加藤楸邨とは?人間探求派と呼ばれた俳人の苦悩の人生を辿る。

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加藤楸邨

皆さんは石田波郷、中村草田男らとともに「人間探求派」と呼ばれた俳人加藤楸邨(かとうしゅうそん)をご存知でしょうか?

名前だけは聞いたことがあるが、詳しいことは知らないという方が多いのではないかと思います。

そこで今回は、加藤楸邨についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.加藤楸邨とは

加藤楸邨(1905年~ 1993年)は、東京出身の俳人・国文学者で本名は健雄(たけお)です。

父健吉は私鉄甲武鉄道の駅員でしたが、後に国有化されたため、少年時代は関東・東海・東北・北陸と転々として過ごしました。

1921年、父の定年退職に伴い、母の郷里である石川県金沢市に転居、石川県立金沢第一中学校(現:石川県立金沢泉丘高等学校)へ転校しました。この頃に石川啄木斎藤茂吉などを愛読し、短歌を作りました。1923年に金沢一中を卒業、父の病臥によって生活が窮乏したため進学を諦め、石川県松任町立松任小学校(現:白山市立松任小学校)に代用教員として務めました。

1925年、父の病死を期に母、弟妹と4人揃って上京しました。しかし職が得られなかったため茨城県水戸市に移り、楸邨はまた代用教員となりました。

1926年、単身で上京して東京高等師範学校併設の東京高師第一臨時教員養成所国語漢文科に入学。家庭教師で学資を稼ぐかたわらツルゲーネフやドストエフスキーを愛読しました。

1929年、東京高師第一臨時教員養成所国語漢文科卒業と同時に矢野チヨセ(加藤知世子)と結婚し、旧制埼玉県立粕壁中学校(現:埼玉県立春日部高等学校)の国語教諭となりました。後に青山学院女子短大教授となっています。

最初は短歌に親しんでいましたが、1931年、粕壁中学の同僚たちに強引に誘われ、それまで興味のなかった俳句を始めました。この同僚たちは村上鬼城(むらかみきじょう)門下であったため、楸邨も次第に鬼城に傾倒しました。

さらに粕壁の病院に応援診療に来ていた医師で俳人の水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)(1892年~1981年)と会い、これを契機として秋桜子に師事し、『馬酔木(あしび)』発行所に勤めながら、秋桜子の勧めによって教員を辞職し、1937年東京文理科大学(後の東京教育大学)に入学し、1940年卒業しました。

初め叙情的、唯美的な句風でしたが、「馬酔木」の叙情的な作風に飽き足らなくなり、都塵の中の生活と日中戦争の暗い世相の中で、次第に人間の生活に密着した方向に転じ、自己の内面の苦悩を俳句という短詩型文学に生かそうと努めたため、句風は暗く孤独苦渋の色を深め、表現が晦渋(かいじゅう)となり、1939年ごろ中村草田男(なかむらくさたお)、石田波郷(いしだはきょう)とともに「難解派」とか「人間探求派」とか呼ばれました。「鰯雲(いわしぐも)人に告ぐべきことならず」がこのころの句です。

なお人間的凡愚の情をたたえ、ユーモラスな表現をとる句があって、その作品を親しみ深いものにしています。第二次世界大戦後は戦災や社会運動への参加などを経て幅の広い作風を展開しました。

芭蕉(ばしょう)や一茶(いっさ)の作品を、作り手としての立場から評釈した業績も注目されます。句集に『寒雷』(1939年)、『颱風眼(たいふうがん)』(1940年)など、評釈に『芭蕉講座発句篇(へん)』3冊(1943年~48年)、『一茶秀句』(1964年)などがあります。

夫人知世子(ちよこ)も女流俳人です。また主宰した『寒雷』門下からは金子兜太(とうた)、森澄雄、安藤次男など伝統派から前衛派まで多様で優れた俳人を輩出しました。

2.加藤楸邨のj代表的な俳句と解釈

(1)鰯雲人に告ぐべきことならず

意味:鰯雲が空一面に広がっている。今の気持ちを人に伝えようか、いや伝えることはできない。

鰯雲」は、秋空に現れるまだらな雲が連なった巻積雲のことです。雲の形が鰯の群れている様子に似ていることから、「鰯雲」と呼ばれます。魚の鱗にも似ているため、「鱗雲(うろこぐも)」ともいいます。

空にのびる雲と、殻のように固く閉じこもった楸邨の気持ちの対比が表されています。

この句は、加藤楸邨の句集『寒雷』に収められています。

1938年、楸邨が勤めていた粕壁(かすかべ)中学の教師を辞め、妻や子供達と共に上京し、東京文理科大学国文科に通うようになった、33歳頃の句です。

職を離れたことで安定した収入が無くなった中、妻や子供3人そして遠く離れて住む妹や弟に仕送りをしなければならなかった楸邨。

そういった背景を考えると、この句に込められた楸邨の強い思いが感じられてきます。

(2)寒雷(かんらい)やびりりびりりと真夜の玻璃

意味:冬の真夜中にガラス戸をびりりびりりと鳴らして雷鳴が轟く、腹に沁みるような寒さと振動、震えているのはガラスばかりではない。

「寒雷」は、冬に鳴る雷のことです。大陸からの寒冷前線が日本列島を通過する際、大気が不安定になって発生することが多くなります。日本海側の地方では「雪起し雷」などどいって、本格的な冬の到来を感じるものです。

