ヴィクトリア女王の治世であるヴィクトリア朝の特色とは?

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ヴィクトリア女王・絵画と写真

ヴィクトリア女王の治世である「ヴィクトリア朝」(ヴィクトリア時代)とはどんな特色のある時代だったのでしょうか?

1.ヴィクトリア朝(ヴィクトリア時代)とは

ヴィクトリア朝(Victorian era)」とは、「ヴィクトリア女王がイギリスを統治していた1837年から1901年の期間」のことです。

この時代は、「産業革命によって社会インフラ・技術・経済が急激に発展・成熟した大英帝国の絶頂期」です。

この時代は近代イギリスで最も繁栄し、多くの自治領・植民地を所有し、イギリスは「世界の工場」とも呼ばれ、工業生産・金融の面で「世界経済のヘゲモニー(主導権)」を握り、「第二帝国の時代」とも言われました。

国内政治では「保守党」と「自由党」の二大政党が交互に政権を担当する政党政治が機能し、文化面でも世界をリードする「パックス=ブリタニカ」(*)を実現しました。

(*)「パックス=ブリタニカ」とは、強大な工業力と海軍力を背景に大英帝国が世界的な覇権国家となり、「世界の警察官」の役割を果たした期間における列強間の相対的な平和の時代のことです。

また、この時期の外交の基本姿勢は、どの国とも同盟関係を結ばないという「光栄ある孤立」と言われました。

日本では幕末の動乱期前後から「日露戦争」(1904年~1905年)前の明治時代に当たります。1837年には日本人漂流民を乗せたアメリカの商船を「異国船打払令」に基づいて砲撃した「モリソン号事件」が起こっています。

彼女の統治期間は、12代将軍徳川家慶・13代将軍徳川家定・14代将軍徳川家茂・15代将軍徳川慶喜の時代から明治天皇の時代にまで及んでいます。

2.ヴィクトリア朝の区分

ヴィクトリア朝は63年7ヵ月に及ぶ長い治世で、その間の社会の変化も大きいため、初期(1837年~1850年)、中期(1850年~1870年代)、後期(1870年代~1901年)の3期に分類されます。

初期は、ヴィクトリア朝以前の1832年に行われた「第1回選挙法改正」や、1846年の「穀物法廃止」などに見られるように、「産業資本家の勢力が伸長した時代」です。

中期には、1860年の「英仏通商条約」、およびグラッドストン首相のもとでの「自由貿易体制」が整えられ、「大英帝国の絶頂期」を迎えました。

後期は、イギリス国内の「生産設備老朽化」や、資本集中の遅れから「重化学工業への転換の遅れ」が出た一方、アメリカやドイツなどの工業力が向上し、「イギリスの経済覇権に揺らぎが見え始めた時代」です。

3.ヴィクトリア朝の特色

(1)3つの階級社会

当時のイギリス社会は、「上流階級(貴族)」「中流階級」「労働者階級」という3つの階級が存在する「階級社会」でした。

階級は所得をはじめとして、職業、教育、家族構成、政治、余暇の過ごし方など、経済的にも文化的にも影響を与えました。

「労働者階級」は人口の70~80%を占め、収入のメインは「賃金」で、世帯収入は通常100ポンド以下でした。

一方、「給料」と「利益」で収入(100~1,000ポンド)を得ていた「中流階級」は、19世紀に急速に成長し、人口の25%以上まで達します。19世紀には、「中流階級」の人々が社会の道徳的指導者であり、政治的な力も得ていました。

裕福な「上流階級(貴族)」は、資産や家賃、利子から収入(年間1,000ポンドかそれ以上の金額)を得ており、「肩書き、財産、土地」の一部または全部を持っていました。またイギリスの土地の大部分を所有しており、地方政治、国家政治、国際政治などを支配する力を持っていました。

(2)政治

イギリス議会政治の発展が「二大政党制」を実現させ、保守党のディズレーリと自由党のグラッドストンが交互に政権を担当しました。

政党政治を支える選挙制度も、1867年の「第2回選挙法改正」で都市労働者が選挙権を認められ、1884年には「第3回選挙法改正」を行い、農業と鉱山の労働者にも選挙権が与えられ、女性参政権を除いてはほぼ普通選挙に近い形態となりました。

