1.伊藤左千夫とは
伊藤左千夫(いとうさちお)(1864年~1913年)は、明治から大正時代に活躍した歌人、小説家です。無一塵庵主人(むいちじんあんしゅじん)、春園、茅堂、四壁道人,夾竹桃書屋主人などと号しました。
歌人としては正岡子規(1867年~1902年)の実質的な後継者として優れた短歌・歌論を発表し、小説家としては「野菊の墓」などを執筆しました。
ちなみに「野菊の墓」(1906年)は、15歳の少年・斎藤政夫と2歳年上の従姉・戸村民子との淡い恋(プラトニック・ラブ)を描いた小説で、夏目漱石に絶賛されました。
(1)生い立ち
彼は、元治元年(1864年)8月18日、上総国武射郡殿台村十八番屋敷(現在の山武(さんむ)市殿台)に、農家で小学校教員の伊藤良作の四男として生まれました。
父良作は、上総道学の流れをくむ、この地方でのすぐれた漢学者であり、同時にまた和歌にも通じていました。母なつは、伊藤家と同じく武士を先祖とする三木家の出身らしく、気が強く躾などには特にきびしい激情型の女であったそうです。
彼は幼名を幸次郎といいますが、末子でもあった関係で、この厳しい母親には格別の愛情をもって育まれ、自由に伸び伸びとその幼年時代を過ごしたということです。
(2)十代
明治5年(1872年)に学制が発布されると、殿台村でも翌6年(1873年)、東光院本因寺を借りて嶋小学校を開設しました。彼は満10才にして、ここで論語・大学・文章規範・唐詩・日本外史・日本政記等の素読を学び、同時に佐瀬春圃を知り、小学校卒業後は直ちに佐瀬春圃の塾に学びました。
特にその当時「史記」を学んで大いに「屈原」に傾倒したことは、その後の彼の人格形成の上で重大な意味を持ちます。
こうして彼は、正義感の強い議論好きの青年として成長していくのですが、明治14年(1881年)18才の時に「富国強兵に関する建白書」を時の元老院に提出するに至ります。この建白書は漢文体の堂々たる大文章で、条約改正に憤慨した彼が十ヵ条の項目を用意しての富国強兵策を屈原的憂国の至情をもって展開したものです。
ここにはすでに彼の政治家志向が色濃く見られますが、事実彼は「政界の人たらむとの希望」をもって同年4月上京して明治法律学校(現在の明治大学)に入学しました。しかし間もなく眼を病んで、「眼底充血」、「進行性近視眼」と診断され、やむなく就学継続を断念して9月中旬帰郷することとなります。
これからのしばらくが彼の失意落莫の時代であり、実家と東京の眼科医との間を往復する生活が明治15年(1882年)末まで続きます。
しかし、このような不遇な環境の中にあっても彼の旺盛な時代精神は内にのみ籠ることを許さず、明治17年(1884年)9月には「貨幣之差異ニ付キ伺」を千葉県令船越衛に、同年12月には「学校合併ノ議ヲ辨駁ス」を武射山辺郡長松崎省吾に提出するなど、外への関心を積極的に行動をもって示しました。
(3)二十代
明治18年(1885年)1月30日未明、再度上京を志して家出。時に22才。携えるものは懐に現金1円、外に袷1枚、羽織1枚、書物は「日本政記」「文章規範」「八大家」だけであったといいます。
政治家になることを諦めた彼は、今回は実業家を志して上京したので、まず桂庵の紹介で東京市佐柄木町21番地の牧場「豊功舎」に勤めました。
「朝は必ず5時か6時に起され、夜は殆ど10時でなくては寝ることができない」
これは小説「分家」の中に出てくる主人公(要之助)が上京して初めて職を得たときのことを記述した部分ですが、これが苦難に満ちた当時の左千夫の生活実態そのものであったのです。
こうして明治22年(1889年)4月1日、彼はついに独立して搾乳業(牛乳搾取業)を本所区茅場町3丁目18番地(現在の墨田区江東橋3の5の3、総武線錦糸町駅のあたり)に開業しました。屋号は「乳牛改良社」と称しましたが、ほかに「茅の舎」「デボン舎」ともいいました。
