石川啄木は不良少年で短歌と詩で名を残した天才だが、小説家志望の夢は破れた!

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石川啄木

1.私の好きな石川啄木の短歌

(1)友がみな 我より偉く見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻と親しむ

(2)ふるさとの 山に向かひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな

啄木には有名な短歌がたくさんありますが、上の二首は、私が好きな短歌です。

(1)は、「友人たちは皆立身出世しているのに、自分だけが取り残されている。そんな自己嫌悪に陥って気のふさぐ時は花を買って帰って、妻と花を愛でて親しく語り合い、寂しさを紛らわせよう」という意味です。

自分としては自信・自負があるのに、思うように世間が評価してくれないという歯がゆい思いが垣間見えます。妻や子のような親しい家族と過ごすことがせめてもの心の安らぎで、癒しや慰めを与えてくれるということでしょう。

「一握の砂」にあるこの歌は、啄木24歳の作で、このころ彼は東京朝日新聞で校正係として働いていました。

中学時代の友人たちは、上級学校を卒業し、輝かしいコースを歩んでいる者が多くいました。後年「アイヌ語研究」で有名になった言語学者の金田一京助(1882年~1971年)は、東京の大学の助手となり、「銭形平次捕物控」で有名になった野村胡堂(1882年~1963年)も大学を中退したものの新聞記者として活躍していました。

彼らの活躍の噂を聞くたびに、啄木は志を得ない自分の境遇を悲しく思ったのでしょう。

(2)も、「一握の砂」に収められた短歌です。ふるさとの渋民村を石もて追われるようにして上京した啄木が、東京にあって故郷の岩手山を懐かしんで詠んだ歌です。不遇をかこつ啄木を励まし慰める力が、ふるさとの山には確かにあったということでしょう。

私も、ふるさと高槻の北方にある「北摂連山」を仰ぎ見ると、同じような感慨を覚えます。

2.石川啄木とは

石川啄木(1886年~1912年)は、曹洞宗の住職の家に生まれました。彼が1歳の時、父が渋民村にある宝徳寺の住職に転任となったため、一家で渋民村に移り住みます。

1898年、12歳で盛岡中学に入学します。後に妻となる堀合節子や、親友となる金田一京助らとは中学時代に知り合います。しかし、盛岡中学をカンニングで退学しました。現代で言えば、尾崎豊(1965年~1992年)のような「学校や社会への葛藤や心の叫びを持ち、破壊的で反抗的な不良少年」だったのでしょうか?

「明星」を読んで、与謝野晶子(1878年~1942年)らの短歌に傾倒し、上級生の野村長一(後の野村胡堂)らの影響を受けて、文学の志を抱きます。

1904年18歳の時に、盛岡での恋愛が続いていた堀合節子と婚約します。

1905年には、父親が宗費を滞納したため渋民村の宝徳寺を一家で追われる事件が起きます。その結果、彼は父母、妹と妻の一家を扶養する義務を負うことになります。

故郷で「代用教員」をした後、彼は北海道で新聞記者をしたり、上京して小説の執筆や短歌・詩などの創作活動をしますが、遊蕩癖もあって生活は困窮を極めたようです。

1910年、東京朝日新聞の校正係を務めていた関係で、胃潰瘍(いわゆる「修善寺の大患」)で入院中だった夏目漱石を見舞っています

1912年、肺結核のため26歳の若さで亡くなりました。葬儀には夏目漱石も参列したそうです。

3.石川啄木の小説

石川啄木は、没後に天才歌人・詩人として高い評価を得ましたが、彼がモデルと考えられる「代用教員」を主人公にした「雲は天才である」という小説も書いています。自らを「天才」と考えて書いたものですが、彼の高すぎる自意識が鼻につくような内容で、高い評価は得られませんでした。

ちなみに「代用教員」というのは、今の「非常勤講師」のことではなく、「教員資格を持たない教員」で戦前の小学校で存在しました。教員養成学校である「師範学校」(今の教育大学や教育学部)卒業生が十分におらず、無資格者で代用していたのです。

彼の日記にこの小説のことに触れた部分があります。

これは鬱勃たる革命的精神のまた混沌として青年の胸に渦巻いているのを書くのだ。題も構想も破天荒なものだ。革命の大破壊を報ずる暁の鐘である。主人公は自分で、奇妙な人物ばかり出てくる。これを書いているうちに、予の精神は異様に興奮して来た。