なお1881年には、ロンドン滞在中のカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスに影響を受けたヘンリー・ハインドマンによってイギリス初の社会主義政党である「社会民主連盟」が結成され、ウィリアム・モリスらが参加しました。

特にディズレーリ保守党政権のもとで、「スエズ運河株買収」、「インド帝国の成立」という「帝国主義政策」がとられました。またグラッドストン自由党政権では帝国主義政策は抑制的でしたが、アイルランドやエジプト、スーダンでのナショナリズムの高揚による激しい反英闘争が起きると、結局それらを軍事力で押さえつけました。

グラッドストン退陣後は、植民地相ジョゼフ・チェンバレンによる「植民地拡大路線」が全面的に展開されるようになり、1899年の「ボーア戦争」(南アフリカ戦争)に突入します。

その南ア戦争が長期化し、イギリス財政が逼迫する中、1901年にヴィクトリア女王が死去しました。

女王の死は、イギリス全盛期の終わりと、大きな曲がり角に来たことを示す出来事でした。

夏目漱石が留学先のロンドンに着いたのは1900年10月28日の夜でした。翌日ロンドン市中を歩き回った漱石が見たのは、「ボーア戦争」から帰った義勇兵を歓迎する雑踏でした。

翌1901年1月23日の日記に「昨夜6時半女皇死去す」と書き、英語で「All the town is in mourning. The new century has opened rather inauspiciously…」(市中は喪に服している。新しい世紀はいささか不吉に始まった」と書いています。

(3)科学技術・工学

「産業革命」はすでに勢いづいていましたが、工業化の効果が20世紀の大衆社会を生み出すのはまさにこの時期でした。

「産業革命」は、イザムバード・キングダム・ブルネルらによって国中の鉄道網を発達させ、工学に大きな前進をもたらしました。

この時期に科学は今日のような学問分野に成長しました。大学での科学の知的専門職が増えるとともに、多くの紳士(ジェントルマン)たちが博物学に身を捧げました。チャールズ・ダーウィンは1859年に「種の起源」を著し、民衆のものの考え方に大きな影響を与えました。

1863年1月には、ロンドン地下鉄が開通しました。また1882年には、白熱電灯がロンドンの街路に導入されました。

(4)文化

この時期は、イギリスの美術にとっても黄金期、爛熟期でした。

公私ともに円満だったヴィクトリア女王とアルバート公夫妻に象徴されるように、この時代は家庭の平和と繁栄があり、それらが絵画の花開く条件につながりました。

ターナー(*)、ランドシーア、ロセッティ、ミレー、バーン・ジョーンズ、レイトン、ワッツ、ホイッスラーなどの画家が現れました。彼らはヴィクトリア女王の治世の間生存していました。

(*)ターナー(1775年~1851年)は、夏目漱石が愛した画家としても有名ですね。「坊ちゃん」の中に、坊ちゃんが教頭の赤シャツ、美術教師野だいこと釣りに行き、松を眺める場面にターナーが出てきます。

「あの松を見たまえ、幹が真直まっすぐで、上がかさのように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だからだまっていた。舟は島を右に見てぐるりとまわった。波は全くない。これで海だとは受け取りにくいほどたいらだ。赤シャツのおかげではなはだ愉快ゆかいだ。出来る事なら、あの島の上へ上がってみたいと思ったから、あの岩のある所へは舟はつけられないんですかと聞いてみた。つけられん事もないですが、釣をするには、あまり岸じゃいけないですと赤シャツが異議を申し立てた。おれは黙ってた。すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかと余計な発議ほつぎをした。赤シャツはそいつは面白い、吾々われわれはこれからそう云おうと賛成した。

下の画像の「金枝」は、ジェームズ・フレイザーの「金枝篇」の口絵として掲載されたもので、ウェルギリウスの「アエネーイス」で伝えられる「金枝」の挿話を描いています。

<金枝>(1834年、テート・ブリテン蔵)

