皆さんは将軍になれなかった残念な尾張藩主・徳川継友をご存知でしょうか?将軍でもないため、肖像画は見つかりませんでしたが、上の画像は彼の達筆な書「心至善」です。
御三家の筆頭格の尾張家の藩主の彼はなぜ将軍になれなかったのでしょうか?
今回は徳川継友についてわかりやすくご紹介したいと思います。
1.徳川継友(とくがわつぐとも)とは
徳川継友(1692年~1731年)は、江戸時代中期の大名で尾張名古屋藩徳川家6代藩主で、3代藩主徳川綱誠(つななり)(1652年~1699年)の11男です。
物価の高騰や名古屋大火など度重なる災害を克服し、財政を再建、名古屋の発展に伴う周辺開発や行政機構の刷新を手掛けました。
兄の4代藩主・徳川吉通(1689年~1713年)や甥の5代藩主・徳川五郎太(1711年~1713年)が相次いで急死したため、1713年に21歳で家督を継ぎ6代藩主となりましたが、後継者がないまま麻疹に罹り39歳で亡くなりました。
2.兄は6代将軍徳川家宣(いえのぶ)の後継者候補だった
6代徳川家宣(1662年~1712年、在職:1709年~1712年)は、徳川吉通を7代将軍にしたい意向でした。
吉通・継友兄弟の父・徳川綱誠の母は、3代将軍徳川家光の長女・千代姫であり、尾張徳川家は将軍に最も近い血筋でもあったからです。
しかし、側用人・間部詮房(まなべあきふさ)や新井白石らの反対によって、家宣の実子で生き残っていた鍋松が、7代将軍・家継となりました。
間部詮房や新井白石らが吉通を将軍にすることに反対したのは、4歳の幼児鍋松を将軍に据えることで自分たちが政治の実権を握ることを狙ったものです。
尾張藩には「将軍位を争うべからず」という不文律があったため、後継者争いの混乱は起きませんでした。
3.彼は7代将軍徳川家継(いえつぐ)の後継者候補だった
しかし7代徳川家継(1709年~1716年、在職:1713年~1716年)が危篤に陥ると、将軍候補は尾張藩主の彼と、紀州藩主の徳川吉宗(1684年~1751年)に絞られました。
彼は兄吉通と同じく将軍家に最も近い血筋で、しかも関白太政大臣・近衛家熙の次女の安己姫と婚約していました。
安己姫は、6代将軍家宣の正室で大奥の実力者・天英院(近衛熙子)の姪であり、姉の近衛尚子は中御門天皇の女御になることが決まっていました。
間部詮房はじめ家継の幕閣たちは彼に従四位下・左近衛権少将・大隅守という官位を与えており、彼は大奥からも幕閣や朝廷からも将軍に推されると見られていました。
しかし、天英院は彼ではなく紀州の吉宗を指名し、8代将軍となりました。これは尾張藩が「尾張は将軍位を争うべからず」という不文律があるために油断し、積極的に「将軍就任運動」(今風に言えば賄賂などの「ロビー活動」)をしていなかったことが原因のようです。
また天英院は、自分の姪が次期将軍の御台所になることによって大奥における自らの立場が弱くなることを嫌ったのかもしれません。
さらに天英院は、家宣の側室で家継の生母・月光院との大奥での勢力争いがあったと思われます。家宣の正室として次期将軍を指名することで、「キングメーカー」的な力を示したのではないでしょうか?
彼は幼少の頃から金銭の蓄積に熱心で、領民の評判は「性質短慮でケチ」だったようです。そのため、賄賂などの「ロビー活動」の出費を惜しんだのかもしれません。何だか浅野内匠頭にも似ているようですね。
将軍位継承争いに敗れた後は、「尾張大納言」と「尾張大根」を掛けて「切干(きりぼし)大根」というあだ名がつきました。
一方で彼は、綱誠の頃から5代将軍綱吉の「御成り費用」などで逼迫していた藩財政の立て直しを図り、役職を整理したり、一族への給与の削減を実行し、黒字化に成功しました。
緊縮財政下にもかかわらず、名古屋の発展は著しく、江戸の豪商三井家越後屋が再び出店し、城下町人口も7万人を超え、これらが次の7代藩主徳川宗春(1696年~1764年)の時代の飛躍につながりました。宗春は彼の異母弟です。