北杜夫と言えば、アララギ派の代表的歌人である斎藤茂吉を父に持ち、『どくとるマンボウ航海記』や『どくとるマンボウ青春記』などの「どくとるマンボウシリーズ」の著書があるので、お金に困らない呑気で優雅な一生を送ったのではないかと思っている方もおられるでしょう。
しかし、芥川賞受賞など文壇で華々しい活躍をした半面、壮年期に発症した「躁鬱病」の影響もあって、チャップリンのような喜劇映画の製作を夢想し、その費用捻出のために株取引をして大損して自己破産するなど波乱万丈の生涯を送りました。
今回は北杜夫の生涯を振り返ってみたいと思います。
1.北杜夫とは
北杜夫(きた もりお)(1927年~ 2011年)は、斎藤茂吉の次男で、小説家、エッセイスト、精神科医です。本名は斎藤 宗吉(さいとう そうきち)です。
兄はエッセイストで精神科医の斎藤茂太(1916年~2006年)、娘はエッセイストの斎藤由香です。
(1)生い立ち
東京市赤坂区青山南町(現在の東京都港区南青山)に、母・斎藤輝子、父・茂吉の次男として生まれました。生家は母・輝子の実父・斎藤紀一が創設した精神病院「青山脳病院」でした。
少年時代は「昆虫採集」に熱中する日々を送りました。
旧制松本高校在学中に、父・茂吉の短歌の素晴らしさに触れた彼は、それまでは恐ろしいカミナリ親父、頑固親父としか思っていなかった父親を優れた文学者として尊敬するようになりました。しかし、進路を決める際、志望外であった医学部へ進学することを一方的に厳命され、ささやかな抵抗や交渉を試みましたが、父の威力を覆すことは敵わず、1947年(昭和22年)に東北帝国大学から改称したばかりの東北大学(1949年に新制大学に移行)へ進学しました。
東北大学医学部を卒業後、慶応義塾大学病院助手を経て精神科医を務めながら、同人誌「文芸首都」を拠点に小説を発表しました。
(2)医師・作家としての活動
1960年、水産庁の調査船に船医として乗船した体験を描いた『どくとるマンボウ航海記』がベストセラーになり、また、同年、ナチス政権下のドイツにおける精神科医の抵抗を描いた『夜と霧の隅で』で芥川賞を受賞しました。
1964年、大河小説『楡家の人びと』を刊行し、三島由紀夫に「戦後に書かれたもっとも重要な小説の一つ」と高く評価されました。この他、『白きたおやかな峰』『酔いどれ船』などの純文学作品を発表する一方で、『どくとるマンボウ』シリーズや、『さびしい王様』に代表されるユーモア作品も著しています。
1996年に日本芸術院会員となっています。1998年、父斎藤茂吉の評伝4部作『青年茂吉』『壮年茂吉』『茂吉彷徨』『茂吉晩年』が完結し、大佛次郎賞を受賞しました。
私生活では、40歳のときに躁鬱病(そううつびょう)を発症。その様子は『マンボウ恐妻記』などのエッセーでユーモアを交えて描かれています。
2011年10月24日、腸閉塞のため東京都内の病院で死去しました。享年84。
2.躁うつ病の発症、株取引に失敗して夫婦別居・自己破産
一人娘の斎藤由香さんに父・北杜夫についてインタビューした記事が、厚生労働省の「こころの耳 働く人のメンタルヘルス・ポータルサイト」にありました。身内の人の証言であり、信憑性が高いので、少し長いですが引用させていただきます。
斎藤由香さんのお父さんは北杜夫 (きた もりお) という有名作家であり、精神科医なんですが、同時に「躁うつ病」患者としても知られています。こんな風に”知られています”なんて口に出来るのも、ある意味、北杜夫さんのひとつの功績ですよね。
父はよく「パパは作家としてはダメだけれど、『躁うつ病』を世に知らしめた功績はある」と言っております。高度経済成長の時代でみんなが頑張っている時に、しかも精神医学に理解がない時代に、病名を語ったのは勇気がいったかもしれません。そういう意味では父は精神科医なのだと思います。
2009年の1月に親子対談として、『パパは楽しい躁うつ病』という本をお出しになっています。お父さんの病気を中心に語りあっているわけですが、躁状態の時は、本当に大変だったみたいですね。
私が小学1年生の時に躁病になったのですが、最初は私も母もビックリするだけでした。父はそれまでたいへん言葉使いが丁寧で、家族同士で「ごきげんよう」と挨拶するような家でした。それがいきなり母のことを「喜美子のバカ!喜美子が先に寝やがるからオレ様は蚊に食われたじゃないか!」ですから(笑)。