毎日の労働18時間、という驚くべき超人的な努力を重ねたのはこの時代であり、明治22年(1889年)末には、同郷の上堺村、伊藤重左衛門長女とくと結婚、翌年には長男剛太郎の誕生を見るに至ります。
(4)三十代
搾乳業(牛乳搾取業)が順調に進む中、生活にややゆとりのできた彼は、明治26年(1893年)ごろから同業者伊藤並根の知己を得、茶の湯を学ぶとともに和歌の手ほどきを受けるようになりました。それが縁になって、34歳頃から橘守部の流れをくむ旧派の桐の舎(きりのや)桂子の月例歌会にも出席するようになり、「万葉集古義」を予約購読する至ります。
こうして短歌の勉強を始めた彼は、明治31年(1898年)、新聞「日本」に歌論「非新自讃歌論」を投稿し、紙上で正岡子規と論争します。そこで正岡子規の論に大変感銘を受けた彼は、明治33年(1900年)1月2日、下谷区上根岸の子規宅を初めて訪ねました。ここに34才の子規と37才の彼との運命的な出会いがあり、子規を師とし、「万葉調」を信奉する彼の新しい出発がこの日から始まることになります。
彼は、師である子規の唱導する万葉を基調とする「写生」の道をひたむきに進みました。そして子規を尊崇すること神の如くにであり、彼は後年「碧梧桐氏に答へる」の文章の中で次のように言いきっています。
「子規子の天品と子規子の精神と子規子の人格とは、予の絶対に信仰する所である。予が生のあらん限り此信仰は一里たりとも動くまじき事と信じて居る」
その子規が、彼の入門後僅か2年半後の明治35年(1902年)9月に、脊椎カリエスとの長い苦しい闘病の後あえなく亡くなってしまいます。
彼の失望落胆は眼を掩うばかりでしたが、やがて悲嘆の中から起ち上り、子規の精神を正しく受け継いでいくことを固く決意し、進むべき道として次の二か条を内外に訴えました。
一、特に子規作品晩年変化の跡を微細に研究すること。
二、哲学・宗教の古今の書籍を読究し、自ら松明を作ること。
要するに「万葉集以降千有余年間に、只一人ある所の偉人」である子規をより一層研究し、新しい時代を切り開く子規という松明に代わる松明を作ろうとする決意の表明であり、同時に根岸派全体の進むべき方向を、子規の教えを踏みはずさないように厳しく律していこうとするものでした。
子規の没後は「根岸短歌会」の中心歌人として活躍し、明治36年(1903年)『馬酔木(あしび)』を、明治41年(1908年)にはその後継誌『アララギ』を創刊しました。
彼なくして子規の継承はあり得なかったでしょうし、近代短歌の革新もどうなっていたかわかりません。
(5)四十代
日露戦争(1904年~1905年)の前後には好戦的な短歌を作り、開戦前には「子をつくるふぐりはあれど敵(あた)怒るふぐりは持たず・・・」(1903年)と非戦派をそしり、開戦後は「起て日本男児」などと呼びかけました。
このような戦争賛美や戦争協力的な詩歌は、彼だけでなく、斎藤茂吉や与謝野晶子、高村光太郎、三好達治などにもあります。太平洋戦争中に多くの軍国歌謡を作曲し、戦意高揚に寄与した古関裕而も、自分の作曲した軍歌や行進曲とともに兵士を送り出し死なせてしまったことを戦後は後悔し、苦しみました。
現代の我々日本人は、オリンピックや世界選手権などスポーツの国際大会において、日本国や日本国民であることをいやがうえにも意識させられますが、日本が戦争中の時代には、世の中全体の風潮や日本国民としての高揚感が多くの歌人・詩人・作曲家に戦争賛美や戦争協力に向かわせたのでしょう。
自分の主義・主張を曲げない「プリンシプル」を持った人が多い欧米人に対して、日本人特有の国民性である「同調圧力・同調性」の影響かもしれません。
彼は大正2年(1913年)7月、脳出血で50年の生涯の幕を閉じました。それより1年前に「ほろびの光」と題する短歌5首を発表しました。この作品が発表されたとき、当時歌論の上で鋭く対立していた斎藤茂吉が、直ちに彼を訪問し、この歌の出来栄えを絶賛して敬礼し叩頭した、といいます。
