葛飾北斎(かつしかほくさい)(1760年~1849年)については、前に「葛飾北斎とは?改名30回・転居93回で88歳まで生きた彼は隠密だった!?」「鳥獣戯画を描いた鳥羽僧正や、北斎漫画の葛飾北斎は時代や洋の東西を超えた天才」「葛飾北斎 江戸時代の長寿の老人の老後の過ごし方(その4)」という記事に詳しく書きました。
ところで北斎は上の記事で紹介したような逸話のほか、「神奈川沖浪裏」や「凱風快晴(赤富士)」などの「冨嶽三十六景」の浮世絵版画や、絵手本の「北斎漫画」などで有名です。
しかし、川柳作者でもあったことは意外と知られていません。
そこで今回は、葛飾北斎の川柳にスポットを当ててご紹介したいと思います。
1.なぜ北斎は川柳に熱中したのか?
(1)飽くなき創作への情熱
彼が浮世絵や北斎漫画のような「絵画」にとどまらず、「川柳」という「文字による自己表現」も手掛けたのは、彼の「飽くなき創作への情熱(というか衝動)の賜物」だったのではないかと私は思います。
(2)表現手法の多様化の模索
つまり、北斎漫画の世界を文字(五・七・五の川柳)でも表現したかったということでしょう。
(3)マルチタレントの山東京伝からの刺激
そして、きっかけとなったのは、同時代を生きた浮世絵師で戯作者・狂歌師でもあった山東京伝(さんとうきょうでん)(1761年~1816年)に刺激を受けたからではないかと私は思います。
(4)読本などの挿絵画家としての経歴
ちなみに北斎は、文化年間 (1804年~1818年) には読本などの挿絵画家に専念しています。また、「狂歌連の刷物」(*)の絵もたくさん描いています。
(*)「狂歌連の刷物(狂歌刷物)」とは、狂歌に合わせた画題の絵とともに刷物にしたものです。
北斎は黄表紙や洒落本・読本など数多くの戯作の挿絵を手がけましたが、作者の提示した下絵の通りに絵を描かなかったためにしばしば作者と衝突を繰り返していました。
数ある号の一つ「葛飾北斎」を名乗っていたのは戯作者の曲亭馬琴(きょくていばきん)(1767年~1848年)とコンビを組んだ一時期で、その間に『新編水滸画伝』『近世怪談霜夜之星』『椿説弓張月』などの作品を発表し、馬琴とともにその名を一躍不動のものとしました。
読み物のおまけ程度の扱いでしかなかった挿絵の評価を格段に引き上げた人物と言われています。なお、北斎は一時期、馬琴宅に居候していたことがあります。
(5)地口・字謎・判じ絵などの流行
これについては、「地口(じぐち)は判じ絵と似た江戸時代の言葉遊び」「江戸時代の判じ絵・判じ物・字謎は、今の脳トレクイズと似た謎解き!」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
(6)川柳の大流行という時代背景
江戸中期の俳諧の前句附点者だった柄井川柳(からいせんりゅう)(1718年~1790年)が選んだ句の中から、呉陵軒可有が選出した『誹風柳多留』(はいふうやなぎだる、後に柳樽と称される)が1765年に刊行されて人気を博し、これ以降「川柳」という名前が定着しました。この頃は、「うがち・おかしみ・かるみ」という3要素を主な特徴とし、人情の機微や心の動きを書いた句が多かったようです。
初代川柳は選句を「高番」(古事、時代事)、「中番」(生活句)、「末番」(恋句、世話事、売色、下女)の3分野に分け、世態人情を軽妙にうがち諷する詩風を樹立しました。
性的な内容の笑句・艶句は「破礼句(バレ句)」とも呼ばれ(バレは卑猥・下品の意)、安永5年(1776年)にはそれらを集めた『誹風末摘花』(末番の句を集めたことから名付けられた)が刊行され版を重ねました。
一時は「寛政の改革」(1787年~1793年)に伴う検閲により、政治批判、博打、好色など風紀を乱すとされた句が『誹風柳多留』から削除されるなどしましたが、四世川柳が川柳を「俳風狂句」と銘した「文化文政期」(1804年~1830年)になると、江戸町人文化を背景に一段と盛んになりました。
