「忠臣蔵」は日本人の大好きなドラマで、江戸時代には「仮名手本忠臣蔵」という浄瑠璃・歌舞伎の演目としていつ演じてもよく当たる大人気の芝居で別名「独参湯(どくじんとう)」とも呼ばれていました。「独参湯」とは人参の一種を煎じて作る漢方の気付け薬で「とてもよく効く」ことから、「歌舞伎でいつ演じてもよく当たる狂言」という意味で「仮名手本忠臣蔵」をこう呼ぶようになったのです。
昔ほどではありませんが今でも、映画やテレビドラマで人気があります。ところでその敵役として有名な吉良上野介は、単なる意地悪な収賄政治家だったのか、それとも領民にとっては名君だったのでしょうか?なぜ浅野内匠頭を追い詰めるほどの意地悪な仕打ちをしたのでしょうか?
今回はこれについて考えてみたいと思います。
1.吉良上野介とは
一般的には吉良上野介(きらこうずけのすけ)と呼ばれる吉良義央(きらよしひさ/よしなか)(1641年~1703年)は、「高家(こうけ)」(江戸幕府の儀礼などを司る重職)の吉良義冬の嫡男として江戸に生まれています。
吉良氏は室町幕府を開いた足利氏一門で、「御所が絶えれば吉良が継ぐ」と言われ、将軍家が断絶した際の筆頭継承権を有するとされた名門です。
1657年に従四位下侍従兼上野介に叙任され、1658年には上杉謙信の傍系の子孫である出羽米沢藩主・上杉綱勝の妹の富子と結婚しています。
彼は諸芸に秀でた若者として成人し、徳川家綱や後西天皇とも謁見するなど「高家御曹司」としての才覚を遺憾なく発揮します。28歳で家督を相続して以降は、朝廷への使者としての務めを果たしています。
このように家格は名門ながら、禄高は4,200石でさほど多くはありませんでした。
2.浅野内匠頭とのかかわり
人間は「感情の動物」と言われますが、人間には「好き嫌い」が必ずあるものです。以下に述べるように原因はいろいろあったのでしょうが、要するに吉良にとって浅野は「気が利かない」「物分かりが悪い」「ウマが合わない」「気に入らない」嫌いな人間だったので、意地悪・いじめを繰り返し、それが度を越してエスカレートして行き、堪忍袋の緒が切れた浅野によって斬り付けられ、最後には赤穂浪士によって討たれる運命になったのでしょう。
(1)勅使接待の指南役
江戸幕府は毎年正月に朝廷に年賀の挨拶をしており、朝廷もその返礼として使者を幕府に遣わしていました。その対応に当たったのが高家肝煎(筆頭)の吉良で、1701年(元禄14年)は赤穂藩主と伊予吉田藩主が吉良の補佐役に任命され、吉良が指南(指導)することになります。
(2)浅野家の「賄賂」(まいない)不足
江戸時代の川柳集「柳多留」に「役人の子はにぎにぎをよくおぼえ」というのがあります。「にぎにぎ」とは「賄賂」のことで、役人への賄賂が横行していたようです。
当時、「高家への指導料」として「賄賂」を献上することも一般的に行われていました。家臣が「院使饗応役の伊予吉田藩主は高価な賄賂を贈っている」との情報を得て、賄賂を贈るように説得しますが、浅野内匠頭(1667年~1701年)は「そのような賄賂は不要」として家臣の建言を退けたとも言われています。
こういう話も残っています。1698年のこと、勅使御馳走人となった津和野藩主の亀井茲親は賄賂をケチったために吉良から嫌がらせを受けます。しかし家臣がお菓子に小判を入れて詫びた結果、その機知をほめて許したということです。
(3)赤穂藩への製塩技術指導依頼の拒絶
当時、赤穂藩の塩の品質は高く、吉良の塩の品質は劣っていました。そこで彼は製塩技術の指導を依頼しますが断られています。このことへの意趣返しが、いじめ・嫌がらせの一因とも考えられます。
(4)指南における「嘘の指南」による嫌がらせ
5万石の赤穂藩主浅野を「田舎大名」などと悪口雑言を重ねて罵ったり、「墨絵の屏風」にダメ出しして扇子で引き裂いたり、用意する料理を「精進料理」と嘘の情報を与えたり、「畳替え」の情報を直前まで教えなかったり、当日着用の服装や、勅使を迎える場所や時刻についてもことごとく嘘の情報を与えるなど不誠実で、「指南役失格」とも言うべき度を越した嫌がらせを重ねています。これでは浅野の面子も丸潰れです。
(5)殿中松の廊下での刃傷事件
1701年3月14日、勅使接待の指南役をしていた彼は、接待役を務めていた赤穂藩主・浅野内匠頭に、「この間の遺恨覚えたるか」と声を掛けられ、殿中松の廊下で背後から斬り付けられます。
取り押さえられ、柳の間に運ばれた浅野内匠頭は次のように繰り返したそうです。
