「ミロのヴィーナス」は1964年、私が中学3年の時に京都市美術館に来ましたが、「大変な人気で大勢の人が見に行くのでゆっくり見られない」という話を聞いて、見るのを断念しました。
この「ミロのビーナス展」の入場者数は、国立西洋美術館との合計で175万人で、150万人が入場した1974年の「モナ・リザ展」を上回る人気でした。
そして50代になってから、夫婦でヨーロッパ旅行をした時に、パリのルーブル美術館でじっくり見ました。この時は、さほど人が集まっておらず、しかも意外と間近に見られたので拍子抜けしたくらいです。
ちなみに、「ミロのヴィーナス」が海外に出たのは1964年の日本だけだそうで、その他の国では日本ほどの人気はないようです。
1.「ミロのヴィーナス」の作者は誰か?
作者は、紀元前130年頃に活動していた古代ギリシャ「ヘレニズム期」の芸術家・彫刻家のアンティオキアのアレクサンドロス(生没年不詳)と言われています。
彼の生涯についてはほとんどわかっていませんが、彼は父メニデスのもとに生まれ、放浪しながら芸術家としての活動をしており、制作は依頼を受け次第行ったとされています。
彼は「古典期」の紀元前4世紀の彫刻家プラクシテレスの作品を範とし、その再現を試みたようです。プラクシテレスは、初めて等身大の女性の裸像を作った彫刻家と言われています。
古代都市テスピアイの碑文によると、彼は紀元前80年頃に、歌と作曲のコンテストで優勝したということです。
ミロのヴィーナスの台座部分にあった碑文は、1820年代にルーブル美術館に持ち込まれた時、紛失してしまったそうです。ただ紛失前にスケッチ(下の写真)された碑文と字形から、プラクシテレスの作品だとする説もあります。
なお、デロス島から出土した「アレクサンダー大王像」も、作風から彼が制作したと考えられています。
2.「ミロのヴィーナス」の制作目的は何か?
神殿に飾る女神像として制作したのでしょうか?それとも古代ギリシャの有力者か富豪に依頼されたのでしょうか?
アンティオキアのアレクサンドロスは放浪しながら依頼を受けて彫刻作品を作るのを業としていたようですが、このミロのヴィーナスはかなりの大作なので、制作年月も長く、報酬も高額だったのではないかと思います。
「ミロのヴィーナス」は、気品溢れる女性美の典型ですが、「アレクサンダー大王像」は逞しい写実的な男性像です。いずれにしても彼は、ミケランジェロ(1475年~1564年)のダビデ像を彷彿とさせるような天才彫刻家だったと思います。
3.「ミロのヴィーナス」にはなぜ腕がなく地中に埋もれていたのか?
通常、神殿の柱などに使われる女神像は「着衣」で、腕も下に降ろしていたり最初から下半分を作っていないと思います。一方、ミロのヴィーナスは「裸像」で右腕は最初から上の部分だけですが、左腕は不自然に肩から欠損しています。元の形態が実際はどのようなものだったか分かりませんが、ルネサンス期の彫刻や現代彫刻のように自由で自然な形のような気がします。
現在ミロのヴィーナスの左腕と右前腕は失われていますが、実はこの像が発見された時、この像に属すると思われる「林檎を持った左手」と「右前腕」も発見されました。リンゴを持つ左手がこの像のものとすれば、「勝利のアフロディテ」(「パリスの審判(*)」で黄金の林檎を得た女神)ということになります。
(*)パリスの審判とは
ギリシャ神話の一挿話で、「トロイア戦争」の発端とされる事件です。
イリオス(トロイア)王プリアモスの息子パリス(アレクサンドロス)が、神々の女王ヘーラー・知恵の女神アテナ・愛と美の女神アフロディテという天界での三美神のうちで誰が一番美しいかを判定させられ、黄金の林檎をアフロディテ(上のルーベンスの絵の真ん中の女神)に与えたという話です。
様々な芸術家や科学者が、欠けた部分を補った姿を復元しようと試みていますが、現在のところ定説と呼べるほど成功しているものはありません。
黄金の林檎を手にした「勝利のアフロディテ」だという話が広く伝わっており、ドイツの考古学者・美術史家のアドルフ・フルトヴェングラー(1853年~1907年)による復元像(下の写真)でも左手にリンゴを持っています。余談ですが、彼は有名な指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886年~1954年)の父です。
また、この像は本来ヴィーナスではなかったという説もあります。当時ヨーロッパでは土着の神話はほとんど信仰されておらず、信仰の対象はほとんどがオリエント由来の神々でした。異教の神である証拠となる部分を切り落とし、ローマ由来の神の像として存続させようと図ったのだという説もあります。
アテネなどできちんと保管されていたのでなく、エーゲ海の小島で長年の間地中に埋もれていたのも、偶像崇拝を禁じるオスマントルコ帝国の目を逃れるためだったのでしょうか?