『誹風柳多留』には、九州・平戸6万3千石の大名・松浦静山(柳号・松山、流水、柳水)や葛飾北斎(柳号・卍)、都々逸の創始者・都々逸坊扇歌、「偐紫田舎源氏」の作者・柳亭種彦(柳号・木卯)など、当時一流の文化人が前文や評者として名を連ね、狂句とはいえ風雅な文芸性を備えていました。
しかし、天保年間に入ると「天保の改革」(1841年~1843年)の風俗取締りが厳しく、公職を兼務していた四世川柳は、やがて職務の障りになるとして川柳号を廃せられ、佃島の魚問屋・腥斎佃(水谷金蔵)に五世川柳を譲位、五世川柳は、狂句の存続のため「柳風式法」や「句案十体」という狂句界の規範を作り、内容も忠孝、仁義、報恩などの教化を主とするものに変えました。
しかし五世の意に反し、それまでの狂句のもつ自由な表現はこの規範が枷となり内容的には没落し、表面的な言葉遊びに陥ってしまいました。
なお、「川柳」については、「俳句と川柳の違い、季語の歴史や季語の進化をわかりやすく紹介!」「サラリーマン川柳・シルバー川柳は現代の狂歌・落首!」という記事も書いていますので、ぜひご覧ください。
2.葛飾北斎の川柳
北斎の号には、「春朗・群馬亭・北斎・宗理・可侯・辰斎・辰政(ときまさ)・百琳・雷斗・戴斗・不染居・錦袋舎・為一・画狂人・九々蜃・雷辰・画狂老人・天狗堂熱鉄・鏡裏庵梅年・月痴老人・卍・是和斎・三浦屋八右衛門・百姓八右衛門・土持仁三郎・魚仏・穿山甲」およびこれらを組み合わせた「北斎辰政」「北斎改め戴斗」「北斎改め為一」があります。
川柳で号として用いているのは、「卍」が圧倒的に多いですが、ほかに「万仁(萬仁)」「万字」「万二」「百々爺」「可候」「錦袋」「百姓(百性)」などがあります。
なお「百々爺」は、普通に読めば「ももんじい」ですが、「百×百=万」なので「まんじ」と読ませたのでしょう。
(1)日常風景の切り取り
・疵物(きずもの)としると血の出るほど直きり(ねぎり) <百姓 嘉永3年(1850年)>
買物の値切り交渉を詠んだ川柳です。客の値切りは本当に痛い大赤字の大出血だったのでしょう。
・焼いて見つ煮て見つ鯛の古さ哉(かな) <百姓 天保12年(1841年)>
和歌に「本歌取り」という手法がありますが、それに似た「文句取り」という川柳の手法です。
これは、よく知られた歌や語句の一部を取り入れたり一捻りしたりして新たな句にするものです。
この句は、加賀千代女(かがのちよじょ)(1703年~1775年)の俳句として有名な「起きて見つ寝て見つ蚊屋の広さ哉」からの「文句取り」です。ただしこの俳句は、実は浮橋という遊女が詠んだものだそうです。
さらに「腐っても鯛」ということわざや、「煮ても焼いても食えぬ」という慣用句を踏まえて現代でも共感を呼ぶ「狂句」に仕立てました。
・悪魔をバ除す(よけず)日除の下手鍾馗(へたしょうき) <卍 文政10年(1827年)>
北斎には鍾馗の絵が多くあります。病魔を追い払う縁起物として五月の節句に立てる幟絵(のぼりえ)も描いています。
素晴らしい傑作もありますが、幟は外に立てるものですから、どうしても傷んだり色褪(あ)せたりします。
現在残っている北斎の鍾馗絵は、彼が実際に描いたもののごく一部でしょう。
色褪せた幟は、日除け(ひよけ)に転用されたりしました。それがこの句の「下手鍾馗」です。
もっとも、絵師の力量がなく「下手」なために、転用されたのかもしれません。
この「下手鍾馗」には、もはや悪魔を除く力はなく、せいぜい日差しを除けているだけ、その可笑しさを詠んでいます。
しかし、それを描いた絵師にとっては侘しく、胸を風が吹き抜けるような光景だったでしょう。
(2)季節・年中行事の切り取り
・七日には逃れ八日につるされる <卍 文政10年(1827年)>
これは「なぞなぞ」です。七日には逃れて、八日には吊るされるものは何でしょう?
