皆さんはおかっぱ頭のちょっと風変わりな画家・藤田嗣治をご存知でしょうか?
彼は「レオナール・フジタ」としてフランスなど海外では大変有名な画家ですが、戦後フランスに帰化したこともあって日本ではあまり詳しくは知られていません。
1.藤田嗣治とは
藤田嗣治(ふじたつぐはる)(1886年~1968年)は、日本生まれのフランスの画家・彫刻家で、医者の藤田嗣章(ふじたつぐあきら)(1854年~1941)の4人兄弟の末っ子として東京に生まれました。ちなみに父の藤田嗣章は、軍医として台湾や朝鮮等の外地衛生行政に携わり、森鴎外の後任として軍医総監になった人物です。
彼が戦後フランスに帰化した後の洗礼名は「レオナール・ツグハル・フジタ」で、「レオナール・フジタ」とも呼ばれます。
第一次世界大戦(1914年~1918年)前からフランスのパリで活動し、「猫」と「女性」を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れました。独自の「乳白色の肌」と呼ばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びました。
「エコール・ド・パリ」(*)の代表的画家の一人です。
(*)「エコール・ド・パリ」とは、「パリ派」という意味で、20世紀前半、各地からパリのモンマルトルやモンパルナスに集まり、ボヘミアン的な生活をしていた画家たちを指す言葉で、1920年代を中心にパリで活動し、出身国も画風もさまざまな画家たちの総称です。
彼のほか、ローランサン・ユトリロ・モディリアーニ・シャガールなどが代表的画家です。
(1)幼少時代
彼は子供の頃から絵を描き始め、旧制中学卒業の頃には画家としてフランスに留学した位という希望を持つようになりました。
(2)パリ行きまで
1905年、森鴎外の勧めもあって、東京美術学校西洋画科に入学し黒田清輝・和田英作に学びました。
しかし当時の「日本画壇」は、フランス留学から帰国した黒田清輝らのグループによる性急な改革の真っ最中で、いわゆる「印象派」や光にあふれた「写実主義」がもてはやされており、彼の作風は評価されず、成績は中の下でした。
表面的な技法ばかりの授業に失望した彼は、それ以外の部分で精力的に活動し、観劇や旅行、同級生らと授業を抜け出しては吉原遊郭に通いつめるなどしていましたが、1910年には卒業しています。
卒業制作の「自画像」(東京芸術大学所蔵)は、黒田清輝が忌み嫌った黒を多用しており、挑発的な表情が描かれています。
彼は精力的に展覧会に出品しましたが、当時黒田清輝らの勢力が支配的だった「文展」などでは全て落選しています。
1912年に、女学校の美術教師だった鴇田登美子と結婚しましたが、彼は妻を残して単身パリ行きを決意し、最初の結婚は1年余りで破綻しました。
(3)パリでの出会い
1913にフランスに渡り、パブロ・ピカソやアメデオ・モディリアーニらを知り、「エコール・ド・パリ」の一員として認められ、1917年には個展を開催しています。
また彼と同じようにパリに来ていた島崎藤村や「東洋の貴公子」ともてはやされた大富豪の薩摩治郎八とも出会っています。特に薩摩治郎八との交流は、彼の経済的支えにもなりました。
パリではすでに「キュビズム」や「シュールレアリスム」「素朴派」などの新しい20世紀の絵画が登場しており、日本で「黒田清輝流の印象派の絵こそが洋画」だと教えられてきた彼は、大きな衝撃を受けました。
この絵画の自由さ・奔放さに魅せられた彼は、今までの作風を全て放棄することを決意しました。「家に帰ってまず黒田清輝先生ご指定の絵具箱を叩きつけました」と彼は著書に書いています。
1914年に第一次世界大戦が勃発し、パリ在住の多くの日本人が帰国やイギリスなどへの避難、地方疎開をしてパリを離れましたが、彼は戦時下のパリに留まりました。
なお彼は1917年3月、カフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエ(1893年~1960年)と二度目の結婚をしています。
(4)パリの寵児となる
1919年「サロン・ドートンヌ」に出品した6点全部が入選し、同会会員に推されました。精妙な陶器の肌を思わせる白い絵具のマチエール(作品表面の肌合い)と、的確なデッサン力を持った流麗な線描による表現は高く評価されました。
