いわさきちひろと言えば、にじみやぼかし、たらし込みの技法を使ったメルヘンチックで心が癒されるようなパステルカラーの水彩画で、一目で彼女の絵だとわかる独特の画法で知られています。
ところで彼女はどのような人生を送ったのでしょうか?ふわふわと甘い人生を送ったのでしょうか?
実はその正反対で、壮絶で波瀾万丈な人生を送りました。だからこそこのような画風になったとも言えます。これは谷内六郎が週刊新潮の表紙に描いたほのぼのとした子供の絵が、実は喘息の闘病生活の中から生まれたのとよく似ています。
そこで今回は、いわさきちひろの生涯と彼女の言葉・作品をご紹介したいと思います。
1.いわさきちひろとは
いわさきちひろ(本名:松本 知弘 まつもと ちひろ、旧姓:岩崎)(1918年~1974年)は、子供の水彩画に代表される画家・絵本作家です。初期作品には、岩崎ちひろ、岩崎千尋、イワサキチヒロ名義で発表されたものが存在します。夫は日本共産党元衆議院議員で弁護士の松本善明(まつもと ぜんめい)(1926年~2019年)。子供は随筆家の松本 猛(まつもと たけし)(1951年~ )、孫は絵本作家の松本春野(まつもと はるの)(1984年~ )。
彼女は生涯「子どもの幸せと平和」をテーマとしました。
2.いわさきちひろの生涯
(1)生い立ちと幼少期
1918年12月15日、彼女は父・岩崎正勝(陸軍築城本部の建築技師)と母・文江(女学校の教師)の当時としては珍しい共働き家庭の三姉妹の長女として福井県武生町橘(現在の越前市)で生まれました。
彼女が生まれた1918年は、夏目漱石門下の文学者である鈴木三重吉(すずき みえきち)(1882年~1936年)が、童心主義を提唱する児童総合雑誌『赤い鳥』を創刊。他方、7月には度重なる米価高騰に抗議して、富山の主婦たちが行動を起こしたのをきっかけに「米騒動」が全国に波及しました。さらに世界的に猛威を振るったパンデミック(通称「スペイン風邪」)が8月に日本にも上陸。流行は長引き、鎮静に至るまでおよそ3年の歳月を要しました。
岩崎家は当時としては非常に恵まれた家庭であり、ラジオや蓄音機、オルガンなどのモダンな品々がありました。父・正勝はカメラも所有しており、当時の写真が数多く残っています。
子供向けの本も多くありましたが、それらは彼女の気に入るものではありませんでした。ある時隣の家で絵雑誌「コドモノクニ」を見かけ、当時人気のあった岡本帰一、武井武雄、初山滋らの絵に強く心を惹かれました。
彼女は幼少から絵を描くのが得意で、小学校の学芸会ではたびたび席画(舞台上で即興で絵を描くこと)を行うほどでした。
(2)高等女学校時代
彼女の入学した東京府立第六高等女学校(現在の東京都立三田高等学校)は、生徒の個性を重んじ、試験もなく、成績表も希望者に配布されるのみだったそうです。ここでも彼女は絵がうまいと評判でした。
その一方で運動神経にも優れ、スキー・水泳・登山などをこなしました。距離を選択することのできる適応遠足では最長のコースを歩くのが常でした。女学校教師だった母・文江は1926年(大正15年、昭和元年)、ちひろ7歳の時に第六高等女学校に勤務しています。
同校は自由で快活で独立心に富んだ気風を生み、雑誌『暮らしの手帖』の編集で敏腕を振るった大橋鎭子、地球科学者の猿橋勝子、シャンソン歌手の石井好子、児童文学者の戌亥登美子のような人材を輩出しました。
(3)洋画家の岡田三郎助に入門
女学校2年(14歳)の3学期、母・文江は彼女の絵の才能を認め、洋画家・岡田三郎助(おかださぶろうすけ)(1869年~1939年)に入門させました。『あやめの衣』という絵(下の画像)が有名です。
彼女はそこでデッサンや油絵を学び、朱葉会の展覧会で入賞を果たしました。
彼女は女学校を卒業したのち、岡田の教えていた美術学校に進むことを望みましたが、両親の反対にあって第六高女補習科に進みました。
18歳になるとコロンビア洋裁学院に入学し、その一方で書家小田周洋に師事して藤原行成流の書を習い始めました。ここでも彼女はその才能を発揮し、小田の代理として教えることもあったということです。
(4)家を継ぐための意に染まない結婚
1939年(20歳)4月、3人姉妹の長女だったちひろは両親の薦めを断り切れず、銀行員の婿養子を迎えることになりました。相手の青年はちひろに好意を持っていたものの、ちひろの方ではどうしても好きになれず、形だけの結婚でした。