ターナー・金枝

下の画像は、「ナポレオン戦争」における最大の海戦でイギリスが勝利した1805年の「トラファルガー海戦」を描いています。

<トラファルガーの戦い>(1822年、ロンドン国立海事博物館蔵)

ターナー・トラファルガーの戦い

一般に認められる画家が約11,000人も誕生しました。凡庸な画家も多かったのですが、高い才能と完成度を持つ画家も少なからずいました。

この時代は膨大な数の美術品を生み出し、一般大衆が展覧会に殺到しました。また絵画の立派なコレクションを持つ富裕層もいました。

ヴィクトリア女王はイギリスの芸術家を後援したため、多くの芸術家が貴族と同等の人間関係を持って上流社会と交わるという名誉ある地位を獲得しました。

産業革命も芸術に強い衝撃を与えました。「ロマン主義」と「リアリズム」はどちらも、この時代の力強い変化への反応と考えられています。

ヴィクトリア朝の画家は、産業革命の成果と、社会や道徳観の全面的な変化をうまく描き出しました。ディケンズやジョージ・エリオットの小説、オスカー・ワイルドの演劇、テニスンやブラウニングの詩は、ヴィクトリア朝の画家を相手役に持っていました。

ヴィクトリア朝の画家たちは、さまざまな社会的・教育的背景を持つ幅広い層にも理解できるように作品を作りました。これによって、娯楽とともに文化的向上を提供しました。その意味でヴィクトリア朝の芸術は「新興階級である中流階級向けの芸術」あるいは「大衆的芸術」でした。

ヴィクトリア朝芸術の並外れた豊かさ・多様性・複雑さは、裕福で複雑な社会を反映したものでした。

(5)道徳

ヴィクトリア朝の道徳は、一般的には「行動規範が極めて保守的、性的抑圧と寛容性のない上品さ」といった特質で語られます。

しかし同時に、ジャーナリズムと議会制民主主義の発展、女性問題など、さまざまな問題に光が当たり始めた時代でもありました。

奴隷制、売春、児童労働、労働者問題、教育、動物福祉、アヘン貿易などが活発に議論されるようになりました。一方同性愛は違法のままでした。

1807年の「奴隷貿易の全面禁止」以降、1833年には大英帝国全体で奴隷制が廃止され、奴隷所有が違法とされました。ヴィクトリア女王はこの4年後に即位しています。

ロンドンは産業革命の影響で薄暗いスモッグの街となり、イースト・エンドの貧民街には多くの娼婦たちが暮らしていました。

ヴィクトリア朝の道徳観は、女性のステレオタイプを大きく二つに分け、コベントリー・パトモアが描く「家庭の天使」のような女性像を家庭の守護天使として理想化する一方、「堕落した女性」とみなされた娼婦は、社会的に浄化する必要がある社会悪とされました。

そして「男女は異なる性質を備えるもの」「男性は体力があるが、女性は弱い」という考え方のもとに、「男性は政治や労働などの公的な職務につき、女性は家で家族の面倒を見て家庭を守る」という考え方です。

1833年代、シャフツベリー卿が中心となって、労働現場での児童労働を軽減するため、一連の「工場法」制定に向けて動きました。

10時間法が導入され、綿および羊毛工場で働く子供は9歳以上でなければならない、18歳未満は1日10時間または土曜日に8時間を超えて働かされないこと、25歳未満は夜勤が出来ないことなどを定めました。

1844年の「工場法」では、9~13歳の子供は昼休みと1日最大9時間の上限が設けられました。

工場所有者によるロビー活動と激しい抵抗にもかかわらず、多少なりとも子供のための法的保護が設けられましたが、チャールズ・ディケンズの小説が中産階級の人々に知らしめたようなロンドンの孤児(ストリートチルドレン)の苦しみは続きました。

エリザベス1世の時代以来続いていた「動物を虐待する風習」(*)は、「動物愛護」に一変して「王立動物保護協会」が設立されました。

(*)1500年から1800年にかけてのイギリス人の伝統的な動物に対する考え方は、「世界は人間のために存在しており、他の種はすべて人間の従属的な存在である。ゆえに好きなようにしてよい」というものでした。