当時のモンパルナスで彼は経済的な面でも成功を収めた数少ない画家となり、画家仲間では珍しかった熱い湯の出るバスタブを据え付けました。
多くのモデルがこの部屋にやって来てはささやかな贅沢を楽しみましたが、その中にアメリカの画家・彫刻家・写真家のマン・レイ(1890年~1976年)の愛人であったアリス・プラン(1901年~1953年)もいました。
アリス・プランは「モンパルナスのキキ」として伝説となったフランス人女性で、カフェ(ナイトクラブ)の歌手・女優・モデル・画家でした。
彼女は彼のためにヌードモデルとなりましたが、中でも「寝室の裸婦キキ」(下の画像)と題された作品は、1922年の「サロン・ドートンヌ」でセンセーションを巻き起こし、8,000フラン以上で買い取られました。
1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られています。
二人目の妻のフェルナンド・バレエとは、急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、今度は彼が「お雪」と名付けたフランス人女性リュシー・バドゥ(1903年~1966年?)と結婚しました。彼女は教養のある美しい女性でしたが、酒癖が悪くその後離婚しました。
(5)南北アメリカ行き
1931年には、新しい愛人マドレーヌ(1910年~1936年)を連れて、個展開催のためアメリカ合衆国や中南米を周遊しました。
ヨーロッパと文化的・歴史的に地続きで、彼の名声も高かった南アメリカで開かれた個展は大きな賞賛をもって迎えられました。
アルゼンチンのブエノスアイレスでは6万人が個展に訪れ、1万人がサインのために列に並んだと言われています。
(6)日本への帰国
1933年に南北アメリカから日本に帰国し、1935年に25歳年下の君代(1911年~2009年)と出合い、翌年5度目の結婚をしました。君代夫人とは終生連れ添いました。
彼の奔放な女性関係は、晩年まで親交のあったパブロ・ピカソとよく似ていますね。
(7)戦争画制作に没頭
1938年から1年間、小磯良平らとともに「従軍画家」として、日中戦争中の中華民国に渡り、1939年に帰国しています。
その後再びパリへ戻りましたが、1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、翌年ドイツにパリが占領される直前にパリを離れ、再度日本に帰国することを余儀なくされました。
その後、太平洋戦争に突入した日本で、「陸軍美術協会理事長」に就任することになり、「戦争画」の制作を手掛けました。
彼のそれまでの経歴から見ると、ちょっと似つかわしくない「陸軍美術協会理事長」に就任したのは、軍医総監だった父の関係で陸軍に知り合いが多くいたことも理由のようです。
南方などの戦地を訪問しつつ「哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘」(題材は「ノモンハン事件」)や「アッツ島玉砕」(題材は「アッツ島の戦い」)などの作品を描きました。
1941年12月に日本が第二次世界大戦に参戦して約1年後くらいから、彼は戦争画制作に極めて積極的な意見を表明するようになりました。
1943年2月、雑誌「改造」に「欧州画壇への袂別(べいべつ)」を発表し、画家としての修業の場であり、活躍の場であったフランス画壇からの決別を宣言した上で、「大東亜の盟主日本国こそ大文化の中心となってすべて芸術中心地となることの疑いない」「画人間からも日本史上に傑出した巨匠を生んで、画壇の上で画壇の上で世界を征服しなければならぬ」との自説を唱えた上で、「私はあくまでもある時は率先し、またある時は後押しとなってこの一大画業に邁進する覚悟」と訴えました。
また同じく1943年2月に「新美術」誌上で発表した「戦争画について」では、「私の四十余年の画の修行が、今年になって何のためにやってきたか明白に判ったような気がした・・・今日腕を奮って後世に残すべき記録画の御用をつとめ得ることの出来た光栄をつくづくと有り難く感ずる・・・絵画が直接お国に役立つということは、なんという果報な事であろう」と書いた上で、「日本にドラクロア、ベラスケスのような戦争画の巨匠を生まねばならぬ」と主張しました。