(5)夫の勤務地の満州に行くも夫の自殺で帰国
6月にはいやいやながら夫の勤務地である満州・大連に渡りましたが、翌年に夫の自殺により帰国することになりました。彼女は二度と結婚するまいと心に決めます。
帰国した彼女は中谷泰に師事し、再び油絵を学び始めました。再度習い始めた書の師、小田周洋は絵では無理でも書であれば自立できると励まされ、書家をめざしました。
(6)書道教師として再び満州に渡るも戦局悪化で帰国
1944年(25歳)には女子開拓団に同行して書道の教師として再び満州・勃利に渡りますが、現地は書道の教師ができるような状況ではありませんでした。
偶然、勃利方面の部隊長が、彼女の書道の教え子の伯父にあたる森岡大佐で、彼女を官舎に引き取り、戦局の悪化を見越して、3ヶ月後に日本に帰国させました。
(7)空襲で家を焼かれ疎開先で終戦を迎える
翌年には5月25日の空襲で東京中野の家を焼かれ、母の実家である長野県松本市に疎開し、ここで終戦を迎えました。両親は戦後、同県北安曇郡松川村に開拓農民として移住しました。
彼女はこの時初めて戦争の実態を知り、自分の無知を痛感します。終戦翌日から約1か月間にここで書かれた日記『草穂』が残されており、「国破れて山河有り」(杜甫の詩より)の題でスケッチから始まるこの日記には、こうした戦争に対する苦悩に加え、数々のスケッチや自画像、武者小路実篤の小説『幸福者』からの抜粋や、「いまは熱病のよう」とまで書かれた宮沢賢治への思いなどが綴られています。
(8)日本共産党に入党
1946年(27歳)1月、宮沢賢治のヒューマニズム思想に強い共感を抱いていた彼女は、日本共産党の演説に深く感銘し、勉強会に参加したのち入党しました。5月には党宣伝部の芸術学校(後の日本美術会付属日本民主主義美術研究所、通称「民美」)で学ぶため、両親に相談することなく上京しました。
東京では人民新聞社の記者として働き、また赤松俊子(丸木俊)に師事してデッサンを学びました。この頃から数々の絵の仕事を手がけるようになり、日本民主主義文化連盟(文連)の依頼によって描いた紙芝居『お母さんの話』(1949年)をきっかけに画家として自立する決心をしました。
(9)松本善明との出会いと結婚
画家としての多忙な日々を送っていた彼女でしたが、1949年(30歳)の夏、党支部会議で演説する青年松本善明と出会います。2人は党員として顔を合わせるうちに好意を抱くようになり、ある時彼女が言った何気ない言葉(*)から、結婚する決心をしました。
(*)彼女が「マルクスの奥さんは年上ね、レーニンもね・・・」と言ったのが、7歳以上も年上の彼女からの結婚申し込みだと彼は解釈したとのことです。しかし、彼がこの話をすると、彼女は「錯覚結婚だった」と言って笑ってしまうのが常だったそうです。
翌1950年1月21日、レーニンの命日を選び、2人きりのつましい結婚式を挙げました。彼女は31歳、善明は23歳でした。結婚にあたって2人が交わした誓約書が残っています。そこには、日本共産党員としての熱い情熱と、お互いの立場、特に画家として生きようとする彼女の立場を尊重しようとする姿勢とが記されています。
(10)長男・猛の誕生
1950年、善明は彼女と相談の上で弁護士を目指し、彼女は絵を描いて生活を支えました。1951年4月、彼女は長男・松本猛を出産しますが、狭い借間で赤ん坊を抱えて画家の仕事を続けることは困難でした。
6月、2人はやむを得ず長野県北安曇郡松川村に開拓農民として移住していた彼女の両親のもとに猛を預けることにしました。
彼女は猛に会いたさに、片道10時間近くかけて信州に通いました。猛を預けてからも、当然ながら猛に与えるはずの乳は毎日張ります。
初めのうちは自ら絞って捨てていましたが、実際に赤ん坊に与えなければ出なくなってしまうのではないか、猛に会って授乳する時に充分出なくなってしまうのではないか、と懸念した彼女は、当時近所に住んでいた子供が生まれたばかりの夫婦に頼み、授乳させてもらいました。ちなみに、その乳飲み子は後にタレントとなる三宅裕司でした。
(11)松本善明が司法試験に合格し、弁護士となる
善明は、1951年に司法試験に合格し、1952年4月に司法修習生となります。ちょうどそのころ、練馬区下石神井の妹・世史子一家の隣に家を建て、ようやく親子そろった生活を送ることができるようになりました。