1940年、楸邨は『寒雷』を創刊主宰しましたが、この句は、第1句集『寒雷』の巻末に収められています。

重苦しさの増す時代の最中、冬の雷を「寒雷」という激しさを感じさせる造語にしたことで、楸邨は、自分の鬱屈した「こころ」を俳句に留めました。

(3)鮟鱇(あんこう)の骨まで凍(い)ててぶちきらる

意味:骨まで凍てつくほど冷やされた鮟鱇が、包丁でぶちきられていくことだ。

「鮟鱇」は深海に棲みます。躰平たく、口大きく、鱗なく、骨はほとんど軟骨で、奇妙な姿の魚です。

見た目はグロテスクな姿ですが、冬の「鮟鱇鍋」で庶民に親しまれている魚で、普通は「鮟鱇の吊るし切り」で料理されます。

この句は、1949年の「起伏」という句集に入っています。

楸邨はこの句が詠んだ頃、肋膜炎を患い、寝たり起きたりの療養生活を送っていました。

ぶち切られていく鮟鱇は作者自身の投映とも考えられます。

戦後の楸邨の俳句には混乱する世相、それを生き抜こうとする人々、病を得た自分の内面に迫る句が多くあります。

(4)木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ

意味:はらはら舞い散る木の葉がとまらない。いそぐな、いそぐなよ。

この句の季語は「木の葉降る」、季節は「」です。

【木の葉】は「このは」と読みます。秋を過ぎ冬になって、落葉樹から降るように落ちてくる葉のことを指します。

これも、1949年の「起伏」という句集に収録されている句です。終戦後で、まだ社会も混乱しているころの作です。

楸邨は、このころ肋膜炎を患い、寝たり起きたりの療養生活を送っていました。

句集「起伏」には、病を得た自分の内面に迫る句が多く収められています。

この句も、病を得て思うように動けない自分へのもどかしさや、戦後の復興に向けて動いていく社会に思うところがあったのでしょう。

(5)燕はや かへりて山河 音もなし

意味:つばめは早くも、もう南方に渡ってしまい、山も河も、音もなく静まり返っている。

つばめは山奥にいる鳥ではなく、里に暮らす鳥であり、営巣してひなが成長する様子も日々見守ることができます。人の暮らしに近しい、親しみのある鳥なのです。

【はや】とは、「意外にも早いことに」といった意味の副詞です。

そんなツバメたちが、気づくと南方に帰ってしまい、姿が見えない。秋、やがてくる冬に向かってだんだん里も生き物の気配が減っていく寂しさを詠んだ句です。

この句の季語は「つばめかへる」で、秋の季語になります。

「つばめ」単体の言葉は、つばめが日本に飛来する春の季語となりますが、「つばめかえる」となると秋の季語になります。

つばめは春に日本に飛来して卵をうみ、ひなを育てて秋になると南に帰っていく渡り鳥です。

黒くて額やのどが赤く、尻尾が二股に分かれているのが特徴。穀物や木の実などを荒らさず、害虫を食べることから益鳥とされます。

つばめは「幸運をもたらす」「つばめの来る家は栄える」などと言われ大切にされてきた生き物です。

この句は1948年の刊行の「火の記憶」という句集に収められています。この句集は、生々しい戦時中の体験が詠まれた句を多く収めています。

例えば、「火の奥に牡丹(ぼたん)崩るるさまを見つ」(空襲による火災のため、火中で燃え尽き、崩れおちていく牡丹の花をみていたことだ。)という句があります。

空襲にやられ、逃げる最中にみた壮絶な光景。衝撃的な句です。この「牡丹」に、戦火によって理不尽に命を奪われていく命を見たともいえるでしょう。

戦争の理不尽さ・残酷さ・愚かさ、「火の記憶」で楸邨はこれらのことを世に問いたかったのでしょう。

戦災という人のもたらす愚かな所業と比べて、変わらずある山河や、時を忘れず南方と日本を行き来するつばめといった自然の姿をいとおしむ視線はひとしおだったと思われます。

3.俳号の由来

(1)「楸邨」の由来

加藤楸邨の「楸邨」という俳号の由来を調べてみましたが、はっきりしたことはわかりませんでした。

なお「楸」は音読みが「シュウ」で、訓読みは「ひさぎ・ごばん」です。

「楸(ひさぎ)」は植物の古名で、「きささげ(木豇豆)」または「あかめがしわ(赤芽柏)」をさしたと考えられています。「秋」の季語です。「きささげ」はノウゼンカズラ科の落葉高木で、碁盤に適しています。

「邨」は音読みが「ソン・トン・ドン」で、訓読みが「むら」です。「村」の旧字です。

(2)「草田男」の由来

余談ですが、同じ「人間探求派」の俳人「中村草田男」の俳号の由来は、彼が大学時代「神経衰弱」(今でいう「うつ病」)になっていて、当時そういう病気に理解のなかった親戚のおじさんから「お前はくさった男だ!」と罵られたことから生まれたようです。

ただし、三女でお茶の水女子大学名誉教授の中村弓子氏によると、「そう(草)でん(田)男」(そうは出て来ない男)という意味も込められているそうです。

(3)「波郷」の由来

蛇足ながら、同じく「人間探求派」の俳人「石田波郷」の俳号の由来は、俳句の師から一字貰った俳号です。愛媛松山での、彼の師は五十崎古で、その一語(「郷」)をもらって生まれました。

なお波郷の生地は愛媛県松山市垣生で、すぐそばに海があることから「波の音が聞こえる故郷」という意味で「波郷」と号したのではないでしょうか?(これは私の個人的な推測)

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