団塊世代の私は、太平洋戦争に一兵士として従軍し、海軍陸戦隊の一員として海南島守備に当たった父から、軍隊での話をいくつか聞きました。
また同じく太平洋戦争に従軍した高校の先生からも、軍隊での悲惨な話や無責任な上官の話、初年兵いじめの話などを聞きました。
俳優の池部良さんも太平洋戦争に従軍した時に、上官に置き去りにされた話を本に書いていました。
その中で印象に残っているのは、「指揮官たる上官が、自分の身の安全を図る一方、部下の兵士たちを危険に晒したり、見殺しにした話」や、「天皇の権威を笠に着て、自分の命令は天皇陛下の命令であるとしたり、精神論を振りかざした話」、「部下から恨まれていた上官が、後ろから味方に銃で撃たれた話」などです。
そこで今回は、太平洋戦争で実際に行われた日本軍の作戦の中でも「史上最悪の作戦」と呼ばれる「インパール作戦」(日本側作戦名:ウ号作戦)と、それを立案し指揮した牟田口廉也中将という軍人についてご紹介したいと思います。
現代の政治家や官公庁の高級官僚、民間企業の経営者・幹部の言動を見たり、人物評価をする上でも参考になると思います。
1.インパール作戦とは
「インパール作戦」(日本側作戦名:ウ号作戦)とは、太平洋戦争の「ビルマ戦線」において、1944年3月から7月初旬まで継続された作戦です。
「援蒋ルート」(*)の遮断を戦略目的として、イギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指した作戦です。「ビルマからインドへ国境山脈を越えて急進し、3週間で英軍基地インパールを攻略する」という作戦でした。
(*)「援蔣ルート」とは、「日中戦争において日本と中華民国の蔣介石政権が対立した際、主にイギリス・アメリカ・ソ連が蔣介石政権を軍事援助するために用いた輸送路」のこと
兵力15万人のイギリス軍に対して、日本軍は9万人の兵力でしたが、3万人が戦死、3万人以上が病死(マラリアや赤痢などによる)・餓死で合計6万人以上が死亡し、残りの大半の兵士も負傷したり感染症に罹患するという大惨敗で、「史上最悪の作戦」と呼ばれています。
兵士の多くはジャングルや2,000m級の山岳地帯の行軍に難渋し、インパールにたどり着く前に疲労困憊して戦闘能力も意欲も失っていました。
しかも気の毒なことに、犠牲者の半数は撤退中に亡くなっています。ちなみに、「ビルマ戦線」で命を落とした日本軍将兵は16万人に及んでいます。
インパールはジャングルと2,000m級の山々が連なる山岳地帯で、この作戦に対しては当初大本営をはじめ上部軍である南方軍司令官や第15軍の参謀、隷下師団のほぼ全員が「補給が不可能」という理由から反対しました。
このように当初から軍内部でも慎重な意見があったものの、「盧溝橋事件」や太平洋戦争開戦時の「マレー作戦」「シンガポール攻略戦」での牟田口廉也中将の功績を評価し、戦局打開を期待する東條英機首相と、牟田口中将の強硬な主張によって作戦は決行されました。
「インパール作戦」は、「兵站」(*)を無視し、「精神論」(**)を重視した杜撰な作戦で、多くの犠牲者を出して歴史的大敗を喫したものであるため、「無謀な作戦」「無為無策の戦術」の代名詞としてしばしば引用されます。
ある漫画で、上司からほぼ達成不可能な命令を受けた部下が「インパール作戦かよ」と吐き捨てる場面がありました。
(*)「兵站」(Military Logistics)とは、「戦闘地帯から見て後方の軍の諸活動・機関・諸施設の総称」です。戦争において作戦を行う部隊の移動と支援を計画し実施する活動を指す用語でもあります。物資の配給や整備、兵員の展開や衛生、施設の構築や維持などが含まれます。
(**)「精神論」とは、牟田口中将の次のような言葉です。
これは撤退した部隊長を召集した時の訓示です。高度成長期にどこかの企業の社長がモーレツ社員たちに行った訓示を彷彿とさせるような言葉です。
「諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる…」
出典元:『責任なき戦場 インパール』