「年中行事」で七日と言えば、まず思い出すのは正月七日の「人日(じんじつ)の節句」です。この日に「せり・なずな・ごぎょう・はこべら(はこべ)・ほとけのざ・すずな(蕪)・すずしろ(大根)」の「春の七草」を粥に入れて食べると病気にならないとされています。
江戸時代に「五節句」の一つとして、幕府の将軍以下が七種粥で祝ったことが庶民にも広まったと言われています。
ただし庶民が粥に入れたのは七種のうち、せいぜい二~三種、大抵は「なずな(薺)」だけだったそうです。
さて、八日の方は、今では全く馴染みがありませんが、「四月八日に、なずなを束にして行灯の下に吊るすことで虫除けのまじないとする習俗」がありました。
前置きが随分長くなりましたが、「正月の七日に摘まれることを逃れた「なずな」が、四月八日になって吊るされる」というのが答えです。
・雛(ひな)ほどに喰(く)ハぬ鍾馗や金太郎 <百姓 天保15年(1844年)>
鍾馗や金太郎はきっと大喰らいだろうと思いますが、雛ほどは喰わないというのです。
「桃の節句」は、立派な雛壇をしっかり誂えると、大変な出費になります。さらに白酒、菱餅なども用意して、娘には晴れの着物を着せてと、何かと物入りな節句です。
それに対して「端午の節句」は、鍾馗絵の幟(のぼり)や、鯉幟(こいのぼり)、金太郎人形など、それなりにあるとはいえ、かかる費用は「桃の節句」とは比較になりません。
そのことから、女の子は金がかかる、着物だ帯だ簪(かんざし)だと、男の子に比べて出銭が多いということも言いたいようです。
もっとも北斎には、「桃の節句」より「端午の節句」の方が仕事があったでしょう。鍾馗や金太郎、武者絵などを描く注文が多くあったはずです。
ただ、その画料が、雛人形などに比べてずいぶん安いという思いもあったかもしれません。
(3)世相の切り取り
・なまりぶし反(そ)りを打程(うつほど)安くされ <卍 文政10年(1827年)>
「なまりぶし」とは、鰹(かつお)を蒸して生干しにした「生節(なまぶし)」を指す江戸言葉です。
つまり、「未熟な鰹節」ということで、そこから「未熟な武士」の意に転じ、「ろくでもない武士」を罵倒する言葉になりました。
「反りを打つ」とは、刀を抜くために刃が上になる向きへ鞘を返すことです。「斬るぞ」と脅す構えです。
生節が反り返っているほど安くなるように、武士も「反りを打つ」ほど安っぽくなります。腰に刀を帯びているという権力を安易に利用して、威張ったり人を脅すような奴は馬鹿にされて当然という皮肉です。
・加茂の禰宜(ねぎ)鍋(なべ)とり公家と呑(の)んで居る <卍 文政9年(1826年)>
「鍋とり公家」とは、武官の公家のことです。その冠の左右に付いている「追懸(おいがけ)」(上の画像)という扇形の飾りが、鍋釜を火から降ろす時に使う藁の鍋つかみに似ていることから、そう呼ばれました。藁の鍋つかみですから、貧乏な公家という含みもあります。
その「鍋とり公家」が「加茂の禰宜」と呑んでいます。
「かも・ねぎ・なべ・とり」と並べば、当然鴨鍋を囲んでいるのです。鴨が葱を背負ってきて、鍋と一緒にいるのですから、材料は禰宜が持ってきたのでしょうか?
ただの「言葉遊び」ですが、言葉の調子がよく、ユーモラスなシーンを想像させますね。
(4)さまざまな生業(なりわい)の切り取り
・藪医者(やぶいしゃ)に富貴さづける風の神 <万仁 文化8年(1814年)>
藪医者には、ふだん患者が寄りつきません。しかし風邪がはやれば、やむをえず、あるいはそれと知らずに患者がやってきます。儲けどきです。
北斎漫画の風神(上の画像・左)も、俵屋宗達の風神(上の画像・右)と同様に大きな袋を持っています。
風を起こす神だからですが、それがいつしか「疫病神(やくびょうがみ)」にされてしまいました。みんなに嫌われる「疫病神」も、医者にとっては「富貴の神」だという皮肉です。
・外題(げだい)では博学多才貸本屋 <百々爺 天保9~11年(1838年~1840年)>
貸本屋は「外題」(本のタイトル)についてだけなら、博学多才だという句です。皮肉とも取れますが、「言われてみればそういう職業だ」と納得して笑える川柳です。
今日の書店員も、店にある本を全部読んでいなくても、タイトルは広く知っておく必要があります。
しかし、いろいろな名称や用語、キャッチフレーズなどの「外題」ばかりを膨大に知っていても、それがどういうものかよく知らないままわかったような気になっていることの多い現代人には、その空疎を突いた皮肉にも聞こえます。
(5)有名な故事の皮肉や換骨奪胎
・相番(あいばん)は堀部尻ごみする力弥 <卍 文政10年(1827年)>
堀部とは、赤穂浪士の一人、堀部安兵衛(ほりべやすべえ)のことです。力弥とは、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の長男である大石主税(おおいしちから)のことです。
相番とは、宿直を共にする相手です。それが堀部では、力弥が尻込みするというのです。
