平家の平清盛や、源氏の源頼朝、室町幕府の足利尊氏、江戸幕府の徳川家康のように、「武家の棟梁」や「征夷大将軍」となった幕府の創設者は有名な武将が多いですが、「北条得宗家」の祖である北条義時については詳しく知らない方がほとんどだと思います。
その北条義時が、2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公に決まったことで、これから注目度が上がるのではないかと思います。
そこで今回は、北条義時とはどのような人物で、どんな人生を送ったのかをわかりやすくご紹介したいと思います。
1.「鎌倉殿の13人」とは
「鎌倉殿の13人」とは、源頼朝の死後に発足した鎌倉幕府の集団指導体制で、1225年に設置された「評定衆」の原型である「十三人の合議制」を構成した御家人たちのことです。
1199年に源頼朝(1147年~1199年)が急逝すると、嫡男の源頼家(1182年~1204年)はわずか17歳で左中将に任じられ、朝廷から諸国守護の宣旨が下り、第二代鎌倉殿として頼朝の地位を継承しました。
頼家は当初、大江広元らの補佐を受けて政務を行いましたが、やがて頼家が訴訟を直接裁断することが禁じられました。その理由としては、頼家が従来の慣例を無視して恣意的判断を行ったとする説や、頼家を立てて政治を主導しようとする頼家側近(大江広元・中原親能・梶原景時)に対する有力御家人の不満・反発が原因とする説などがあります。
その結果、以下の有力者13人の合議によって決定されることになりました。
しかしこの「十三人の合議制」は、1199年に梶原景時が失脚し、1200年に安達盛長と三浦義澄が病死したことで解体し、頼家政権も権力抗争の果てに崩壊することになりました。
・大江広元:公文所別当⇒政所別当
・三善康信:問注所執事
・中原親能:公文所寄人⇒政所公事奉行人、京都守護
・二階堂行政:政所令別当⇒政所執事
・梶原景時:侍所所司⇒侍所別当、播磨・美作守護(1199年「梶原景時の変」で失脚)
・足立遠元:公文所寄人
・安達盛長:三河守護(1200年に病死)
・八田知家:常陸守護
・比企能員:信濃・上野守護(1203年「比企能員の変」で謀殺)
・北条時政:伊豆・駿河・遠江守護(1205年「牧氏事件」で追放)
・北条義時:寝所警護衆
・三浦義澄:相模守護(1200年に病死)
・和田義盛:侍所別当(1213年「和田合戦」で滅亡)
2.北条義時とは
北条義時(1163年~1224年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将で、鎌倉幕府の第2代執権です。
1219年に第3代将軍源実朝(1192年~1219年)が頼家の子公暁(1200年~1219年)に暗殺され、鎌倉幕府の初代から3代にわたる源氏将軍が滅亡すると、「得宗」(*)の北条義時が鎌倉幕府の実質的な支配者となりました。
(*)「得宗」(とくそう/とくしゅう)とは、鎌倉幕府の北条氏惣領の家系のことです。
幕府と朝廷との対立が激化すると、1221年に後鳥羽上皇から「北条義時追討の宣旨」が全国に発布され、「朝敵」となりました。
しかし幕府軍は京都に攻め上り、朝廷を制圧して仲恭天皇の皇位を廃し、3人の上皇を配流しました。配流された上皇は、後鳥羽上皇(隠岐島)・順徳上皇(佐渡島)・土御門上皇(土佐国)の3人です。これが「承久の乱(じょうきゅうのらん)」です。
(1)生い立ちから青年期
①生い立ち
北条義時(1163年~1224年)は、伊豆国の在地豪族北条時政(1138年~1215年)の次男として生まれました。後に源頼朝の妻となる北条政子(1157年~1225年)の弟です。他に兄の宗時、弟の時房と政範、妹の阿波局と時子らがいます。
北条家は平氏方の豪族で、父・時政は「平治の乱」で敗れて伊豆に配流されていた源氏の嫡流・源頼朝の監視役でした。
父が留守の間に頼朝と政子が恋仲となりましたが、時政は猛反対しました。当初平氏を恐れて反対していた時政はやがて二人の関係を許し、義時が15歳の時に結婚しています。
時政には源氏の嫡流と姻戚関係を結ぶことで家格を上げ、やがて頼朝を擁して平氏を打倒するという深慮遠謀があったのかもしれません。
②青年期