最前線は飢えやマラリアなどで戦闘どころではなく、作戦継続は困難と判断した佐藤幸徳・第31師団長は何度も撤退を進言しましたが、現場を知らない(あるいは知ろうとしないか、知っていても無視する)牟田口は続行を命じて撤退を許しませんでした。
佐藤師団長は「軍は兵隊の骨までしゃぶる鬼畜と化しつつあり」と激怒し、司令部に電文で次のように窮状を訴えました。
「善戦敢闘六十日に及び人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に詫びん。これを見て泣かざる者は人にあらず」
これを知った牟田口は「命令違反」と逆ギレして佐藤師団長を更迭し、同様に撤退を進言した第33師団長・柳田元三中将(1893年~1952年)も更迭しました。
7月3日にようやく「インパール作戦」の中止が決定し、日本軍は撤退を開始しました。しかしこの間もイギリス軍は容赦なく攻撃を仕掛け、衰弱した日本兵は次々と脱落し、道に沿って腐乱死体や白骨死体が延々と並ぶ悲惨な状態となりました。この様子から、日本軍の退却路は「白骨街道」と呼ばれました。
第15師団長・山内正文中将(1891年~1944年)は、死の床で「撃つに弾なく今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓のために戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、此れに立ち至らしめたるものは実に軍と牟田口の無能の為なり」と語るなど、当時から牟田口を非難する声が上がっていました。
2.牟田口廉也中将とは
牟田口廉也(むたぐちれんや)(1888年~1966年)は、陸軍士官学校・陸軍大学校出身の職業軍人で、最終階級は陸軍中将です。
(1)盧溝橋事件
1937年7月7日に発生した「盧溝橋事件」では、現地にいた支那駐屯歩兵第一連隊の連隊長でした。
彼は、同連隊第3大隊長の一木清直から、同大隊第8中隊が中国軍の銃撃を受けたとして反撃許可を求められ、「支那軍カ二回迄モ射撃スルハ純然タル敵対行為ナリ。断乎戦闘ヲ開始シテ可ナリ」として、戦闘を許可しました。
(2)太平洋戦争
1941年12月8日に太平洋戦争が勃発すると、彼は第18師団長として、開戦直後の「マレー作戦」「シンガポール攻略戦」の指揮を執りました。
そして戦争末期の1944年3月~7月には悪名高い「インパール作戦」を指揮しました。
余談ですが実は「インドへの侵攻作戦」の構想は、ビルマ攻略戦が予想外に早く終わった直後から存在しました。つまり「インパール作戦」以前です。
インド北東部アッサム地方に位置し、ビルマから近いインパールは、インドに駐留するイギリス軍の主要拠点でした。ビルマーインド間の要衝にあって、他の連合国から日本と交戦中の中華民国への主要な補給路(援蒋ルート)であり、ここを攻略すれば中国軍(国民党軍)を著しく弱体化できると考えられたのです。
そこで日本の「南方軍」は、「二十一号作戦」と称して東部インドへの侵攻作戦を上申しました。1942年8月下旬、戦争の早期終結につながると期待した「大本営」は、この意見に同調して作戦準備を命令しました。参加兵力は第15軍の第18師団を主力とする2個師団弱とされました。イギリス軍の予想兵力10個師団に比べて著しく少ないですが、ビルマ戦の成功体験から、このくらいの戦力比でも勝算があると考えたのです。
しかし、「二十一号作戦」の主力に予定された第15軍および第18師団(師団長:牟田口廉也中将)は、この「二十一号作戦」に反対しました。
現地部隊は、「雨季の補給が困難である」と訴えました。また「乾季であっても、山岳や河川による交通障害があり、人口希薄地帯のため徴発が困難である」と主張しました。
牟田口廉也中将をはじめとする現地部隊の反対に加え、「ガダルカナル島の戦い」も起きたため、1942年11月下旬、大本営は「二十一号作戦の実施保留」を命じました。
ただし、あくまで保留であり、現地では作戦研究が続行されるべきことになりました。