「四十七士」の中で、大石主税のキャラクターは「色若衆」すなわち「美少年」です。赤穂浪士達の人間関係をBL的に言えば、最年少の主税が中心になります。
その美少年が、「堀」部安兵衛と同宿するとなれば、「尻」込みも当然、尻を掘られる心配があるからです。
・前だれの内ぞゆかしき茶や娘 <萬仁 文化8年(1811年)>
謡曲『鸚鵡小町(おうむこまち)』を踏まえた句です。
落魄し、老残の身となった小野小町に、天皇が勅使を通じて、哀れむような歌を贈ります。
雲の上はありし昔に変らねど見し玉簾(たまだれ)の内やゆかしき
これに小町は、
雲の上はありし昔に変らねど見し玉簾(たまだれ)の内ぞゆかしき
と、「内やゆかしき」を「内ぞゆかしき」とただ一字を変えただけの歌を鸚鵡返しして、衰えぬ才気を見せます。
この川柳では、「玉簾」が「前だれ」に変えられました。すると雲の上は茶や娘の下半身のゆかしいところに転じます。
小野小町には、そのゆかしい部分がなかったとされていることも連想させるようになっています。
(6)幻想的なものや想像上の生き物の切り取り
・誰(た)が嗅(か)いで見て譬(たとえ)たか河童の屁 <卍 文政8年(1825年)>
「このぐらいは屁の河童だ」などと「大したことがない」という意味でよく言いますね。
しかし、そもそも誰が河童の屁を実際に嗅いでみて、そんなふうに言い出したのか、本当に河童の屁は大したことがないものなのかと、北斎は問いかけているのです。
これは、当たり前に使い慣れている言葉が、ふと立ち止まって考えてみると根拠のない不安定なものに見えてくる、その奇妙さの感覚を滑稽な問いかけにして表現したものです。
・化物の息子三郎ッ首くらゐ <卍 文政8年(1825年)>
「ろくろ首」を「六郎首」と見て、息子をその半分の「三郎首」ぐらいかと値踏みしています。
「ろくろ首」とは言わずに「化物」とすることで、謎かけにしています。
錦絵の揃物『百物語』の「さらやしき」では、井戸から現れては皿を数えるはずのお菊さんが、皿をつないだ長い首をした「ろくろ首」の姿で描かれています。
お菊さんが「ろくろ首」になったという伝承はありませんが、これは「皿を数えては一枚足りないと嘆きながら、十枚揃うのを首を長くして待っている」という言葉遊びなのです。
(7)遊里の風刺や切り取り
・身を捨てて美しく売る貝屏風 <百性 天保12年(1841年)>
「貝屏風」は江ノ島の土産物で、貝殻を貼り付けて模様にした小さな屏風です。それを作るには、貝の身は要(い)りません。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということわざを踏まえて、貝屏風はまさに身を捨てた貝殻だけで美しくなって売られているというのです。
そのこころは、身売りした女、遊女のことです。遊女も身を捨てて苦界に沈み、美しく飾られて売られています。そのことを貝屏風に見立てたのです。
・千人の枕ににくい一字命(いちじめい) <卍 文政12年(1829年)>
遊女と客が互いの思いの深さの証として、相手の名前から一字を取り、たとえば由兵衛と梅千代なら「ヨシサマ命」「ウメ命」と、互いの腕に刺青したのが「一字命」です。
たとえ多くの客と寝ていても、あなただけが本気の相手だと誓うものでした。もっとも、それはしょせん遊女の商売上の手管(てくだ)だというのが半ば常識だったようです。
そんな遊女の手管に騙されるうぶな男でなくても、遊女の腕に他人の名の刺青があるのを見ると、嫉妬を覚えてしまいます。
惚れているわけでもなく、千人もの客の相手をする遊女と思っていながら、その千人の中に特別な男が一人いると思えば憎らしくなるという男の気持ちをうまく表しています。
(8)性を扱った破礼句(ばれく)
・まじまじと馬の見ている麦畑 <卍 文政10年(1827年)>
「誰かさんと誰かさんが麦畑~♪」(作詞:なかにし礼)というザ・ドリフターズの歌にもあったように、麦畑は男女の睦みあう場所でした。川柳では麦畑と言えば、まずその意味でした。
したがって、馬がまじまじと見ているのは男女の交(まじ)わりです。「まじまじ」には呆れているという意味も込められているかもしれません。
3.葛飾北斎とは
彼は浮世絵師のなかで最も長い70年余の作画期間中、画風を次々と変転させながらも各分野に一流を樹立した浮世絵派を代表する絵師です。
彼の長い作画生活は終生刻苦勉学に貫かれていて、その情熱は当時の絵師としては稀にみるところでした。
金銭に無頓着で身なりかまわず、人を驚かすことが好きであった彼は、自らの造形力の向上を信じて画業一筋に生きた“画狂人”でした。『富岳百景』初編には自ら「九十歳にして猶其奥意を極め一百歳にして正に神妙ならん歟百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん」云々と記しています。
画域も役者絵・美人画・風景画・花鳥画・社会風俗画・挿絵・版本など広い分野にわたり、「画狂人」の自称どおり生涯に3万枚以上の作品を描きました。