皆さんは河鍋暁斎という名前をお聞きになったことがあるでしょうか?
たぶん浮世絵の歴史に関心のある方以外は、あまりご存知ないのではないかと思いますが、一度顔を見たら決して忘れられない独特の風貌をしています(上の画像)。
そこで今回は、河鍋暁斎の人物像と生涯についてわかりやすくご紹介したいと思います。
なお、河鍋暁斎の多彩な画風と代表的作品については次回の記事でご紹介します。
1.河鍋暁斎とは
河鍋暁斎(かわなべ きょうさい)(1831年~1889年)は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師・日本画家です。号は「ぎょうさい」とは読まず「きょうさい」と読みます。それ以前の「狂斎」の号の「狂」を「暁」に改めたものです。
明治3年(1870年)に筆禍事件で捕えられたこともあるほどの反骨精神の持ち主で、多くの戯画や風刺画を残しています。狩野派の流れを受けていますが、他の流派・画法も貪欲に取り入れ、自らを「画鬼」と称しました。
河鍋暁斎は幼少期より写生を何よりも好み、時に遊女の帯を写生したいがために追いかけまわし、誤解されることもあるほどでした。
父は暁斎を「奇想の絵師」と呼ばれた浮世絵師・歌川国芳に、続いて駿河台狩野派に学ばせました。暁斎は早くから頭角を現し、師の前村洞和はその画才を賞して「画鬼」と呼んだということです。
幕末から明治の時代、狩野派の絵師は最大のパトロンである幕府の崩壊という厳しい状況に追い込まれましたが、暁斎はその画力と反骨の精神を生かして浮世絵を出版、本に挿絵を添え、書画会では求めに応じて多数の作品を描き上げ、さらには来日する外国人に作品を提供するなどして、苦しい時代を巧みに生き抜いていきました。
暁斎は無類の酒好きとしても知られますが、生涯を通じてあらゆる表現を探究し続けた極めて熱心な絵師でもありました。土佐派や四条円山派などの伝統的なものから、浮世絵や西洋画に至るまで知りうる限りの画法を研究し、同時に仏画や山水画などの伝統的な画題から、世相を反映した戯画や風刺画まであらゆる主題に精通しました。
その絵への熱中は凄まじく、娘の河鍋暁翠(かわなべきょうすい)が「父の寝顔を見たことがない」とのちに語っているほど、寝る間を惜しんで絵画に没頭しました。
晩年の明治20年には東京美術学校が開校し、近代国家にふさわしい日本美術のあり方が模索されていきます。暁斎はこの時流とは一定の距離を取っていたこともあり、今日では必ずしも美術史の中心には位置づけられていません。
しかし聖と俗、貴と賤をない交ぜにした暁斎の作品は、江戸から明治への転換期の混沌とした様相を鮮やかに描き出しています。
河鍋暁斎はその努力と持ち前の才覚から、対象を的確に描き出す力は日本絵画史上においても屈指のものでした。その画力は、今日でも江戸後期の画家で円山派の開祖・円山応挙や近世日本画家の伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)と並び評されるほどです。海外での評価も葛飾北斎と並ぶ高いものになっています。
しかし、あまりにも広範な作画ジャンルをこなしたがゆえに、代表作を絞ることができず、日本国内では長らく日本画のジャンルから外されてしまっていました。
したがって、河鍋暁斎の再認識・評価には海外の目が欠かせません。特に彼の弟子となったイギリス人建築家のジョサイア・コンドルが重要な役割を果たします。欧米での河鍋暁斎の人気は、ジョサイア・コンドルが出版した書籍をきっかけに高まりを見せました。それを機に多くの画商が河鍋暁斎の作品を購入し、国際的な評価が形作られることになったのです。
このような経緯もあり、河鍋暁斎の作品は多くが海外に所蔵されていますが、日本国内では埼玉県蕨市にある「河鍋暁斎記念美術館」で多くの作品を観ることができます。
また近年は国内の他の美術館でも回顧展が開催されることが増え、その反響から、河鍋暁斎は日本でもようやくその存在が認められる絵師となりました。
2.河鍋暁斎の生涯
(1)生い立ちと幼少期