さらに突如、「チャーリー・チャップリンのような喜劇映画を作りたい!」と言い出して、その資金稼ぎに4つの証券会社と株を始めたり、日本から独立すると言い出して、大真面目に「マンボウマブゼ共和国」の国旗や国歌を作ったり。
とにかく”躁”の時はエネルギーがあふれてて、一日中起きているんです。
本ではたいへんユーモラスに語られているんですが、実際にはしんどい場面もあったんじゃないですか。
いえ、楽しかったですね。むしろ”躁”の時の父は、大声で歌を歌ったり、漫画に熱中していたり、感情の起伏が激しくなっているので映画を見てわんわん泣いたり、面白くて、むしろ好きでした。株の売買は別ですけれど。
小学生の時に、父が家の前に大きな文字で、「当家の主人 只今発狂中! 万人注意す」って看板を出したこともありました。私のクラスメートが全員見学に来ましたが、全然恥ずかしくなかったです。というより一緒になって面白がってました(笑)。それで “うつ”の時は寝てばかりですから、私には特に実害はありませんでした。
ただし、母は大変だったと思います。父が株をやったり、出版社からお金を前借りしようとするのを止めると、その度に「喜美子は作家の妻として失格だ!家から出てってくれ!」と怒鳴られてました。母は「今の時代だったら絶対離婚している」と言ってます。株のせいで夫婦別居となり、破産もしました。
しかし母が偉かったのは、父の病気を深刻にしなかったこと。1~2度だけ、台所で涙ぐんでいるのを目にしましたが、他は全く普通でした。そんなわけで、私に父のことを恥ずかしいと思わせず、家庭を悲劇的な雰囲気にしなかった。ですから私は学生時代、父の病気を友だちに隠さなかったんです。「今、うちのパパは躁病なの」って。
何がお母さんを支えていたんでしょうか。
祖父・斎藤茂吉の妻である義母・輝子に父のことを嘆いたら、「斎藤家は代々、変人が多い家です。私も茂吉とあわなかったけれど、お父様が、『看護婦になったと思って茂吉に尽くしなさい』と言われました。喜美子も看護婦さんのつもりで接しなさい」と言われ、覚悟を決めたようです(笑)。
当時、離婚する人も少ない時代で、「離婚」という選択肢を思いつかなかったんじゃないでしょうか。それに父の場合は夏は”躁病”、冬は”うつ病”というサイクルがありましたので、夏の”躁”を乗り切れば、という面もありました。
父の職業が作家だったというのは幸いでしたね。これが毎日、決まった時間に出勤しなければならないサラリーマンだったら、かなり厳しかったと思います。
「代々、変人が多いから」というのもすごい説得の仕方だと思いますが(笑)、由香さんの対応も「ちょっと変わってるお父さん」ぐらいで、あっけらかんとしたものだったようですね。
腫れ物扱いするようなことは全くありませんでしたね。そんなわけで、”うつ”の時も今だったら患者さんに言ってはいけない言葉を父に言ってました。
「パパは弱虫だから、うつ病になるんだよ。少しは体操をしたり、散歩をして元気にならないと!」と言って、寝込んでいる父を無理矢理散歩に連れ出したり(笑)。
よく、「うつ病の方には、頑張ってと言ってはいけない」といいますよね。私は精神医学の専門家ではないですが、そのように決めつけて、患者さんと距離感を取るのはどうかなと思います。
それは、やはりベースとしてお父さんへの深い愛情があったり、互いの信頼関係あるからでしょうね。本の中には、お父さんと一緒の写真がたくさんありますが、由香さんは全部笑顔です。奥様には果たせない役割を、子供である由香さんが担っていたんじゃないですか。
さあ、どうなんでしょう。自分ではわかりませんが。
今、日本では多くの方がうつ病に苦しんでいて、自殺者も年間3万人を超えています。この状況を由香さんはどう捉えていますか。
私は25年サラリーマンとして働いてきましたが、この5、6年で本当に周囲で増えていることを実感しています。私の入社当時は新聞・テレビで”うつ病”という言葉を聞くことはありませんでした。せいぜいノイローゼぐらいでした。
私が父と『パパは楽しい躁うつ病』の対談集を出版することにしたのも、心の病に苦しんでいる方に少しでもお役に立てればと思ったからです。この本のせいか、最近ではうつ病に関連した集会や講演会に呼んでいただく機会が増えています。
