スターリンは、政敵や元同志を含む4000万人もの人々を殺害したとも言われる恐怖の「スターリン粛清」で有名ですが、彼をこのような狂気に駆り立てたものとは一体何だったのでしょうか?
「反ネオ・ナチ」を掲げてウクライナ侵略を始め、軍事施設以外の住宅・劇場などを無差別攻撃して兵士以外の民間人の大量殺戮を行っているロシアのプーチン大統領を見ていると、ユダヤ人を迫害し、後にユダヤ人600万人の大虐殺(ホロコースト)を行ったアドルフ・ヒトラーと何だかオーバーラップしてきますが、スターリンにも極めて似たところがあります。
プーチン大統領は、スターリンの名こそ出しませんが、常に「ウクライナの非ナチ化・非武装化・中立化」を言っています。これは、スターリンが第二次世界大戦後に、ドイツ占領政策として提唱した「3D政策」とそっくりです。「3D」とは、「非ナチ化、非軍事化、民主化」でした。
1.スターリンとは
ヨシフ・スターリン(1878年~1953年)は、ソビエト連邦(現在でいうロシア)の「書記長」をつとめ、ヒトラーと並ぶ「20世紀の最大の独裁者」あるいは「20世紀最悪の独裁者」といわれた人物です。「書記長 」とは、ソ連の最高指導者のことです。
ソビエト連邦初代指導者であるウラジーミル・レーニン(1870年~1924年)(下の画像)とともに「ロシア革命」(1917年)に参加して政権の一員となり、その後権力を掌握しました。
強力なリーダーシップにより、ソ連の重工業を重点的に発展させ、工業化を推し進めるとともに、軍事力を強化してソ連を大国へと押し上げました。
ヒトラー率いるナチスドイツとの戦いでは、ソ連のリーダーとして戦争を勝利へと導きました。
その一方、国民の生活は顧みず、国内では物資の欠乏から多くの餓死者を出しました。権力の座に着く過程では、強引にライバルたちを排除(粛清)し権力者になります。
自分の敵と見なした人々を処刑したり収容所送りにしたりと、非道な独裁者という言葉にふさわしいエピソードも多い人物です。
2.スターリンの生涯
(1)生い立ち
スターリンは1874年に「コーカサス地方」と呼ばれるロシア帝国領グルジア(現在のジョージア)のゴリという街で生まれました。
グルジアはモスクワから遠く離れた中央アジアにある辺境地域で、スターリンはヨーロッパ系ではなくアジア系の血を引く人間でした。
父は靴工場を経営していましたが、経営が悪化。酒浸りの毎日を送る父を見かねた母はスターリンを連れて家を出て、各地を転々とします。
(2)少年時代
スターリンは子供の頃からグルジアの自然や人々を讃える詩を新聞に投稿していましたし、彼の初めてのペンネームである「コーバ」は、グルジア人作家の書いた冒険小説に出てくる主人公の名前でした。
そして、ラブレンチー・ベリヤやアナスタス・ミコヤンなど、後にスターリンの側近となった人物の中にもコーカサス出身者が多くいたのは偶然ではないでしょう。
息子に教育を受けさせたかった母は1888年にゴリの街の司祭に頼み、ゴリの教会付属の神学校で彼を学ばせ始めました。
1894年、奨学金を得たスターリンは首都トビリシの神学校に入学し、学業成績優秀でしたが、校風が合わず1899年に退学してしまいました。
(3)革命家となり、レーニンの率いるボリシェヴィキの一員として活動
退学後「無神論者」となって、1912年にスターリンはロシア帝国打倒を目指す革命家になりますが、ロシア帝国の警察当局から危険人物と認定され逮捕、シベリアに流刑されてしまいます。流刑から帰ったスターリンはレーニン率いるロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ派の一員として活動しました。
この頃結婚したエカテリーナ・スワニーゼとの間にヤーコフという男の子を授かりますが、その数か月後にエカテリーナがチフスによって死去すると、スターリンは深い悲しみに暮れ、彼女と共に人間に対する最後の温かい感情を失いました。
彼女の遺した息子ヤーコフに対しては、愛情を抱くどころか憎しみすら抱くようになり、スターリンはこの息子を愛することはありませんでした。
ヤーコフはスターリンよりも先に死去していますが、その原因はスターリンにありました。第二次世界大戦中、ナチスドイツ軍の捕虜として捕らえられてしまったヤーコフに対し、ヒトラーがスターリンに身代金を条件に解放を提案しますが、スターリンはこれを拒否しました。
息子にどんな拷問が降りかかっても顔色一つ変えず、条件に応じることはありませんでした。その結果、ヤーコフは刑務所内で獄中死してしまったのです。
(4)徐々に頭角を現し、ボリシェヴィキの書記長に就任
徐々に頭角を現したスターリンはボリシェヴィキ内での地位を確固たるものとし、1922年に書記長に就任しました。
(5)レーニンの死後、政敵を次々と粛清して独裁者となる
1924年にレーニンが死去するとスターリンはトロツキーをはじめとするライバルたちを次々と粛清し独裁権を握ります。
