柿本人麻呂と言えば、百人一首の「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」という歌が有名ですが、その生涯についてはあまりよく知られていません。
そこで今回は柿本人麻呂についてわかりやすくご紹介したいと思います。
1.柿本人麻呂とは
柿本人麻呂(660年頃~724年)は、飛鳥時代の歌人で「三十六歌仙」の一人です。後世、山部赤人とともに「歌聖」と呼ばれています。
下級官吏として持統天皇・文武天皇に仕え、その歌才によって「宮廷歌人」的な役割も果たしていたようで、官命によって地方に旅行したり、地方官になったこともあると考えられています。
「万葉集」には、長歌18首、短歌68首が収められており、万葉集第一の歌人と認められています。このほかに、全てが人麻呂作とは思われませんが「人麻呂歌集に出づ」として約370首の歌が入っています。
2.柿本人麻呂は政争に敗れて死に追いやられたのか?
「古今和歌集」の真名序に「柿本大夫」とあることから、五位以上の殿上人であることが推測されます。さらに仮名序に「おほきみつのくらゐ」とあることから正三位であるともされます。
しかし、三位以上の位であれば、その死についての表記は「薨(こう)」となるはずですが、「万葉集」では「死」となっています。そのため、何らかの罪によって位を落とされたとの説もあります。
余談ですが「いろは歌」の「柿本人麻呂の暗号説」で、「咎無くて死す。ほをつのこめ(本を津の小女)」と解読して、「私は無実の罪で殺される。この本を津の妻へ届けてくれ」というメッセージだというものもあります。
哲学者の梅原猛氏(1925年~2019年)は、「柿本人麻呂は政争に敗れ、地方に流されて水死刑にあった上級公家」と推測しています。
そして、「歌仙・歌聖とされるのは、失脚し不遇な生涯を送った彼を慰めるために、鎮魂の意味で神格化した」と推測しています。
柿本人麻呂を祀る神社が34都道府県に252社(山口県に92社)もありますので、この説にはかなり説得力があります。彼が長門国司だったとの説もあります。藤原定家が「悲運の人」を選んだ百人一首に彼の歌が入っているのも頷けます。
3.柿本人麻呂の歌
彼の歌は、伝統を踏まえた上で独創的であり、時代の精神を体現しつつ個性的であり、自由で華やかな修辞、力強く重厚な詠風が特徴です。
・東(ひんがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ
・近江の海(み)夕波千鳥汝(な)が鳴けば心もしのに古(いにしへ)思ほゆ
・昨日こそ年は暮れしか春霞春日の山にはや立ちにけり
・明日からは若菜摘まむと片岡の朝の原は今日ぞ焼くめる
・ほととぎす鳴くや五月の短夜もひとりし寝れば
・梅の花それとも見えずひさかたの天霧る雪のなべて降れれば
・ほのぼのとあかしの浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