善明は1954年4月に弁護士の仕事を始めて自由法曹団に入り、弁護士として近江絹糸争議、メーデー事件、松川事件などにかかわり、彼女は夫を背後から支えました。
善明によれば、まだ司法修習生だった1954年、自宅に泥棒が入って私信を盗まれたり、執拗な尾行を受けたり、家政婦として住み込みで働いていた若い女性が外出中に誘拐され、ちひろの家族のことを事細かに聞かれたが隙を見て逃げ出した、と語る出来事などがありました。一連の出来事は陰湿なスパイ事件でしたが、彼女は沈着冷静に対処していたと回顧しています。
(12)松本善明が共産党から衆議院議員に当選
1963年、善明は日本共産党から衆議院議員(東京4区)に立候補し落選したものの、1967年に初当選しました。彼女は画家・1児の母・老親の世話・大所帯の主婦としての活動と並行して国会議員の妻として「肝っ玉かあさん」よろしく忙しい日を送ることになりました。
(13)童画家としての活動
1940年代から1950年代にかけての彼女は油彩画も多く手がけており、仕事は広告ポスターや雑誌、教科書のカットや表紙絵などが主でした。
1952年ごろに始まるヒゲタ醤油の広告の絵は、ほとんど制約をつけず彼女に自由に筆をふるわせてくれる貴重な仕事で、1954年には朝日広告準グランプリを受賞しました。
ヒゲタの挿絵は彼女が童画家として著名になってからもおよそ20年間続きました。1956年、福音館書店の月刊絵本シリーズ『こどものとも』12号で、小林純一の詩に挿絵をつけて『ひとりでできるよ』を制作、これが初めての絵本となりました。『こどものとも』では同じく小林の文で『みんなでしようよ』もあります。
この頃、彼女の絵には「少女趣味だ、かわいらしすぎる、もっとリアルな民衆の子どもの姿を描くべき」などの批判があり、彼女自身もそのことに悩んでいました。
(14)1963年以降は水彩画に専念し、独自の画風を追求
1963年(44歳)、雑誌『子どものしあわせ』の表紙絵を担当することになったことが、その後の作品に大きく影響を与えます。「子どもを題材にしていればどのように描いてもいい」という依頼に、彼女はそれまでの迷いを捨て、自分の感性に素直に描いていく決意をしました。
1962年の作品『子ども』を最後に油彩画をやめ、以降はもっぱら水彩画に専念することにしました。1964年、日本共産党の内紛で、ちひろ夫妻と交流の深かった丸木夫妻が党を除名されたころを境に、丸木俊の影響から抜け出し、独自の画風を追い始めます。
『子どものしあわせ』は彼女にとって実験の場でもあり、そこで培った技法は絵本などの作品にも多く取り入れられています。
当初は2色もしくは3色刷りでしたが、1969年にカラー印刷になると、彼女の代表作となるものがこの雑誌で多く描かれるようになりました。この仕事は1974年に55歳で亡くなるまで続けられ、彼女のライフワークともいえるものでした。
(15)アンデルセンへの深い思い入れ
彼女はハンス・クリスチャン・アンデルセンに深い思い入持っておりおり、画家として自立するきっかけとなった紙芝居『お母さんの話』をはじめ、当初から多くの作品を手がけていました。
1963年(44歳)6月に世界婦人会議の日本代表団として渡ったソビエト連邦では異国の風景を数多くスケッチし、アンデルセンへの思いを新たにしました。
さらに1966年(47歳)、アンデルセンの生まれ育ったオーデンセを訪れたいとの思いを募らせていた彼女は、「美術家のヨーロッパ気まま旅行」に母・文江とともに参加し、その念願を果たしました。
この時、彼女はアンデルセンの生家を訪れ、ヨーロッパ各地で大量のスケッチを残しました。2度の海外旅行で得た経験は、同年に出版された『絵のない絵本』に生かされました。
(16)黒姫高原の山荘のアトリエでの「絵で展開する絵本」の制作
1966年、赤羽末吉の誘いで、まだ開発の進んでいなかった黒姫高原に土地を購入して山荘を建て、毎年訪れてはここのアトリエで絵本の制作を行うようになりました。
当時の日本では、絵本というものは文が主体であり、絵はあくまで従、文章あってのものにすぎないと考えられていました。
至光社の武市八十雄は欧米の絵本作家からそうした苦言を受け、彼女に声をかけました。2人はこうして新しい絵本、「絵で展開する絵本」の制作に取り組みました。