1942年8月下旬には、「インパール作戦」と同趣旨の作戦である「二十一号作戦」に強硬に反対したにもかかわらず、皮肉なことに彼は結局この「インパール作戦」を指揮することになったのです。
インパールを目指して三方面から進んだ第15師団・第33師団・第31師団(ただし、第31師団はインパールと要衝ディマプルの連絡を遮断するため、結節点となるコヒマに向かいました)はいずれも悪戦苦闘となり、早くも過半の兵力を失う惨状となりました。
この頃、第一線には牟田口軍司令官についての噂が広がりました。それは「作戦開始後、3週間を過ぎても、彼は軍司令部所在地のメイミョウから動かない」というものでした。
今回の「インパール作戦」のような重大な作戦の場合、軍司令官は前線指揮に適した場所に戦闘司令所を進めるべきものでした。
しかし彼が軍司令部を移動しなかったのは、メイミョウが高原地帯にあるビルマ第一の避暑地だったことと、そこには日本風の料理屋があり、内地から来た芸者や仲居がいたためです。
軍司令官、各参謀、幹部将校はそれぞれ専属の芸者を持っており、彼らは毎夜料亭で酒を飲み、芸者と戯れていたようです。
前線では、連合軍の激しい攻撃にさらされ、将兵は傷つき倒れ、あるいは飢えと病に苦しんでいる時でした。憤激したのは前線部隊だけではなく第15軍の上級司令部であるビルマ方面軍司令部でも、彼に前線に出るよう再三督促しましたが、のらりくらりとした態度でなかなか動きませんでした。
この作戦中、彼が要望した自動車等の補給力増強がままならないため、彼は現地で牛を調達し、荷物を運ばせてチンドウィン河を渡った後に食糧としても利用するという「ジンギスカン作戦」を発案しました。一見「一石二鳥の妙案」のようですが、見事に失敗しました。
もともとビルマの牛は低湿地を好み、長時間の歩行にも慣れておらず、牛が食べる草の用意も覚束ないため、牛は次々と放棄されたほか、チンドウィン河を渡ろうとした牛も多くが荷物とともに流されてしまいました。チンドウィン河を何とか渡れた牛も山岳地帯で難渋し、ほとんどが動けなくなって放棄されたため、兵士が荷物を担ぐ羽目になってしまいました。
結局彼が幕僚とともにチンドウィン河を西に越えたインダンジーに戦闘司令所を置いたのは、作戦開始後44日目でした。彼は3週間でけりが付くものと楽観して、それまで安全で快適な場所で遊興に現(うつつ)を抜かしていたのかもしれません。
また、当初の危惧通り「インパール作戦」が頓挫した後も、強行・継続し、反対する前線の師団長を途中で次々に更迭しました。
この時、戦況の悪化・補給の途絶にともなって第31師団長・佐藤幸徳(さとうこうとく)中将(1893年~1959年)が命令を無視して無断撤退するという事件が起きました。
なお、佐藤幸徳中将も牟田口と同じく陸士・陸大出身の職業軍人です。
佐藤は後に「大本営、総軍、方面軍、第15軍という馬鹿の四乗が、インパールの悲劇を招来した」と述べています。
この「インパール作戦」失敗後の1944年8月に、牟田口は第15軍司令官を罷免されて参謀本部付となり、12月に予備役に編入されました。
1945年1月に召集され、応召の予備役中将として陸軍予科士官学校長となり、同年8月の終戦を迎えました。
(3)戦後・晩年
彼は戦後、イギリス軍がシンガポールで開いた戦犯裁判で「BC級戦犯」の一人として裁かれましたが、嫌疑不十分で釈放され、帰国後は東京都調布市で余生を過ごしました。
しばらくの間は「インパール作戦」に対する反省の弁を述べ、1960年頃までは敗戦の責任を強く感じて公式の席を遠慮しながら生活していました。
しかし、1962年にアーサー・バーカー元イギリス軍中佐から「インパール作戦成功の可能性に言及した書簡」を受け取ってからは、「自己弁護活動」を行うようになり、死ぬまでの約4年間は「インパール作戦」失敗の責任を問われると、戦時中と同様「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と頑なに主張していたそうです。
亡くなった兵士への謝罪の言葉は死ぬまでなかったそうです。
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