スターリンは自身の立場を決定的なものにするために、NKVD(内務人民委員部・秘密警察、諜報活動などを統括していた機関)の権力を増大させ、世界中に諜報網を張り巡らせました。
1937年には「大粛清」を始めるとともに、自身に対する崇拝体制を築いていきます。
フランス革命において、ルイ16世、マリー・アントワネット、ラボアジェをはじめ多くの人々(約16,600人)をギロチンで処刑したジャコバン派指導者のロベスピエール(1758年~1794年)を彷彿とさせるような「恐怖政治」ですね。
アレクサンドル・ソルジェニーツィン(1918年~2008年)は、反体制派の有名作家で、『収容所群島』などで広く知られています。ゴルバチョフのペレストロイカの時代に特に人気を集め、粛清の問題についても、最も影響力のある人物の一人でした。彼はその作品で、1917年~1959年のソビエト体制の犠牲者は6,670万人だとしています。
(6)独ソ戦に勝利し、第二次世界大戦の戦勝国となる
1939年、第二次世界大戦が迫る中、ナチスドイツのヒトラーと「不可侵条約」を結びます。
ドイツのポーランド侵攻後、ドイツと領土を分割しバルト三国の併合を行いました。
1941年にドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻すると、スターリンは配下の赤軍に祖国の死守を命じ徹底抗戦させました。
1943年にドイツ軍を破った後、ソ連の影響力を拡大する野望を抱き、連合国の会談に参加するようになります。
この結果、多くの犠牲を払いながらもドイツとの戦争に勝利し、第二次世界大戦の戦勝国となります。
1941年に「日ソ中立条約」を結んでいたソ連と日本でしたが、1943年頃ソ連はアメリカに対して対ドイツ戦に目処が付き次第、対日戦争に参戦する旨を伝えていました。
1945年8月、アメリカの広島への原爆投下に合わせるように、「ヤルタ協定」を根拠に「日ソ中立条約」を一方的に破棄、日本に対して宣戦布告し満州への侵攻を開始しました。
8月15日に日本がポツダム宣言を受諾後もソ連は停戦を無視して攻撃を続け、南樺太や千島列島を占領。多くの日本軍捕虜をシベリアに抑留し強制労働に就かせ、死に追いやることになりました。
スターリンはこれだけでは満足せず、日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に対して北海道と東北の一部の分割占領を提案(英米は即座に拒否)、またイラン北西部ではアゼルバイジャン自治共和国とクルド共和国を強引に建国しようとするなど、領土拡大に対するスターリンの欲求は底無し沼のような貪欲さでした。
(7)第二次世界大戦後
第二次大戦後ポーランド、ルーマニア、東ドイツなどが社会主義国家となりソ連共産主義の拡大が脅威となる中で、英米を中心とした西側諸国とソ連との関係は急激に悪化しました。
1949年に原爆実験を成功させ核保有国となった後、冷戦が本格化します。
ソ連とアメリカとの対立はヨーロッパだけにとどまらず、アジアでは毛沢東率いる中国共産党が内戦に勝利して中華人民共和国が誕生、朝鮮半島にも朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が樹立され、1950年には大韓民国との間に朝鮮戦争が勃発します。
1950年、スターリンは北朝鮮に対して韓国へ侵攻する許可を出し、朝鮮戦争のきっかけを作りました。
(8)死去
その後、西側諸国と対立する冷戦時代となりますが、スターリンの独裁は続きました。1953年3月5日、スターリンは脳内出血によって死去しました。享年74。
3月1日、側近たちとの夕食を済ませ、クレムリンの西クンツェヴォにある別荘の自室に戻ったあと、スターリンは脳卒中の発作で倒れました。
スターリンは、普段から自分が呼ばない限りは建物に入ってはならないと警備職員に伝えていました。そのため発見が遅れ、知らせを受けかけつけた側近たちもすぐに医者を呼ばなかったため、容態がさらに悪化したのです。
スターリンは4日間の危篤状態のあとに死亡しましたが、初期対応の遅れ方が不自然であることや目撃者によって細部の証言が異なっているといった理由から、彼の死については暗殺ではないかという説があります。
犯人として最も疑われているのは側近の1人でスターリンの元で粛清を手がけていたラブレンチー・ベリヤです。倒れているスターリンを介抱しようとした警備職員に対して、ベリヤが「同志スターリンは熟睡されているのだ」と怒鳴りつけてそれを妨げたという証言もあります。
ベリヤの単独犯説のほか、スターリンによる粛清を恐れた側近たちが共謀して暗殺を計画し、実行犯としてベリヤを使ったという説もあります。
暗殺の方法についても、毒殺説から、実際に脳卒中で昏睡状態にあったところに死を確実にするために毒を投与したという説など様々です。
目撃者の証言も一致しないことから、真相の究明は難しいと思われますが、一般的にはスターリンの死は脳溢血による自然死とされています。
