フランス革命と言えば、1789年~1795年にかけて行われた市民革命で、ルイ16世や王妃マリー・アントワネットが処刑され、「封建制廃止」「人権宣言の採択」「身分制の撤廃」などが達成され「民主主義の誕生」「民衆の勝利」をもたらした輝かしい革命という印象があります。
しかし一方で、国王夫妻を処刑後に実権を握ったジャコバン派のロベスピエールが「恐怖政治」を行い、「革命裁判」という名ばかりの裁判によって、科学者のラボアジェなどの元貴族やその召使い、反対派の人物など多くの人々が死刑判決を下され、数千人が断頭台に送られました。
ラボアジェは「燃焼が酸素との結合」であることを実証した有名な化学者ですが、「徴税請負人」だったことが災いしました。革命裁判所は「共和国は科学者を必要とせず」と述べたそうです。
ロベスピエール自身も結局1794年の「テルミドールのクーデター(テルミドールの反動)」でギロチン送りとなり処刑されました。
このような狂気の嵐のようなフランス革命の中で、断頭台の露と消えた人の一人にデュ・バリー夫人がいます。
一般にはあまり知られていないと思いますが、数奇な運命を辿った興味深い女性なので今回ご紹介したいと思います。
1.デュ・バリー夫人とは
デュ・バリー夫人(1743年~1793年)は、ルイ15世(1710年~1774年、在位:1715年~1774年)の「公妾」(*)で、本名はマリー・ジャンヌ・ベキューです。
(*)「公妾」とは、側室制度が許されなかったキリスト教ヨーロッパ諸国の宮廷で、主に近世に採用された歴史的制度で、「王の愛人」「寵姫」のことです。
(1)生い立ちと幼少時代
彼女はフランス北東部のヴォルクルールという町の貧しい家庭に、アンヌ・ベキューの私生児として生まれました。
弟が生まれて間もなく母親は駆け落ちしたため、叔母に引き取られて育ちました。
7歳の時、金融家と再婚した母親に引き取られ、パリで暮らし始めました。
彼女は継父からとても可愛がられ、修道院で15歳まで教育を受けました。
(2)素行の問題で解雇され娼婦同然の暮らしを送る
修道院を出てから、ある家の侍女として働いていましたが、「素行の問題」で解雇されてしまいました。
おそらく主人かその家族、あるいは屋敷内の男性使用人と関係を持ってしまったのが原因のようです。
その後しばらく、娼婦同然の暮らしを続けていましたが、17歳のときに洋裁店「ア・ラ・トワレット」の「お針子」として働き始めたことが彼女の運命の転機となります。
(3)貴婦人の生活と引き換えに夜の接待を仰せつかる
時期は不明ながら、この時期にデュ・バリー子爵に囲われたと言われています。
美しい彼女は貴婦人のような生活と引き換えに、子爵が連れてきた男性とベッドを共にしました。家柄のよい貴族や学者、アカデミー・フランセーズ会員などが彼女の相手となり、その時に社交界でも通用するような話術や立ち居振る舞いを会得したようです。
(4)社交界デビューとルイ15世との出会い
デュ・バリー子爵は最初から彼女を「公妾」として送り込む計画だったのかもしれません。
いずれにしても彼女は、「マイ・フェア・レディ」のように、社交界に必要なマナーや話術を身に付け、1769年にルイ15世に紹介され、26歳で「公妾」となりました。
ルイ15世は寵愛していたポンパドゥール夫人を亡くして5年ほど経っていたため、彼女が殊の外魅力的に映ったようで彼女の虜になってしまいます。
そしてデュ・バリー子爵の弟と、形だけの結婚をして彼女は「デュ・バリー夫人」という名前で社交界デビューを果たしました。
(5)ルイ15世の娘やマリー・アントワネットから嫌われる
ちょうど同じころの1770年に、オーストリアからマリー・アントワネット(1755年~1793年)がフランス王太子ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)(1754年~1793年、在位:1774年~1792年)に嫁いできました。
出自も立場もまるで正反対の二人はたちまち対立しました。
娼婦や愛妾の嫌いな母マリア・テレジア(1717年~1780年)の影響を受けたマリー・アントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を徹底的に憎んでいました。
ルイ15世の娘であるアデライード王女・ヴィクトワール王女・ソフィー王女たちもデュ・バリー夫人を嫌っていたため、王太子妃のマリーを味方につけて追い落とそうとしていました。しかしそれは「女の冷戦」のようなものでした。
「公妾」はやっかみを買いやすい立場ですが、彼女は朗らかで愛嬌があり親しみやすい性格だったため、他の宮廷の貴族たちからは好かれていました。