河鍋暁斎は、1831年(天保2年)4月7日に下総国古河石町(現在の茨城県古河市)古河藩士の河鍋記右衛門(かわなべきえもん)の次男として誕生。彼の幼名は周三郎(しゅうさぶろう)と言いました。
河鍋暁斎が絵画に触れたのは3歳の頃、初めてカエルを写生したことがきっかけだったという記録が残っています。このときから生涯にわたって、彼はカエルを愛し続けることとなるのです。
(2)写生狂と言われる少年期・青年期
1837年(天保8年)、7歳になった河鍋暁斎は、浮世絵師の歌川国芳の下に入門。歌川国芳の教えを忠実に実行した河鍋暁斎は、みるみるうちに才能を発揮したと言われます。
とりわけ写生に執心し、幼少期からあらゆる物を写生し続けました。写生欲に溢れるエピソードは幼少期からいくつも伝わっており、写生こそが、のちの「画鬼」河鍋暁斎を形成したものだったことは間違いありません。
特に1839年(天保10年)5月に描いたとされる「生首の写生」のエピソードには驚かされます。
当時10歳前後の河鍋暁斎は、洪水で溢れた後の神田川に残されていた生首を拾って帰り、それを精密に写生したと言うのです。この事件は、彼が見せた描くことへの異常なまでの熱意を語るに欠かせない伝説となっています。
(3)ルーツである狩野派との出会い
歌川国芳の門下生として写生の才能を発揮した河鍋暁斎ですが、10歳のときに狩野派の下に移籍します。この移籍は河鍋暁斎本人の希望によるものではなく、父親の意図によるものです。
当時の師・歌川国芳の素行を案じ、より評判の良かった「駿河台狩野派」(するがだいかのうは)の「前村洞和」(まえむらとうわ)のもとに弟子入りさせたと言われています。
新しい師となった前村洞和は、河鍋暁斎の才能をこよなく愛し、彼のことを「画鬼」と呼んで可愛がります。
河鍋暁斎が、しばしば自らを画鬼と名乗ったのは、前村洞和との交流あってのことでした。
1849年(嘉永2年)、19歳になった河鍋暁斎は、画号「洞郁陳之」(どういくのりゆき)を授かり、狩野派の修業を終えました。狩野派の修行にはおよそ11~12年かかると言われる中、入門から9年で修業を終えた河鍋暁斎は、狩野派の中でも相当に優秀な絵師と言えます。
修行を終えた翌年の1850年(嘉永3年)には、河鍋暁斎はお抱え絵師としての画業を開始。館林藩秋元家のお抱え絵師だった「坪山洞山」(つぼやまとうさん)の養子となり、画号を「坪山洞郁」(つぼやまとういく)と改めます。
しかし、坪山家での生活は長く続きませんでした。河鍋暁斎の生活ぶりから悪評が立ち、1852年(嘉永5年)には坪山家から離縁されてしまったと伝えられています。
河鍋暁斎は珍しい帯を写生したいという「写生欲」から、女中達を追いかけまわしていたというエピソードや、家にも帰らず飲み歩くという平生の行動もあって、そうした振る舞いが「遊びに興じている」とみなされたのでしょう。
坪山家を追い出されてしまったことで、河鍋暁斎にとって苦難の時代が始まります。
(4)土佐派等、日本画の流派の影響を受ける
生活の上では苦難の時代に違いありませんでしたが、河鍋暁斎にとっては、むしろ自由に技術を学べる機会でもありました。明確な所属のないこの時期に、彼は狩野派以外の数多くの流派や画法を貪欲に学びます。
例えば、かつて狩野派に対抗しようと作られた「やまと絵」の一派である土佐派や、安土桃山時代に「本阿弥光悦」(ほんあみこうえつ)と「俵屋宗達」(たわらやそうたつ)が創始した「琳派」(りんぱ)、また現代まで続く日本画界の大派閥である「四条派」(しじょうは)といった諸派閥の技法を吸収。そして、幼少期に歌川国芳のもとで学んでいた「浮世絵」も学び直しました。
この時期の驚嘆すべき勉強量が、その後の河鍋暁斎の画風を確立させたと言えます。苦難の時代を経た河鍋暁斎は、もはや流派にとらわれない個性的な作品を生み出す、稀代の絵師としての力を有していました。
(5)安政年間は戯画・風刺画で名を挙げる