ただ「奴隷貿易の全面禁止」や「動物虐待から動物愛護への転換」をする一方で、非白人国家を侵略・植民地化してキリスト教やキリスト教文化(西洋文化)を押し付けたり、非白人民族を抑圧し奴隷的労働をさせる「帝国主義政策」を推進したのは、私には「偽善」としか思えません。

ただヴィクトリア朝の道徳は、「人目に付く所でどんな具合に振る舞うかが問題のほとんど全て」という面もあったようで、「各種の偽善が横行した時代」でもあったようです。

この時代の表面を覆っていた「ヴィクトリア風という皮」は、「それが命じる各種のしきたりに従わないと人並みに扱われないという罰則を伴っていましたが、誰でもそれを被ってさえいれば、あとは大抵のことができたという便利な物」でした。

つまり、「紳士(ジェントルマン)のように振る舞えば、それが紳士なのであって、化けの皮が剥がれた下の生地が現れることはない」ということです。

たとえば、頭と顔、手足くらいを除いて、人間の体のことを口に出すのは上品でないということで、一切禁じられていたそうです。当時のイギリスの人々は、医者でもない限り、腸とか胃とかさえ言えなかったそうです。まるで「言葉狩り」のようですね。

また、言葉だけではないケースもあったようです。ヴィクトリア女王の孫の王女の一人が女王から「他人に自分の足を出して見せることになって『はしたない』から、自転車に乗ってはいけない」とたしなめられたところ、王女が「でもお祖母様、私に足があることは誰でも知っていますよ」と答えたので、女王は黙るほかなかったという有名な話があります。

この話は、ヴィクトリア朝の道徳観念がどのようなものだったかを示すとともに、そのような道徳観念が崩れ始めていたことを象徴的に示すものです。

何だか明治時代の日本の道徳観念に似ているように感じます。「欧化政策」によってヴィクトリア朝の道徳観念も移入されたからでしょうか?それとも日本古来の道徳観念が、ヴィクトリア朝の道徳観念に似ていたのでしょうか?

ムスリムの女性が「髪の毛や肌を見せてはいけない」ということで、頭に「ヒジャブ」と呼ばれるスカーフを巻いたり、肌をできる限り出さない服装をさせられる不合理さと似ていますね。

ヒジャブを着用したムスリムの女性

(6)宗教

ヴィクトリア朝のイギリス人のほとんどはキリスト教徒でした。イングランド・ウェールズ・アイルランドの「イギリス国教会」はあくまでも州の教会であり、プロテスタントやローマカトリック教徒などのキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒、ヒンズー教徒など多様な宗教性がありました。

ヴィクトリア朝に起こったものとしては、初期に起きた「オックスフォード運動」「トラクト運動」、1865年のウィリアム・ブースによる「救世軍」の創始、1890年代の「神智学」や「オカルト趣味」があります。

(7)その他の出来事や事件

1851年に世界初の万国博覧会の「ロンドン万国博覧会」が、ロンドンのハイド・パークで開催され、国際的な注目を集め成功裏に終わりました。

同じ1851年にはトーマス・クックが世界最初の旅行代理店「トーマス・クック社」を創業し、ロイターがロンドンで「ロイター通信社」を創業し、近代の通信産業の始まりの年となりました。

1887年11月13日の日曜日、多くの社会主義者と失業者から成る数万人の群衆がトラファルガー広場に集結し、政府に対してデモを行いました。市警察長官のチャールズ・ウォーレンは武装した兵士と2000人の警察官にデモ鎮圧を命じました。しかし暴動に発展し、数百人の負傷者と2人の死者が出ました。「血の日曜日事件」と呼ばれています。

1888年、「切り裂きジャック」と呼ばれる連続殺人犯がロンドンの路上の娼婦を殺害し遺体を損壊する事件が起き、世界的にメディアを騒がせました。

新聞はこの死神を利用して、失業者の苦境に注目を集めさせ、警察と政治指導者を攻撃しました。結局殺人鬼は逮捕されず迷宮入りとなりました。

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