自らを「戦争画の巨匠」となぞらえるような表現です。
(8)フランスに帰化
このような振る舞いは、終戦後のGHQ占領下の日本において、「戦争協力者」と批判されることもありました。
また「陸軍美術協会理事長」という要職にあったことから、一時GHQから聴取を受ける恐れがあり、千葉県内の味噌醸造業者のもとに匿われていたこともありました。
その後、1945年11月頃にはGHQに発見され、戦争画の収集作業に協力させられました。
こうした日本の国内情勢に嫌気がさした彼は、1949年に日本を去り、フランスに帰化しました。
傷心の彼がフランスに戻った時には、すでに多くの親友や画家たちがこの世を去るか亡命しており、フランスのマスコミからも「亡霊」呼ばわりされる有様でした。
しかし、そのような中で再会を果たしたパブロ・ピカソとの交友は晩年まで続きました。
1955年にはフランス国籍を取得しています。
(9)晩年
1959年には、ランスのノートルダム大聖堂でカトリックの洗礼を受け、「レオナール・フジタ」となりました。
1968年1月にスイスのチューリヒにおいて、ガンのため亡くなりました。
日本政府から「勲一等瑞宝章」が没後追贈されました。「文化勲章」が贈られても良かったのではないかと私は思いますが・・・
2.藤田嗣治が日本を捨ててフランスに帰化した理由
(1)若い画学生の頃、当時日本画壇を支配していた黒田清輝に認められなかったこと
(2)フランスでは逆に自分を高く評価してくれる人々がおり、「エコール・ド・パリ」の自由で奔放な雰囲気が気に入ったこと
(3)日中戦争や太平洋戦争中に「従軍画家」として戦地に赴いたりして、積極的に「戦争画」を描いたことや、「陸軍美術協会理事長」に就任していたため、戦後「戦争協力者」として批判されたこと
以上のような事情から、彼は日本では認められず「日本に見捨てられた」という気持ちになり、「日本を捨てる」決心をしたのではないかと私は思います。
3.藤田嗣治の作品
藤田嗣治は多くの絵画を残していますが、その中からいくつかを制作年代順にご紹介します。
作風の変化もありますし、太平洋戦争中には「戦争画」も描いています。
(1)自画像(1910年、東京芸術大学所蔵)
(2)トランプ占いの女(1914年、徳島県立近代美術館所蔵)
(3)パリ風景(1918年、東京国立近代美術館所蔵)
(4)横たわる裸婦と猫(1921年、プティ・パレ美術館所蔵)
(5)自画像(1921年、ベルギー王立近代美術館所蔵)
(6)私の部屋、目覚まし時計のある静物(1921年、フランス国立近代美術館所蔵)
(7)私の部屋、アコーディオンのある静物(1922年、フランス国立近代美術館所蔵)
(8)ジュイ布のある裸婦(寝室の裸婦キキ)(1922年、パリ市立近代美術館所蔵)
(9)眠れる女(1931年、平野政吉美術館所蔵)
(10)自画像(1931年、アルゼンチン国立美術館所蔵)
(11)メキシコに於けるマドレーヌ(1934年、京都国立近代美術館所蔵)
(12)北平の力士(1935年、平野政吉美術館所蔵)
(13)自画像(1936年、平野政吉美術館所蔵)
(14)秋田の行事(1937年、平野政吉美術館所蔵)
(15)猫(争闘)(1940年、東京国立近代美術館所蔵)
(16)哈爾哈河畔之戦闘(1941年、東京国立近代美術館所蔵)
(17)アッツ島玉砕(1943年、東京国立近代美術館所蔵)
(18)サイパン島同臣節を全うす(1945年、東京国立近代美術館所蔵)
(19)私の夢(1947年、新潟県立近代美術館所蔵)
(20)カフェにて(1949年、フランス国立近代美術館所蔵)
(21)ラ・フォンテーヌ頌(1949年、ポーラ美術館所蔵)
(22)ホテル・エドガー・キネ(1950年、カルナヴァレ美術館所蔵)
(23)フルール河岸ノートル=ダム大聖堂(1950年、パリ国立近代美術館所蔵)
(24)姉妹(1950年、ポーラ美術館所蔵)
(25)ジャン・ロスタンの肖像(1955年、カルナヴァレ美術館所蔵)
(26)誕生日(1958年、ポーラ美術館所蔵)
(27)イヴ(1959年、ウッドワン美術館所蔵)
(28)聖母子(1959年、ランス美術館所蔵)
(29)キリスト降誕(1960年、パリ市立近代美術館所蔵)