1180年に、後白河法皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)と源頼政が「打倒平氏のための挙兵」を計画し、「平氏打倒のために蜂起を促す令旨」(以仁王の令旨)を諸国の源氏や大寺社に発しました。これが「以仁王の挙兵」(「以仁王の乱」「源頼政の挙兵」とも呼ばれる)です。
彼は父・時政や兄・宗時とともに頼朝の挙兵に従いました。頼朝は彼に加勢する豪族らと、伊豆の実権奪還のために「目代(もくだい)」であった山木兼隆の屋敷を襲撃して討ち取りました。
ちなみに山木兼隆は、時政が当初娘の政子の婿にしようと考えていた人物です。
しかし頼朝は「石橋山の戦い」で頼朝鎮圧軍の大庭景親・伊東祐親らに大敗し、頼朝や時政、義時らは別れ別れになって命からがら逃れましたが、宗時は討死しました。
その後、頼朝と時政、義時らは再び合流し、態勢立て直しを模索する中で、時政は頼朝から甲斐源氏を味方に引き入れる密命を受け、義時と共に甲斐に赴きました。そして共同して駿河に侵攻して連携を成功させ、頼朝から「恩賞」を与えられました。
1181年、義時は「頼朝の寝所を警護する11人」の一人に選ばれました。この頼朝の個人的な側近・親衛隊は「家子(いえのこ)」と呼ばれ、「門葉」(源氏血縁者)と「一般御家人」の中間に位置付けられ、義時はその中でも「家子の専一」とされました。
1192年には頼朝の仲介で、比企朝宗の娘を正室に迎え、翌年嫡男・朝時を儲けています。
頼朝存命中は表立った活躍はありませんでしたが、頼朝の死後鎌倉幕府内の権力闘争が激化すると、頭角を現すようになります。
(2)政権簒奪(さんだつ)闘争
1199年の頼朝の死後、跡を継いだ2代将軍・頼家の独裁を抑えるために「十三人の合議制」に加わりました。
①「梶原景時の変」(1199年~1200年)
1199年~1200年にかけて、頼家側近であった梶原景時が、御家人66名による連判状によって幕府から追放され、一族が滅亡する事件がありました。これが「梶原景時の変」です。
②「比企能員の変」(1203年)
1203年に頼家が病に倒れると、時政は頼家の乳母父で舅である比企能員(ひきよしかず)を自邸に呼び出して謀殺し、頼家の嫡子・一幡の邸である小御所に軍勢を差し向けて比企氏を滅ぼしました。
次いで、頼家の将軍位を廃して伊豆国修善寺に追放しました。これが「比企能員の変」です。
時政は、頼家の弟で、自分の娘の阿波局が乳母を務めた12歳の実朝を3代将軍に擁立し、大江広元と並んで政所別当に就任して実権を握りました。
頼家と頼家の嫡子・一幡は義時の手勢によって暗殺されました。
1204年、義時は相模守に任じられています。
この時期までの「北条氏による有力御家人排除」は、時政・義時父子が一体となって行われましたが、1205年の「畠山重忠の乱」や、続く「牧氏事件」で父子は対立するようになります。
③「畠山重忠の乱」(1205年)
時政は後妻の「牧の方」(大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、宮沢りえが演じていますので、ご注目ください)の讒言により人望の厚かった畠山重忠を謀殺して御家人たちの反感を買いました。義時は、「謀叛など起こすはずがない」と畠山討伐に反対したようですが、結局義時は大軍を率いて畠山重忠を滅ぼしました。
④「牧氏事件」(1205年)
同じころ時政と牧の方は、実朝を廃して頼朝の猶子である平賀朝雅を新将軍として擁立しようとしました。
政権を牛耳るためとはいえ、時政と牧の方のこのような強引なやり方は、一族の北条政子や義時らの反感を招きました。
義時が時政邸にいた実朝を自邸に迎え入れたことで、時政側についていた御家人の大半も義時に味方したため、陰謀は完全に失敗しました。
なお、時政本人は自らの外孫である実朝殺害には消極的で、その殺害に積極的だったのは牧の方だったとする説もあります。
⑤「父・時政の失脚」で幕府の実権を握る
幕府内で完全に孤立無援となった時政と牧の方は出家の上、鎌倉を追放されて伊豆国北条へ隠居させられました。平賀朝雅は京で幕府の命によって殺害されました。
1205年、父・時政を追放した義時は、父に代わって政所別当の地位に就き、幕府の最高責任者として実権を握りました。
(3)「源実朝暗殺」(1219年)
①源実朝暗殺とは