しかしそのデビューは、華々しいものではありません。河鍋暁斎のデビュー作となったのは、「鯰絵」(なまずえ)という珍妙なジャンルで描かれた遊郭の広告チラシでした。「仮名垣魯文」(かながきろぶん)の書いた文章に添えられたのは、歌川豊国の画風を模した女性と鯰の姿で遊ぶ男の姿です。
この作品は仮名垣魯文の戯文から「老いなまず」と呼ばれています。珍妙な鯰絵というジャンルは、いわゆる「安政の大地震」と呼ばれる直下型地震と密接な関係があります。
1855年(安政2年)10月2日に、江戸の街を大地震が襲いました。マグニチュードは7.0~7.1と推測されており、その規模は1995年(平成7年)1月17日に発生し大きな被害をもたらした「阪神淡路大震災」のマグニチュード7.3に匹敵。当然、脆弱な木造家屋ばかりの江戸では未曾有の被害となりました。
この大災害をうけて、「地震が起きるのは大鯰が地下で活動するからだ」という迷信が盛んに口にされるようになります。この迷信に基づいて描かれた鯰絵は、地震災害に対するお守りとして江戸で一時的なブームとなりました。
河鍋暁斎が描いた鯰絵も、こうした背景から制作された物です。決して秀作とは言い難い「老いなまず」ですが、彼はこの作品により世間からの評判を獲得し、名絵師として知られる第一歩を踏み出すこととなりました。
安政の大地震から2年後の1857年(安政4年)、河鍋暁斎は結婚します。相手は近代日本画の先駆者で、江戸琳派の絵師である「鈴木其一」(すずききいつ)の次女。絵師として正式に独立したのもこの頃です。
しかし、河鍋暁斎の名前が知られるようになった時には、すでに幕末を迎えていました。大名家の権威が失われるのと同時に、それに仕えてきた「御用絵師」を意味する「狩野派絵師」という肩書きも意義を失っていきます。
その最中にあって、1858年(安政5年)に河鍋暁斎は画号を「惺々狂斎」(せいせいきょうさい)あるいは単に「狂斎」(きょうさい)などと改名。この改名は、御用絵師としてではなく、注文された絵をなんでも描く市井の絵師としてスタートすることを意味していたのです。
1860年(万延元年)頃からは、本格的に錦絵を手掛け始めます。
この時、3代目「歌川豊国」(うたがわとよくに)こと「歌川国貞」(うたがわくにさだ)に目をかけられ、その活動を支えられました。これをきっかけに、1863年(文久3年)には「御上洛東海道」(ごじょうらくとうかいどう)で合作するなど、歌川派との交流も深めることになります。
河鍋暁斎は着実に人気を獲得していき、浮世絵師の番付を登り詰めます。幅広い画法と短い制作時間とによって数多くの作品を生み出し、ついには番付で1番を獲得するに至りました。
しかしながら、幕末から明治において、河鍋暁斎の浮世絵師としての生活は決して裕福なものではありませんでした。
(6)明治維新後、明治政府の役人などを批判する風刺画を制作
明治維新を経て、河鍋暁斎は拠点を静岡へと移しました。母と甥とともに移住して、そこで画業を続けることにします。
しかし、そこで河鍋暁斎が描いた作品が、筆禍事件に発展してしまいます。
明治初期には、風刺画が流行していました。時代の転換期にあって、風刺画は庶民の不安と不満を解消する重要な存在でもあります。かねてから、河鍋暁斎の作品は風刺精神に溢れていたこともあり、民衆からたいへん好まれていました。そのため、当人も好んで風刺画を描いていたのです。
しかし1870年(明治3年)、上野で開かれた書画会の場で、事件が起こります。河鍋暁斎はその席で酔いに任せ、明治政府の役人などを批判する風刺画を描きました。これが役人の怒りを買い、彼は一時捕らえられてしまうのです。
このとき、どのような風刺画が描かれたのかは諸説があり、事実は分かりません。しかし、図らずもこの筆禍事件によって河鍋狂斎の名前は瞬く間に全国に広がりました。
そして鞭叩き50回の刑に処されるものの、翌年には放免。放免されたのちには画号を表記だけ改める形で「暁斎」とし、破天荒極まる筆禍事件のエピソードを引き下げながら、絵師活動を再開しました。