一方この期間に彼は数十篇の小説を書きまくり、特に明治39年(1906年)1月「ホトトギス」に発表した「野菊の墓」は夏目漱石などの激賞を受け、文壇に広く長く名作の名をほしいままにしました。そのほかには「隣の嫁」「春の潮」「紅黄録」等幾多の名作を残しました。
歌論においては、連作の趣味を論じ、「言語声化の説」から「叫びの説」にまで深化発展させ、近代短歌革新の偉大な原動力となりました。
もちろん歌論においてばかりではなく、子規没後、かねて懸案の機関紙を創刊して「馬酔木」から「アカネ」に至り、ついに明治41年(1908年)10月、千葉県山武郡睦岡村埴谷(現山武市)から蕨真一郎と共に「阿羅々木」第一号を創刊し、門下から島木赤彦、斎藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉、土屋文明等多くの大歌人を輩出させたことは、近代短歌史上特筆大書するに値するものです。
2.代表的短歌
彼は独自の万葉的歌調を樹立し、主情性が著しいのが特徴です。歌の内容は趣味を主とする「写実」を強調し、晩年には、刹那の感動の直接的な表現「叫び」こそ短歌の生命で、「叫び」から起る情緒の揺れが歌となるとするいわゆる「叫びの説」を唱えて、調べに表れる純粋な感動を重んじました。
・牛飼(うしかひ)が 歌読む時に 世のなかの 新(あらた)しき歌 大いにおこる
意味:牛飼いをしている私が、歌を詠むその時、世の中の新しい歌がまさに起こるだろう
これは伊藤左千夫の代表作で、最も有名な短歌だと思います。彼は搾乳業を生業としていましたが、このような人間がこれからの次代を担う新しい短歌を詠もうとする決意・心構えを高らかに宣言したものです。
「牛乳屋」という生業を卑下したり自嘲したものではありません。身分や出自によらず誰もが自由に詠める世となることで新しい短歌が生まれるということを詠んだものです。子規入門時の作と伝えられています。
なお「新しき」の読みは、「あたらしき」ではなく、上代(万葉集の時代)の読み方である「あらたしき」です。
意味や呼び方、読み方が時代とともに変わっていく「日本語の変遷」の一つの例で、中古(平安時代)以降は「あたらしき」という読み方が普通になっています。
・池水は 濁りににごり 藤浪の 影もうつらず 雨ふりしきる
意味:池水は濁りににごって、波打つ藤の花も映らずに雨が降りしきっている
「明治34年作 藤」にある歌ですが、太宰治が玉川上水に入水自殺をする際に、色紙に書いて残した歌として有名です。
・九十九里の 波の遠鳴り 日のひかり 青葉の村を 一人来にけり
意味:九十九里の浜の波の遠鳴りが聞こえ、日の光が揺れる青葉の季節の村に一人で帰って来たのだよ
・よき日には 庭にゆさぶり 雨の日は 家とよもして 児等が遊ぶも
意味:天気のよい日には庭でブランコ遊びをし、雨の日には家中をとどろかして大騒ぎしながら遊ぶ子供等よ
彼は子沢山で、子煩悩でもあり、子供を題材にした歌もたくさん残しています。
3.アララギ派とは
「アララギ派」と言えば、代表的歌人として斎藤茂吉が知られていますが、もともとは伊藤左千夫を中心とした短歌の一派です。
短歌雑誌『アララギ』に拠る一派で、万葉調と写生を主張し、大正・昭和・平成を通じて近代短歌の発展に貢献しました。
『アララギ』は、日本の短歌結社誌です。明治36年(1903年)に伊藤左千夫をはじめとした正岡子規門下の歌人らが集まった「根岸短歌会」の機関誌『馬酔木』を源流とし、明治41年(1908年)に左千夫や蕨真一郎を中心に『阿羅々木(あららぎ)』として創刊されました。翌年、島木赤彦が創刊した『比牟呂(ひむろ)』と合併し、『アララギ』と改題されました。
なお、「アララギ」とはイチイ(一位、櫟)という樹木(下の画像)の別名です。