1219年、鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の際に、将軍・実朝が頼家の子・公暁によって暗殺される事件が起こり、源氏の正統が断絶しました。
この日の拝賀式で、実朝の脇で太刀持ちをする予定だったのは義時でしたが、当日急に体調不良を訴えて源仲章と交代して自邸に戻りました。
その結果、源仲章は実朝とともに暗殺され、義時は命拾いをしました。そして公暁は義時の命によって誅殺されました。
②源実朝暗殺の真相
この事や暗殺事件後の収拾策などから「実朝暗殺は義時が裏で操ったとする説」や、「将軍親裁を強める実朝に対する義時や三浦義村ら鎌倉御家人の共謀とする説」、「北条氏に対抗する三浦義村、または幕府転覆を望む後鳥羽上皇が黒幕とする説」など、実朝暗殺の真相については諸説あります。
(4)「執権政治」の確立
実朝暗殺後、義時は次期将軍として後鳥羽上皇の皇子・雅成親王を迎えようと画策しましたが、実朝と通じていた後鳥羽上皇は「実朝暗殺の陰に北条あり」としてこれを拒否しました。
そのため義時は、皇族将軍を断念し、頼朝の遠縁である摂関家の藤原頼経を4代将軍として迎え入れました。
頼経は当時1歳あまりの幼児で、直ちに征夷大将軍に任じられる状況ではなかったため、政子が「尼将軍」となって頼経を後見し、鎌倉殿の地位を代行しました。こうして義時が実務面を補佐することで実権を握る「執権政治」が確立しました。
(5)「承久の乱」(1221年)
一方、後鳥羽上皇は着々と軍備を拡張し、流鏑馬(やぶさめ)ぞろいと称して諸国の兵を集め、院政内の親鎌倉派を粛清して倒幕の兵を挙げ、「義時追討の宣旨」を全国に発布しました。
天皇・朝廷の権威はいまだ大きく、幕府にとって容易ならざる事態となり、義時は生涯最大の難局に直面しました。
幕府では「朝敵」となることに動揺する御家人たちに対して、尼将軍政子が「頼朝以来の恩顧を訴える声明」を出し、団結させました。
そして幕府は19万を超える大軍勢で京に攻め上り、上皇軍に圧勝しました。
義時は朝廷を制圧して仲恭天皇の皇位を廃し、首謀者である3人の上皇(後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇)を配流しました。これが「承久の乱」です。
(5)晩年と急死
「承久の乱」の翌年、義時は陸奥守と右京権大夫を辞職し、無官となりました。
1224年には、自身の健康長寿などを願って100日間の「泰山君府祭」を催したりして、精力的な活動を続けていました。しかし同年、61歳で急死しています。
「吾妻鏡」によれば、死因は衝心脚気とされていますが、「後妻の伊賀の方に毒殺されたとする風聞」(「明月記」)や、「近習の小侍に刺殺されたとの異説」(「保暦間記」)などの憶測を呼びました。
(6)没後の「伊賀氏の変」(1224年)
義時は正室の子ではなく、継母・牧の方の陰謀などに苦労したので、政子は義時の跡継ぎを六波羅探題の泰時に決めました。
一方、義時の後妻の「伊賀の方」は自分の息子・北条政村を執権にさせようと、三浦義村の協力を画策します。
それを知った政子が三浦義村の邸に赴いて泰時の人望を説いた結果、三浦義村は泰時への忠誠を誓いました。
政子は「伊賀の方」を伊豆に追放し、義時の後継者問題は決着しました。
北条義時を祖とする「北条得宗家」が、平清盛・源頼朝・足利尊氏・徳川家康などに比べて知名度が低いのは、鎌倉幕府の将軍の家柄でもない「ナンバー2」の「執権」が、将軍を倒して政権を乗っ取って(政権を簒奪して)成り上がった家柄だからでしょう。
戦国時代に盛んに行われた「下剋上(げこくじょう)」の走りと言えるかもしれません。
3.NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」
2022年放送予定の「鎌倉殿の13人」は、大河ドラマ第61作目で、作・脚本は三谷幸喜、主演は小栗旬です。脚本の三谷幸喜は「新選組!」「真田丸」に続いて大河ドラマ3作目です。
平安末から鎌倉前期を舞台に、源平合戦と鎌倉幕府が誕生する過程で繰り広げられる権力の座を巡る駆け引きと、その勝利者で北条得宗家の祖となった北条義時を主人公に描きます。
なお、大河ドラマのタイトルにアラビア数字(算用数字)を使うのは、この作品が初めてだそうです。
なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。