その後の画業では、政府の積極的な開国政策もあって、国際的な交流が活発になります。河鍋狂斎も1876年(明治9年)のフィラデルフィア万国博覧会に肉筆作品を出品したのを皮切りに、国際的評価を獲得。フランス人実業家の「エミール・ギメ」のお抱え画家だった「フェリックス・レガメ」と親交を深めたことでも知られます。
こうした交流を通じて、西欧絵画への理解をも深めた河鍋暁斎の作品は、世界的に高い評価を獲得しました。すでに晩年に至っていたにもかかわらず、精力的に活動を続け、世界中にファンを生み出したのです。例えばドイツ人医師「エルヴィン・フォン・ベルツ」は、河鍋暁斎を「日本最大の画家」と評価しています。
(7)数多くの弟子を育てた晩年
国際的な活躍の中にあって、晩年の河鍋暁斎の下には外国人も入門しました。特に有名な外国人弟子が、お雇い外国人建築家として知られるジョサイア・コンドル(1852年~1920年)(下の画像)です。
ジョサイア・コンドルは、現在の東京大学工学部の前身である工部大学校造家学科教授を勤めた人物で、上野博物館や鹿鳴館等を設計したことでも知られます。
なお、河鍋暁斎の弟子はイギリス人のジョサイア・コンドルだけではありません。
実の子である「河鍋暁雲」(かわなべきょううん)、及び「河鍋暁翠」(かわなべきょうすい)、さらには「真野暁柳」(まのきょうりゅう)、「真野暁亭」(まのぎょうてい)親子、「早川松山」(はやかわしょうざん)、「島田友春」(しまだともはる)、「綾部暁月」(あやべきょうげつ)、「荒木白雲」(あらきはくうん)、「小林清親」(こばやしきよちか)などが河鍋暁斎の指導を受けました。
また外国人では、ジョサイア・コンドル以外に、オーストラリア出身の画家「モーティマー・メンペス」も河鍋暁斎に師事。その数は総勢22名に達したとされ、河鍋暁斎が多くの後進を指導したことが分かります。
なかでも3番目の妻「ちか」との間に生まれた長女・河鍋暁翠は、4歳の頃から河鍋暁斎の指導を受けていました。もちろん4歳というのは本格的に学ぶには早過ぎます。父から渡された鳩の手本絵を習って描こうとしてもうまく描けず、号泣したという話が伝わっています。
しかし、その手本絵は河鍋暁翠にとって父の教えを象徴する物となり、河鍋暁翠は晩年まで自らの画室に飾って、父と対話するように制作を続けたということです。
(8)狩野派を守るために尽力
晩年の河鍋暁斎は、狩野派の画法を守ることを依頼され、狩野派の再興にも努めました。1884年(明治17年)夏、駿河台狩野派宗家の当主「狩野洞春」(かのうとうしゅん)が逝去。自らの死期を悟った狩野洞春は、狩野派の継承者として駿河台狩野派を卒業した河鍋暁斎に後事を委ねます。
河鍋暁斎は、この遺言を忠実に遂行しました。駿河台狩野派の技術を守るため、以前から知り合いだった狩野派宗家である中橋狩野派の「狩野永悳」(かのうえいとく)に改めて入門することを選択。そこで狩野派の画法をこれまで以上に研究し、数多くの古画を模写しました。
さらに狩野派の画法を後世に伝えるために、画帖や巻物にその内容をまとめたのです。こうして狩野派の技術に通じた河鍋暁斎は、駿河台狩野家を継ぎ、狩野派の画法を後世に伝えようと尽力しました。
(9)河鍋暁斎の死、墓所
最晩年、河鍋暁斎は東京美術学校(現在の東京芸術大学の前身)で教鞭を執ることを依頼されます。日本美術院を結成した「岡倉天心」(おかくらてんしん)やアメリカ人の「アーネスト・フランシスコ・フェノロサ」といった名だたる人物からの依頼でした。
しかし、当時すでに河鍋暁斎は病に伏せていたため、この受諾を断念。1889年(明治22年)4月26日、河鍋暁斎はコンドルに看取られながら亡くなります。享年57歳、死因は胃がん。河鍋暁斎の訃報は海を越えて、フランス・パリの新聞でも報じられました。
多くの人に惜しまれながら亡くなった河鍋暁斎の菩提寺は、東京都台東区谷中にある瑞輪寺塔中・正行院(ずいりんじたっちゅう・しょうぎょういん)で、墓所は谷中瑞輪寺(やなかずいりんじ)にあります。
その墓は、蝦蟇(がま)型の墓石が目印です。カエルは河鍋暁斎が幼い頃から好んで描いていた題材で、カエルに似た自然石を使うようにとの遺言に従って仕立てられました。