伯父様の精神科医の斎藤茂太さん(故人)とも本をお出しになっていますし(『モタ先生と窓際OLの心がらくになる本』)、今年の3月には評論家の小倉千加子さんとも、うつ病に関する本(『うつ時代を生き抜くには』)を出すそうですね。
私はうつ病に関しては素人ですが、伯父からも小倉千加子先生からも、とてもいい言葉を聞いています。
伯父が言っていたのは、「日本人は真面目な上に自分と他人を比較する人が多い」と。恵まれているのに幸福感を実感できない。何かの欠落感を感じて、「もっともっと」と自分を追い込んでしまう。それを伯父は「モアモア病」と言っていました。仕事でも人間関係でも100%の完璧を追い求めず、80%でそこそこ満足することが大切だそうです。
それから小倉先生の言葉にも感動しました。「アメリカからやって来た成果主義というのが幅を利かせている今の世の中で、心が折れないほうがおかしい」と。うつ病という形で悲鳴を上げるのが、本来の人間らしさともおっしゃってました。
私の心に強く響いた小倉先生の言葉を紹介させていただきますね。
「幸か不幸かうつ病になってしまった人は、自分が弱い人間などと悲観する事はない。また新しい人生の、新しい価値を見つけるチャンスなのだと認めよう。人間には、自分で自分の心の声を傾聴する使命がある。人生は何度でも軌道修正できる。うつ病はそのことに気づく重要なきっかけを与えてくれる。人間は心の病でも身体の病でも、必ず治癒力が備わっているものなのである。」
私の友人にもうつ病に苦しんでいる方がいますが、特に小倉先生の言葉は、心の悩みを持つ多くの方々に勇気づけてくれるものだと思います。
3.ペンネームの由来
ペンネームは文学活動を開始するにあたり、“親の七光り”と陰口を叩かれることを嫌い、茂吉の息子であることを隠す意図で用い始めました。旧制松本高校時代は「斎藤憂行」と名乗っていました。杜夫の由来は東北大学在学中、仙台(杜の都)に住んでいたことと、心酔するトーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』に因んで、漢字で「杜仁夫」とつけようとしました。
本人の談では、まず北の都に住んだので、「北」とつけ、「杜仁夫」ではあまりに日本人離れしているので、「杜夫」にしたということです。その後順次「東」、「南」、「西」と、ペンネームを変更するつもりでしたが、「北杜夫」で原稿が売れ始め、ペンネームを変更すると、出版社との契約等で支障があると判明し、そのままになったそうです。
4.エピソード
(1)昆虫への関心が強い「虫屋」
幼少時から始めた昆虫採集は東京大空襲でコレクションのほとんどを失ってからほとんど行わなくなりましたが、コガネムシ類にだけは高齢になっても執着心を持ち続けてきたそうです。
また、幼少期からの自然史趣味は、旧制松本高等学校の同級生で後に著名な植物学者となった西田誠(『青春記』では「雄ライオン・雌ライオン」の項で登場している)を、その該博な植物学の知識で驚嘆させたそうです。
昆虫採集に関しては『どくとるマンボウ昆虫記』に詳しく書かれています。その後の著作でも『南太平洋ひるね旅』『母の影』などでしばしば昆虫採集に言及しています。
(2)漫画愛好家
漫画の愛好家であったことから、小学館漫画賞・文藝春秋漫画賞の選考委員を務めました。
(3)熱狂的な阪神ファン
自他共に認める熱狂的阪神ファンで、阪神の成績に一喜一憂しつづける日常を描いた多数のエッセイを残しています。
1972年の『ヨガ式・阪神を優勝させる法』をはじめ、阪神の応援だけで埋め尽くした『マンボウ阪神狂時代』もあります。
5.娘の斎藤由香とは
斎藤由香(さいとうゆか)(1962年~ )は、北杜夫の一人娘で、成城大学文芸学部国文学科卒のエッセイストです。卒論のテーマは祖父・斎藤茂吉でした。
大学卒業後、サントリーに入社。広報部で、同社の広報誌『サントリークォータリー』の編集に携わりました。2001年10月、健康食品事業部に異動となり、「マカ・キャンペーンガール」と自称したそうです。
著書に『窓際OL トホホな朝ウフフの夜』『窓際OL 親と上司は選べない』などの「窓際OLシリーズ」があります。