頼山陽は勤皇派に大きな影響を与えた「日本外史」の著者で漢詩人としても有名

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頼山陽

1.漢詩「不識庵機山を撃つの図に題す」

皆さんは「詩吟」などで次の漢詩をお聞きになったことがないでしょうか?これは頼山陽が書いた「不識庵機山を撃つの図に題す」という漢詩に基づく川中島の戦いを題材とした詩吟です。凛とした格調高い名調子がよく実感できる漢詩です。

鞭声粛々 夜河を過る(べんせいしゅくしゅく よるかわをわたる)

暁に見る千兵の 大牙を擁するを(あかつきにみるせんぺいの たいがをようするを)

遺恨なり十年 一剣を磨き(いこんなりじゅうねん いっけんをみがき)

流星光底 長蛇を逸す(りゅうせいこうてい ちょうだをいっす)

意味は、次のようになります。

上杉謙信の軍は鞭の音も立てないように静かに、夜陰に乗じて千曲川を渡った。明け方、武田信玄方は上杉の数千の大軍が、大将の旗を立てて突然目の前に現れたのを見て、大いに驚いた。しかし誠に残念なことには、この十数年来、一剣を磨きに磨いて来たのに、打ち下ろす刃がキラッと光る一瞬のうちに、あの憎い武田信玄を討ちもらしてしまった。

詩吟 不識庵機山を撃つの図に題す

2.「頼山陽」とは

(1)生い立ち

頼山陽(1781年~1832年)は、大坂生まれの江戸時代後期の歴史家・思想家・漢詩人・文人です。広島藩の儒学者(朱子学者)頼春水の長男です。

幼少時より詩文の才があり、また歴史に深い興味を示しました。江戸で叔父の頼杏坪や尾藤二洲に学んでいますが、帰国後の1800年に突如脱藩を企て上洛しますが、頼杏坪に発見され、広島へ連れ戻されて廃嫡の上、自宅に幽閉されてしまいます。

(2)執筆活動と学問所教授

しかしこれが彼を学問に専念させる結果となり、3年間は執筆活動に明け暮れます。「日本外史」の初稿が完成したのもこのころです。

謹慎を解かれた後、1809年に広島藩学問所の「助教」に就任し、1813年には父の友人であった菅茶山から招聘されて廉塾の「都講」(塾頭)に就任しています。

(3)京都への出奔と文人との交流

やがて学問所助教や塾頭の境遇に飽き足りなくなり、1811年に京都へ出奔して、洛中で私塾を開きます。そして1822年に東山を眺望できる屋敷「水西荘」に移り住みます。

ここに書斎「山紫水明処」を設けて、門弟教育の傍ら多くの文人墨客と交わり、各地を遊歴したり詩文・書画を作ったりして自由な境涯を楽しんだようです。彼の周りには京坂の文人が集まり、一種の「サロン」を形成しました。1818年には九州旅行に出向き、広瀬淡窓らの知遇を得ています。18世紀から19世紀にかけてフランスで盛んだった女主人による「文学サロン」のようなものが日本にもあったというのは驚きです。

彼は大塩平八郎とも交流があり、大きな影響を与えたと言われています。彼は大塩のことを「小陽明」と呼んで、その学識を称賛する一方、直情的で短気な性格を見て「君に祈る。刀を善(ぬぐ)い、時に之を蔵せよ」と忠告しています。

1826年には「日本外史」を完成し、翌年に交流のあった元老中松平定信に献上しています。

3.幕末の勤皇派に与えた影響「日本外史」

彼の主著「日本外史」は、幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与え、幕末から明治にかけて当時のベストセラーになりました。ちなみに「外史(がいし)」とは、「朝廷の命などによる歴史書(正史)ではなく、個人・民間の資格で書いた歴史書」のことで、「野史(やし)」とも言います。

平安時代末期の源氏・平氏の争いから始まり、北条氏・楠氏・新田氏・足利氏・毛利氏・後北条氏・武田氏・上杉氏・織田氏・豊臣氏・徳川氏までの諸氏の歴史を、武家の興亡を中心に家系ごとに分割されて(列伝体)人物中心に書かれています。司馬遷の「史記」の体裁に倣ったものです。

政権が武門に帰した由来を、史論をはさみつつ、軍記物のような読者を魅了する力強く流麗な文章で綴った歴史文学です。今はあまり人気がありませんが吉川英治のような人物を中心とした講談文学・歴史物語は、無味乾燥な事件や出来事などの史実のみを羅列する歴史教育よりも、よほど歴史への興味を持たせるものだと私は思います。

「日本外史」の観点は、大きく分けて次の二つです。

①日本史における皇室の存続を重視し、天皇の権威を絶対化する「大義名分論」の観点

②歴史上、政治的実権が次々と交替して来た事実に着目し、そこに「天の道徳的理法」を見出すとともに、「政権の変動は不可避の勢い」と見る観点

彼は「本来は天皇家が主君であり、武家はその臣下である」との立場を貫く一方、徳川幕府を正当化しており批判してはいません。「日本外史」の最後には次のような文章があります。

源氏、足利以来、軍職(征夷大将軍)にありて、太政大臣の官を兼ねたるものは、独り公(徳川家康)のみ。けだし武門の天下を平治すること、これに至りてその盛を極む。

幕末の志士たちは、この「武門の盛りの極み」とは即ち「天皇家の衰微の極み」と解釈し、「倒幕運動」と「尊王攘夷運動」を推し進めることになりました。

4.頼山陽の言葉

(1)老いて病み、恍惚として人を識らず。

(2)兵の勝敗は人にありて器にあらず。

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