そして1968年『あめのひのおるすばん』が出版されると、それ以降ほぼ毎年のように新しい絵本を制作しました。中でも1972年の『ことりのくるひ』はボローニャ国際児童図書展でグラフィック賞を受賞しました。
また当時、挿絵画家の絵は美術作品としてほとんど認められず、絵本の原画も美術館での展示などは考えられない時代でした。挿絵画家の著作権は顧みられず、作品は出版社が「買い切り」という形で自由にすることが一般的でしたが、彼女は教科書執筆画家連盟、日本児童出版美術家連盟にかかわり、自分の絵だけでなく、絵本画家の著作権を守るための活動を積極的に展開しました。
(17)ベトナム戦争で傷つく子供に思いを寄せた『戦火のなかの子どもたち』が最後の作品
彼女は「子どもの幸せと平和」を願い、原爆やベトナム戦争の中で傷つき死んでいった子どもたちに心を寄せていました。
1967年『わたしがちいさかったときに』は稲庭桂子の勧めで、作文集『原爆の子』(岩波書店版 長田新編)と詩集『原子雲の下より』(青木書店版)から抜粋した文に彼女が絵を描いて出版されたものです。
ベトナム戦争が激化するさなか、1972年5月(53歳)、彼女は童画家のグループ車の展覧会にベトナムの子どもに思いを寄せて、「こども」と題した3枚のタブローを出品しました。
これらの作品が編集者の目にとまり、絵本『戦火のなかの子どもたち』の企画が生まれました。彼女は体調を崩し入退院を繰り返しながらも、1年半を費やして作品を描き上げました。
しかしこの『戦火のなかの子どもたち』(1973年)が彼女の最後の絵本となりました。
1973年秋、肝臓ガンが見つかり、1974年8月8日、肝臓ガンのため死去しました。
(18)没後
彼女の没後も、彼女の挿絵は様々な場面で用いられました。そのひとつに1981年の『窓ぎわのトットちゃん』(黒柳徹子著、講談社)があります。
夫の善明と一人息子の猛は彼女の足跡を残すために、1977年9月、下石神井の自宅跡地に彼女の個人美術館として、「いわさきちひろ絵本美術館」(現:ちひろ美術館・東京)を開館しました。
1980年には、岩崎書店より『いわさきちひろ作品集』全7巻が出版されました。上笙一郎によれば、個人美術館開設と個人全集刊行は「日本の童画家として初めてのこと」でした。やがて、ちひろ美術館は彼女の作品の収集展示という個人美術館の枠を超え、「絵本の美術の一ジャンルとして正当に評価し、絵本原画の散逸を防いで、後世に残していくこと」に目的を広げて活動を展開しました。
絵本原画を残す活動に共鳴する作家らの協力もあって、作品の収集が進み、下石神井のちひろ美術館は手狭になっていきました。
1997年4月、長野県北安曇郡松川村に広い公園を併設した「安曇野ちひろ美術館」が開館しました。
3.いわさきちひろの言葉
・大人というものは、どんなに苦労が多くても、自分の方から、人を愛していける人間に、なることなんだと思います。
・人間はあさはかなもので、身にふりかかってこなければ、なかなかその悲しみはわからない。
若い、苦しみに満ちた人たちよ。若いうちに苦しいことがたくさんあったということは
同じような苦しみに堪えている人々にどんなにか胸せまる愛情がもてることだろう。
・本当に強いやさしい心の人間になる条件はその人が、経験した苦しみの数が多いほどふえていく。そしてまた 人の心をうつ美しくやさしい心の作品をつくる芸術家にもなっていける。
・戦場にいかなくても戦火のなかで子供たちがどうしているのか、どうなってしまうのかよくわかるのです。
・ドロンコになって遊んでる子供の姿が描けなければ、ほんとうにリアルな絵ではないかも知れない。その点私の描く子どもは、いつも夢のようなあまさがただようのです。
・世界中の子供みんなに平和としあわせを。
・平和で豊かで、美しく、可愛いものがほんとうに好きで、そういうものをこわしていこうとする力に限りない憤りを感じます。
・私が力がなくて無力な時、人の心の温かさに本当に涙ぐみたくなる。
この全く勇ましくも雄々しくもない、私の持って生まれた仕事は絵を描くことなのだ。
・わたしも長い生命をもった、童画家でありたいと思う。
・その人の成長につれてふくよかにより美しく成長し、心の糧になっている。
・どんどん経済が成長してきたその代償に、人間は心の豊かさをだんだん失ってしまうんじゃないかと思います。
4.いわさきちひろの作品