しかし彼女が31歳の時、ルイ15世天然痘で危篤に陥ると、「ポン・トー・ダム修道院への退去命令」が出され、彼女の栄華は終わったかに見えました。
この追放劇は、王が彼女の身を案じたためか、王の死をきっかけに彼女を遠ざけたい近臣の思惑か真相は不明です。
追放同然に宮廷を追われた彼女ですが、厳重に監禁されたわけではなく、宰相ド・モールパ伯爵やモープー大法官などの人脈を使い、やがて修道院を出てパリ郊外で暮らすようになります。そしてフランスのド・ブリサック元帥やシャボ伯爵、イギリスの貴族シーマー伯爵らの愛人となって生活していました。
そしてルイ15世の死から15年経った1789年に「フランス革命」が起きます。
彼女自身はおそらく世間から忘れられかけていたと思われますが、革命の波に巻き込まれた軍人の中に彼女の愛人がいました。パリ軍の司令官ド・ブリサック元帥です。
(6)イギリスへ亡命
ブリサック元帥が民衆に虐殺された後の1791年1月に、彼女はイギリスへ亡命しましたが、亡命後は同じくフランスから逃げてきた貴族を援助していました。
(7)なぜか突如フランスに帰国し革命派に逮捕されて死刑宣告を受ける
しかし1793年3月になぜか突如フランスに帰国します。そして「飛んで火にいる夏の虫」とでも言うのでしょうか、案の定革命派に逮捕されて死刑宣告を受けることになります。
彼女が帰国した理由ははっきりしていません。「自分の城に置いてきた宝石を取り戻すため」という説もあります。
余談ですがマリー・アントワネットの悪評の一つである「首飾り事件」のネックレスは、ルイ15世がデュ・バリー夫人のために発注したものでした。
また「他の亡命貴族を援助する資金が枯渇したから」という説もあります。
いずれにしても、彼女には「自分が反革命派として、革命派に逮捕され処刑される」とは想像していなかったのではないでしょうか?そのような危機感がなかったからこそ帰国したのでしょう。
(7)断頭台で処刑人アンリ・サンソンに泣いて命乞い
彼女は1793年12月7日にギロチン台に送られ、処刑されました。
ギロチンの前で、彼女は顔見知り(かつての恋人)だった死刑執行人のアンリ・サンソン(1739年~1806年)や公開処刑を見物している群衆に、泣いて命乞いをしました。アンリ・サンソンも知人である彼女の泣き叫ぶ姿に心が痛んだのか、彼女の処刑を息子に代行してもらったそうです。
ちなみにアンリ・サンソンは、「人類史上二番目(約2,700人)に多くの処刑をこなした」とされています。上の画像は、画家でイラストレーターのランプソニウスによるサンソンの肖像画(イメージ図)です。
彼はフランス革命期の「パリの死刑執行人」を務めたサンソン家の4代目当主で、ルイ16世やマリー・アントワネット、ラボアジエ、ロベスピエールなど著名人の処刑のほとんどに関わりました。
しかし彼は本来心優しく慈愛に満ちた性格で、かつ強固な死刑執行反対論者だったそうです。
アンリ・サンソンは、日記に次のように書いています。
誰もがデュ・バリー夫人のように泣き叫べばよいのだ。そうすれば(同情を買って)フランス革命であれほどの血を流さずに済んだはずだ。
マリー・アントワネットなどの肖像画を描いた美貌の画家エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(ルブラン夫人)(1755年~1842年)も、フランス革命で起きた悲劇の処刑について次のように述べています。
処刑された人々の全員が、彼女(デュ・バリー夫人)のように命乞いをしていれば、あの恐怖政治はもっと早くに終わっていたでしょう。
ルイ16世やマリー・アントワネットなどが誇り高く粛々と断頭台に登ったことで、かえって群衆の鬱憤が晴れず、「誰か別の奴を苦しめて殺してやろう」という気分になってしまったのかもしれません。
デュ・バリー夫人の墓と呼べるものは存在しないようです。おそらく他の革命の犠牲者たちと同様、共同墓地に投げ込まれてしまったのでしょう。
マリー・アントワネットの伝記を書いたオーストリアの作家シュテファン・ツヴァイク(1881年~1942年)は、彼女について次のように述べています。
さて、デュ・バリーだが、彼女は決して悪意のある女性ではない。生粋の庶民なので、下層階級出身者の持つ長所はすべて持っている。
成り上がり者らしい気のよさ、自分の杭的な物を誰でも仲間扱いする分けへだてのなさ。(中略)決して悪い女でも嫉妬深い女でもない。 (出典元:シュテファン・ツヴァイク「マリー・アントワネット」)
いずれにしても、彼女もやはりマリー・アントワネットと同様、時代に翻弄された女性の一人でした。
余談ですが、ルイ15世がカリフラワーを好んでいたことにちなみ、カリフラワーのポタージュは「クレーム・デュ・バリー」(crème du Barry)と呼ばれています。