱいやしくのみ思ひくたし、女御・后に心をかけたりしほどに、十七にて母をうしなひ、十九にて父におくれ、二十一にて兄にわかれ、二十三にて弟を先立てしかば、単孤無頼のひとり人になりて、たのむかたなかりき。いみじかりつるさかえ日ごとにおとろへ、花やかなりし貌としどしにすたれつつ、心をかけたるたぐひも疎くのみなりしかば、家は破れて月ばかりむなしくすみ、庭はあれて蓬のみいたづらにしげし。かくまでなりにけれ、文屋康秀が三河の橡にて下りけるに誘はれて、
「侘びぬれば身をうきくさのねをたえてさそふ水あらばいなんとぞ思ふ」
とよみて、次第におちぶれ行くほどに、はては野山にぞさそらひける。人間の有様、これにて知るべし。
意味は次のようになります。
「小野小町が若くて、華やかな恋愛の日々を送っていた頃、そのもてはやされぶりは比類ないものだった。『玉造小町壮衰書』には、「三皇五帝の后も、漢王・周公の妻もいまだこの驕りをなさず」と書かれてある。
実際小町は、衣には錦繍の類を重ね、食には山海の珍味を取り揃え、素晴らしい香を身にたきしめ、優雅に和歌を詠じて暮らしていた。
幾多の男を取るに足らない者として見下し、いずれは皇后になろうかという望みすら抱いたが、17歳で母を失い、19歳で父・21歳で兄・23歳で弟と死に分かれて、寄る辺ない独り身になった。
後ろ盾がなくては立身の見込みもない。目を見張るほどだった豪奢な暮らしも、日ごとに貧しくなった。
絶世の美人と謳われた容色は齢を重ねるにしたがって衰え、それとともに、交情のあった男たちも次第に遠ざかった。破れ家から月だけが虚しく澄んで見え、荒れ果てた庭に雑草ばかりが生い茂った。
そんな時、歌仲間の文屋康秀が、三河国の三等官の職を得て赴任するにあたり、「小町よ、私と行かないか」と誘った。
その返事の歌は、「侘びぬれば身をうき草の根を絶えてさそふ水あらばいなんとぞ思ふ」(すっかり落ちぶれた私だから、根なし草みたいに誘い水に流されて行くのもいいかもしれませんね。まぁ、やめておきますが・・・)でした。
その後、いよいよ零落して、しまいには山野をさすらったという。人間の運命のはかなさがよくわかる話だ。」
②徒然草第173段「小野小町が事」
小野小町が事、極めて定かならず。衰へたる様は、「玉造」と言ふ文に見えたり。この文、清行が書けりといふ説あれど、高野大師の御作の目録に入れり。大師は承和の初めにかくれ給へり。小町が盛りなる事、その後の事にや。なほおぼつかなし。
意味は次のようになります。
「小野小町の生涯は、極めて謎である。没落した姿は「玉造小町壮衰書」という文献に見られる。この文献は三善清行の手によるという説もあるが、弘法大師の著作リストにも記されている。大師は西暦835年に他界した。小町が男どもを夢中にさせたのは、その後の時代の出来事だ。謎は深まるばかりである。」
(5)老後の落魄を語るもの
晩年、乞食になって流浪し路傍に野ざらしになったという口碑は全国に伝承され、彼女を葬ったという「小町塚」「小町堂」「小町仏」などの遺跡が各地に散在しています。
このような小野小町にまつわる伝説・伝承が広まったのは、実際に彼女が「四国八十八カ所のお遍路」のように諸国を巡った可能性が高いからだと私は思います。中には、彼女の名を騙る「ニセ小野小町」の物乞いもいたかもしれませんが・・・
また平安時代から鎌倉時代・室町時代にかけて生きた人々には「菅原道真の怨霊伝説」や「方丈記・平家物語・徒然草の無常観」や「末法思想」などが身近だったので、かつて栄華を極めた絶世の美女小野小町の落魄・零落ぶりを見てまざまざと無常観を感じたからのように思います。
4.生誕地・晩年・墓にまつわる伝承
(1)生誕地
伝承によると、現在の秋田県湯沢市小野と言われており、晩年も同地で過ごしたとの言い伝えが残っています。
このほかにも、京都市山科区小野とする説、滋賀県彦根市小野町とする説、福井県越前市とする説、福島県小野町とする説などがあります。
(2)晩年
秋田県湯沢市小野で過ごしたとする説のほか、京都市山科区小野は小野氏の栄えた土地とされ、ここで過ごしたとする説があります。この地にある随心院には「卒塔婆小町像」や「文塚」などの史跡が残っています。
(3)墓
小野小町の墓とされるものは、秋田県湯沢市小野をはじめ全国に点在しています。このため、どの墓が本物なのかわかっていません。ただ平安時代の頃までは、皇族以外は貴族でも「風葬」(*)が一般的であったため、墓自体がない可能性も示唆されています。
(*)「風葬」とは、「死体を埋葬せず、樹上や地上で外気中に晒して風化させ自然に還す葬制」のことです。「空葬」とも言われます。
以前「千の風になって」という歌が流行しましたが、これは「風葬」の考え方に通じるものだと思います。仏教が伝来する以前は、天皇家や有力豪族が権力を誇示するために古墳を作ったりする以外は「風葬」だったというのは、わかるような気がします。
埋葬地はあっても「墓石」は作らないというのは、宗教を全く信じない私としては受け入れやすい考え方です。
コメント
こんばんは、ブログランキングから来ました。
小野小町は有名ですね。
でも、そらんじて言えるのは、「花の色は移りにけりな・・・」ぐらいです。
生没年も不詳で、尚更、謎めいてますね。
かなり、詳細な記述でしたので関心を持って読ませていただきました。
また、のぞきにきます。