この小説の一部を少し長いですがご紹介します。主人公の代用教員(啄木自身がモデル)が兄とも慕う「天野君の言葉」の部分です。どうも、情熱と意欲だけが「空回り」していたような感じがします。

天野君が云つて呉れるんです、「君も不幸な男だ、実に不幸な男だ。が然し、余り元気を落すな。人生の不幸のおりまで飲み干さなくては真の人間に成れるものぢやない。人生は長い暗い隧道だ、処々に都会といふ骸骨の林があるツきり。それにまぎれ込んで出路を忘れちやけないぞ。そして、脚の下にはヒタ/\と、永劫の悲痛が流れて居る、恐らく人生の始よりも以前から流れて居るんだナ。それに行先を阻まれたからと云つて、其儘帰つて来ては駄目だ、暗い穴が一層暗くなる許りだ。死か然らずんば前進、唯この二つの外に路が無い。前進が戦闘たたかひだ。戦ふには元気が無くちや可かん。だから君は余り元気を落しては可けないよ。少なくとも君だけは生きて居て、そして最後まで、壮烈な最後を遂げるまで、戦つて呉れ給へ。血と涙さへれなければ、武器も不要いらぬ、軍略も不要、赤裸々で堂々と戦ふのだ。この世を厭になつては其限それつきりだ、少なくとも君だけは厭世的な考へを起さんで呉れ給へ。今までも君と談合かたりあつた通り、現時の社会で何物かよく破壊の斧に値せざらんやだ。全然破壊する外に、改良の余地もない今の社会だ。建設の大業は後にる天才に譲つて、我々は先づ根柢まで破壊の斧を下さなくては不可いかん。然しこの戦ひは決して容易な戦ひではない。容易でないから一倍元気が要る。元気を落すな。君が赤裸々で乞食をして郷国へ帰るといふのは、無論遺憾な事だ・・・」

東京朝日新聞の校正係を務めていた啄木は、幸徳秋水の「大逆事件」の記事を連日集めており、クロポトキンの著作や公判記録も入手研究し、「時代閉塞の状況」や「A LETTER FROM PRISON」などを執筆しています。

「働けど 働けど 猶(なほ)わが暮らし 楽にならざり ぢっと手を見る」

この歌には、啄木が社会主義思想に走る予感があります。幸徳秋水の社会主義や無政府主義にかぶれていたのかもしれません。

4.「和歌」と「短歌」の違い

蛇足ですが、「和歌」と「短歌」の違いをご存知でしょうか?

「和歌」は元々、奈良時代には「大和歌(やまとうた)」と呼ばれるものの総称でした。「漢詩」に対する言葉で、「日本固有の詩歌」という意味です。

「大和歌」には、5音と7音を基調とした長歌(ちょうか)・短歌・旋頭歌(せどうか)・仏足石歌(ぶっそくせきか)の四種類がありました。

ところが、平安時代になると、短歌以外はほとんど作られなくなりました。そして次第に短歌=和歌とみなされるようになりました。

そして長歌が作られなくなったので、「短歌」の「短」は意味をなさなくなり、次第に「和歌」または「歌」と呼ばれるようになったのです。

ところが、明治の俳人・歌人で「俳句・短歌の革新運動」を進めた正岡子規(1867年~1902年)は、平安時代の技巧的な言葉遊びのような和歌を極端に嫌い、万葉集の歌のような素朴で自然な「写生」こそ正統なものと考えました。

そこで、「万葉に帰れ!」をスローガンにして、万葉集の歌こそ「短歌」と呼ぶべきだと主張し、「根岸短歌会」を主宰しました。

彼は「古今和歌集」を全否定し、藤原定家や紀貫之を酷評しています。平安時代の和歌を否定したのです。ただ、子規の批判は、当時宮中の御歌所で幅を利かせていた桂園派が古今和歌集を根拠に、形骸化した歌の規範等を権威化していたことへの反発だったという見方もあります。

そのような事情から、明治時代以降に作られた歌は、和歌ではなく再び「短歌」と呼ばれるようになったのです。


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