夏の季節感をよく表した曲として私が思い浮かべるのは「夏の思い出」と「夏は来ぬ」です。
「夏の思い出」は終戦後に作られた曲なので、現代の我々にもよくわかります(ただし、尾瀬でミズバショウが咲くのは5月末ごろで、夏休みの7~8月頃と勘違いしている人も多い)が、「夏は来ぬ」は明治時代の詩なので、現代人には馴染みの薄いものも多く含まれています。
しかし、古き良き時代の日本の原風景が詠み込まれていますので格好の教材であり、よく理解して味わいたいものです。
1.「夏は来ぬ」
(1)「夏は来ぬ」とは
「夏は来ぬ」は、佐佐木信綱作詞、小山作之助作曲の唱歌で、1896年5月に「新編教育唱歌集」に発表されました。2007年に「日本の歌百選」に選出されました。
卯の花(ウツギの花)、ホトトギス、田植えの早乙女(さおとめ)、橘、蛍、楝(おうち)、水鶏(クイナ)といった初夏を彩る風物を歌い込んでいます。
ただし現代人、特に都市部に住む人間には馴染みの薄いものが多い印象です。
(2)「夏は来ぬ」の歌詞とその意味
卯の花の 匂う垣根に
時鳥(ホトトギス) 早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬさみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾(もすそ)ぬらして
玉苗(たまなえ)植うる 夏は来ぬ橘(タチバナ)の 薫る軒端(のきば)の
窓近く 蛍飛びかい
おこたり諌(いさ)むる 夏は来ぬ楝(おうち)ちる 川べの宿の
門(かど)遠く 水鶏(クイナ)声して
夕月すずしき 夏は来ぬ五月(さつき)やみ 蛍飛びかい
水鶏(クイナ)鳴き 卯の花咲きて
早苗(さなえ)植えわたす 夏は来ぬ
この歌は文語調でやや堅苦しく、現代人には意味がわかりにくい部分もあると思います。しかしメロディーはなぜか懐かしく、我々の郷愁を誘うものです。
1番の歌詞は「卯の花とホトトギス」です。
「卯の花」は初夏に白い花を咲かせるウツギ(下の画像)のことです。旧暦の4月(卯月)頃に咲くことから「卯月の花」=「卯の花」と呼ばれるようになりました。
「早も来鳴きて」は、文語で「早くも来て鳴いている」という意味です。
「忍音(しのびね)」は、その年に初めて聞かれるホトトギス(上の画像)の鳴き声を指しています。ウグイスにも「初音(はつね)」という言葉がありますね。
「夏は来ぬ」は、文語で「夏が来た」という意味です。
ただ、私を含めてホトトギスの声を実際に聞いたことがある人は少ないのではないでしょうか?下のYouTube「ホトトギスの鳴き声」でご確認ください。
ちなみに、ホトトギスの鳴き声については、「キョッキョッ キョキョキョキョ」と聞こえたり、「ホ・ト・・・ト・ギ・ス」とも聞こえます。昔からこの鳴き声の「聞きなし」として「特許許可局」「本尊掛けたか」「テッペンカケタカ」が知られています。
2番の歌詞は「山村の田植え」です。
「五月雨(さみだれ)」は旧暦の5月頃に降る梅雨の雨です。「五月(さつき/皐月)」は田植えの月として「早苗月(さなえづき)」とも呼ばれました。
「早乙女(さおとめ)」とは、田植えをする女性(下の画像)のことです。
「裳裾(もすそ)」は衣服の裾のことで、「玉苗」は「早苗(さなえ)」と同じ意味で、「苗代(なわしろ/なえしろ)」から田へ移し植えられる苗のことです。
3番の歌詞は「蛍雪の功」です。
「橘」(下の画像)は、ミカン科ミカン属の常緑小高木です。日本に古くから自生していた柑橘類で、果実は直径3cmほどで、外見は紀州みかんや温州みかんに似ていますが、酸味が強く生食用には向いていません。
橘の花は、「文化勲章」のデザインにも使用されています。
「右近の橘 左近の桜」で有名な橘です。「右近の橘」は平安時代以降、紫宸殿の南階下の西方(「御所(内裏)から南に向かって座す天皇から見て右側)に植えられました。余談ですが、「御所から見て左右・前後を表すもの」としては、「右京区・左京区」、「越前・越中・越後」「備前・備中・備後」などがあります。
「古今和歌集」にも「さつき待つ 花橘の香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする」(よみ人しらず)と詠まれています。
歌詞の後半に「蛍飛びかい おこたり諌(いさ)むる」とあるのは、中国の故事「蛍雪の功」からヒントを得たものでしょう。
4番の歌詞は「農村の夕暮れ」です。
冒頭の「楝(おうち)」とは、初夏に花をつけるセンダン科センダン属の落葉高木「栴檀(せんだん)」(下の画像)のことです。「栴檀は双葉より芳し」ということわざで有名ですね。
「水鶏(クイナ)」は、古典文学にたびたび登場する「緋水鶏(ヒクイナ)」のことです。
ヒクイナの鳴き声は、戸を叩くようにも聞こえることから、「たたく」「門」「扉」などの言葉と関連付けて用いられてきました。
「源氏物語・明石」には、「くひなのうちたたきたるは、誰が門さしてとあはれにおぼゆ」とあり、松尾芭蕉には「此宿は水鶏も知らぬ扉かな」という句があります。
5番の歌詞は「総まとめ」です。
1番から4番までの歌詞に登場した単語をまとめて再登場させ、夏の訪れを豊かに表現しています。
なお「五月(さつき)やみ」とは、「五月闇(皐月闇)」で、陰暦5月の梅雨が降る頃の夜の暗さや暗闇のことです。俳句で「夏」の季語になっています。
2.作詞者と作曲者
(1)作詞者・佐佐木信綱(ささきのぶつな)とは
佐佐木信綱(1872年~1963年)は、三重県出身の歌人・国文学者で文化勲章も受賞しています。歌人・国学者の佐々木弘綱の長男で、1888年16歳で東京帝国大学文学部古典講習科を卒業後、生涯民間にあって学者・歌人として世に重んじられました。
歌誌「心の花」を発行する短歌結社「松柏会」を主宰し、木下利玄・川田順・九条武子・柳原白蓮・相馬御風など多くの歌人を育成しました。
また御歌所寄人として歌会始撰者も務め、その流れで貞明皇后ら皇族に和歌の指導もしています。「日本文学報国会」の短歌部会長でもありました。
余談ですが、彼の苗字は本来「佐々木」ですが、中国を訪問した時に、中国には「々」(同の字点)の字がないことを知って、それ以後は「佐佐木」に改めたそうです。
(2)作曲者・小山作之助(こやまさくのすけ)とは
小山作之助(1864年~1927年)は越後国(現在の新潟県)出身の教育者・作曲家で、「日本教育音楽協会」初代会長です。
16歳で小学校を卒業後、石油事業をしていた父の仕事を手伝い、夜は漢学塾に通う生活をしていました。
1880年、家人に無断で上京し、大学予備門を経て築地大学(現在の明治学院大学)に進み英語と数学を学んだ後、1883年に「文部省音楽取調所」(後の東京音楽学校)に入所し、首席で卒業しました。
卒業後は教授補助として教壇に立ちました。彼は学生の指導、音楽の研究や作曲に非常に熱心で、教え子には後に作曲家となる瀧廉太郎らもいました。
1897年に教授となり1903年に退職しています。47歳の時に「文部省唱歌の編纂委員」となり、作曲や他の委員の指導に当たりました。