「上野介、此間中、意趣これあり候故、殿中と申し、今日の事かたがた恐れ入り候へども、是非におよび申さず討ち果たし候」
(上野介には、ここしばらくのあいだ、遺恨があったので、殿中であり、また大事な儀式の日でありながらやむをえず討ち果たしました)
(6)事件の3年前の吉良邸の火災での消防指揮
ちなみにこの事件の3年前に吉良邸で発生した火災の消防指揮を執ったのが浅野内匠頭でした。
3.吉良上野介の人物評
(1)他の大名・藩
全国的に評判はあまり芳しくありません。
浅野の松の廊下事件の前に、伊予大洲藩主・加藤泰恒や出羽新庄藩主・戸沢正庸が日光法会中に受けた吉良のいじめを浅野に伝え、「お役目を終えるまで耐えよ」と諭したという話が「冷光君御伝記」や「義人録」に出ています。
松の廊下事件直後の尾張藩士の朝日重章の日記「鸚鵡籠中記」には、次のような記述があります。
吉良は欲深き者故、前々皆音信にて頼むに、今度内匠が仕方不快とて、何事に付けても言い合わせ知らせなく、事々において内匠齟齬すること多し。内匠これを含む。今日殿中において御老中前にて吉良いいよう、今度内匠万事不自由、もとより言うべからず。公家衆も不快に思さるという。内匠いよいよこれを含み座を立ち、その次の廊下にて内匠刀を抜きて詞を懸けて、吉良が烏帽子をかけて頭を切る。
(吉良は欲が深い者なので、前々から皆贈り物をして頼んでいたが、今度の内匠頭のやり方が不快だとして、何事につけても知らせをせず、多くの場合に内匠頭が間違って恥をかくことが多かった。内匠頭はこれを恨みに思った。今日の殿中におけるご老中の前での吉良の言い方は、「今度の内匠頭のやることは万事なっていなかったのは言うまでもない。公家衆も不快に思われただろう」というものだった。内匠頭はこれでますます恨みを募らせて座を立ち、その次の廊下で刀を抜いて、声を掛けて吉良の烏帽子ごと頭を斬った)
(2)上杉家
妻富子の兄である出羽米沢藩主の上杉綱勝が亡くなると、吉良の息子の綱憲を上杉家の養子にしています。吉良家は名門の割に領地が少なく、吉良の浪費も重なり、上杉家が吉良家の多くの費用負担を肩代わりしていたので、上杉家の家臣の評判はあまり良くなかったようです。
(3)幕府
幕府が編纂した「徳川実記」の1701年3月14日の条には次のように書かれており、冷徹に評価しています。
世に伝ふる所は、吉良上野介義央歴朝当職にありて、積年朝儀にあづかるにより、公武の礼節典故を熟知精練すること、当時その右に出るものなし。よって名門大家の族もみな曲折してかれに阿順し、毎事その教を受けたり。されば賄賂をむさぼり、其家巨万をかさねしとぞ。長矩は阿諛せず、こたび館伴奉りても、義央に財貨をあたへざりしかば、義央ひそかにこれをにくみて、何事も長矩にはつげしらせざりしほどに、長矩時刻を過ち礼節を失ふ事多かりしほどに、これをうらみ、かかることに及びしとぞ。
(吉良義央が礼節典故を熟知し、練達していることに関して、右に出る者はいないと高く評価している。しかしながら、その立場を利用して賄賂を貪り、巨万の富を得ていたという。長矩が阿諛追従をせず賄賂を渡さなかったことを憎んで、何事についても嫌がらせをしたことから恨みを買ったために、あのような顛末になった)
(4)領地(地元)での評価
領地の三河国幡豆郡に「黄金堤」を築き、地元では「治水の名君」と呼ばれています。
また、新田開発をして収穫を増やしたり塩田整備にも努めたとして地元では名君として慕われています。
4.結論
領地では「名君」との評価もあるようですが、これはある意味で領主として当然の職務を果たしたまでと言えます。
やはり、吉良上野介は、高家肝煎という「名門意識」「プライド」が強く、贅沢好きな反面、収入が少ないため、職務上の地位を利用して勅使・院使饗応役の大名たちから賄賂を貪り、賄賂を贈らない浅野内匠頭などには執拗な嫌がらせを調子に乗って繰り返したと見るのが妥当なようです。
幕府も、赤穂浪士の討ち入りの動きが本格化した頃には、吉良を見限ったように吉良の屋敷を江戸城内から出して本所松坂町に移し、実質的に討ち入りを黙認するような形になっています。
分を弁えて、贅沢も程々にして、大名に対してパワハラのような行き過ぎたいじめをしていなければ、命を縮めることもなく尊敬される平穏な余生が過ごせたものを、「奢りて滅ぶ」結果となりました。
「松の廊下刃傷事件」で赤穂藩を取り潰し、この「赤穂浪士の討ち入り」によって、高家としての吉良家も取り潰すことができたので、幕府にとっては「一石二鳥」という評価もできます。