あるいはエーゲ海のキュクラデス諸島が大理石や大理石を研磨する黒曜石の産地なので、そこで切り出された大理石を使ってヴィーナスの彫像を作ったものの引き渡す前に何らかのトラブルがあって引き渡せず、制作した彼が彫像をいくつかの部分にばらした上で、保管場所として地中に埋めておき、また放浪の旅に出て戻って来なかったため、そのままになったのでしょうか?
地中に埋めたのは、大理石は変成岩で炭酸カルシウムが主成分なので酸に弱く、雨(特に酸性雨)に触れると光沢が失われたり表面が風化してザラザラして苔が付着したりするので、それを防ぐためでしょう。
一方、詩人・作家の清岡卓行(1922年~2006年)は、第二評論集「手の変幻」に収録された「ミロのヴィーナス」の中で、「ヴィーナスの両腕の不在のゆえに、そこには想像力による特殊から普遍への飛翔が可能なのだ」と述べています。「不完の傑作」「不完全性そのものから来る想像的魅力」ということのようです。
4.「ミロのヴィーナス」とは
ミロのヴィーナスは「ヘレニズム期(*)」に制作された代表的ギリシャ彫刻です。ミロは発見された島の名前です。ヴィーナスはギリシャのオリンポス12神の中の愛と美の女神アフロディテのラテン名です。
(*)ヘレニズム期とは
「ヘレニズム」は「ギリシャ風」という意味で、人間中心的な合理的精神を基盤とする古代ギリシャの文化・思想を指します。東方文化との融合から、超民族的普遍的性格を持っています。「ヘブライズム」とともに、西洋文明の二大源流となっています。
時代的にはアレクサンダー大王の東征(紀元前334年)から、クレオパトラが最後の女王となったエジプトのプトレマイオス王朝の滅亡(紀元前30年)までの約300年間を指します。
1820年、オスマン帝国の統治下にあったエーゲ海のキュクラデス諸島の一つのミロ島(メロス島)で、ギリシャ人の一農夫の手で二つの石が発掘されました。この二つの石に興味を抱いた若いフランス人オリヴィエ・ヴーティエが、さらに他の断片がないかを農夫に捜してもらったところ、合計6個の断片が発掘されたのです。
つまり発掘当時ヴィーナスは、現在我々が見るような2mあまりの巨大な彫像の形で埋もれていたのではなく、6つの断片(パーツ)の石でした。
そしてそれらをパズルのように組み合わせた彼らは、やがて上半身裸体の美しい女性像と遭遇することになったのです。タイムカプセルに眠っていたように、1900年以上の年月を経て日の目を見たわけです。
農夫は最初官吏に見つからないように隠していましたが、トルコ人の官吏に発見され没収されました。
後にフランス海軍提督デュルヴィルがこの像の価値を認め、駐トルコのフランス大使に頼み込んでトルコ政府から買い上げました。そして修復後、1821年にフランス国王ルイ18世に献上され、ルイ18世はルーブル美術館に寄贈したのです。
高さ203cmの大理石像で、制作年代は紀元前2世紀末と見られています。
ちなみにミロのヴィーナスの「均整の取れた美しさ」は、「黄金比」にあると言われています。これは、「足元からへそまでの長さ」と「足元から頭頂部までの長さ」の比、「へそから首の付け根までの長さ」と「へそから頭頂部までの長さ」の比が、それぞれ1:1.618(約5:8)の黄金比になっているからだそうです。