猜疑心が強く、警戒を怠らなかったスターリンは関連する資料を用心深く管理していたため、1953年に死去した当初はその実態を知らない多くの国民に悲しまれましたが、死後、晩年まで行われていた粛清の真実が次々と明るみに出ました。
スターリンは「常に周囲が自分の命を狙っている」という妄想が肥大し、少しでも疑わしい人物はすぐに粛清しました。
3.スターリンの人物像
(1)自己顕示欲・権力欲が強く冷酷な気性
スターリンは、自己顕示欲・権力欲が強く、冷酷な気性の持ち主でした。ロシアの少数民族グルジア人であり、貧困層の出身でだったスターリンは、幼い頃から人一倍コンプレックスが強く、自己顕示欲、権力欲が旺盛だったそうです。
目的のためには手段を選ばず、自分が敵と見なした相手には容赦をしませんでした。権力者となってからは、相手を殺すのすら厭わない冷酷な気性の持ち主というのが一般的に語られるスターリン像です。
そこには冷酷で自分の思い通りにならないことは許せないという独裁者のイメージそのままの人間が描かれています。幼少期に父親から暴力を受けていたことから父に対する恨みと復讐心を堆積させ、暴力的で狡猾(こうかつ)な性格になっていったといわれてます。
スターリンもヒトラーと同様に、「パラノイア(偏執病)」(*)だったのではないかと私は思います。
(*)パラノイア(paranoia)とは、偏執病、妄想症ともいわれ、頑固な妄想のみを持ち続けている状態で、その際に妄想の点を除いた考え方や行動は首尾一貫しているものです。
幻覚や幻聴は伴わず、中年以降に徐々に発症し、男性に多い病気です。妄想の内容は、高貴な出であると確信する血統妄想、発明妄想、宗教妄想などの誇大的内容のものをはじめ、自分の地位・財産・生命を脅かされるという被害(迫害)妄想、連れ合いの不貞を確信する嫉妬(しっと)妄想、不利益を被ったと確信して権利の回復のための闘争を徹底的に行う好訴妄想、身体的な異常を確信している心気妄想などがあります。一般には、自我感情が高揚して持続的な強さや刺激性を示します。
スターリンのように迫害妄想にとらわれていて、親戚であろうと容赦なく粛清するような独裁者を診察する主治医は命がけです。スターリンを「パラノイア」と診断した精神科医はその診断後24時間で怪死していますし、前任の主治医も逮捕されています。これらのことを知っていた後の主治医、ウラジーミル・ヴィノグラードフが慎重であったのは当然です。
しかし、動脈硬化が重症になってきたために節制が必要であるとの注意勧告を行わざるをえなくなります。おそらくそれが、医者嫌いであったスターリンの怒りを招いたのでしょう。でっちあげられた罪により投獄され拷問を受けます。それぐらいで済んでよかった、殺されなくてよかったとほっとするくらいにスターリンは冷酷だったようです。
(2)「スターリン」という名はペンネームで「鋼鉄の人」という意味
スターリンの本名は、ヨシフ・ヴィッサリオノヴィッチ・ジュガシヴィリといいます。私たちのよく知っているスターリンという名前は、ロシア語で「鋼鉄の人」を意味するペンネームで、彼が活動家時代に論文などを発表するときに使っていたものです。
スターリンは最初、小説の登場人物の名前からとった「コーバ」をペンネームにしていて、スターリンと言う名前を使いだしたのは1913年ごろのことです。一時期はコーバとスターリンと組み合わせた「K.S.」というペンネームも使っていました。
(3)死後に起こった「スターリン批判」
スターリンは死後に批判されることとなりました。
後継者たちはスターリン時代の行き過ぎた政策を軌道修正し、経済的な負担が大きかったアメリカとの冷戦も緩和させる方向に舵を切ったのです。
そんななか、後継者のなかで台頭していたニキータ・フルシチョフ(1894年~1971年)(下の画像)が演説の中で行ったのが「スターリン批判」です。フルシチョフは、スターリンの粗暴な性格や、彼が行った大粛清、独ソ戦初期におけるソ連軍大敗への責任、そしてスターリン時代のスターリン自身に対する個人崇拝を挙げて批判し、今後のソ連ではこういうことは繰り返さないようにしなければならないと述べました。
スターリンの生きていた時代には決してできなかっただろうこの演説は、たちまちソ連内外から注目を浴びました。スターリン批判をきっかけに、共産主義圏におかれていた東欧諸国ではスターリン体制からの脱却を掲げて民主化運動が起こり、アメリカやヨーロッパ諸国でもおおむね好意的に受け入れられました。
一方、ソ連国内ではスターリンがいたからこそ第二次大戦でのソ連の勝利があったと考える人が少なからずおり、フルシチョフに反発する人も多くいました。
現代のロシアにおいても、スターリンの評価は肯定的なものと否定的なものの二つに割れています。
4.スターリンの名言・迷言
・投票する者は何も決定できない。投票を集計する者が全てを決定する。
・今もこれまでも、無敵の軍隊が存在しないのは歴史が証明している。
・相違なくして力強く活発な動きは不可能だと考えている。「真の一致」は、墓地でのみ可能である。
・愛とか友情などというものはすぐに壊れるが恐怖は長続きする。
・現実と理論が一致しなければ現実を変えよ 。