皆さんは「大鏡」をご存知でしょうか?「名前は聞いたことがあるけれども、内容は知らない」という方も多いのではないかと思います。
そこで今回は「大鏡」について、わかりやすくご紹介したいと思います。
1.「大鏡」とは
「大鏡」(おおかがみ)は、平安時代後期の白河院政期に成立したとみられる「紀伝体」(*)の「歴史物語」(**)です。
(*)「紀伝体」とは「編年体」に対する言葉で、中国の歴史書の書き方のスタイルの一つです。「編年体」は「歴史的できごとを発生順に時間を追って書いていく記述スタイル」のことですが、「紀伝体」は、「歴史を、王の記録・諸侯国の歴史・個人の伝記などに分けて記述するスタイル」のことで、『史記』の作者で知られる司馬遷とその父が考え出したものです。
紀(本紀(ほんぎ))は年代記、伝(列伝(れつでん))は人物史のことです。
中国では『史記』以降、「正史」と呼ばれる公的な王朝史はすべて「紀伝体」で書かれました。
(**)「歴史物語」とは、「日本文学において、実際の歴史に基づいて物語風に書かれた作品」のことです。
仮名文で書かれていることが原則であり、漢文によって書かれた「史論書」とは区別されています。
歴史の流れに従っているため、物語を全て史実のように錯覚してしまうケースもありますが、作者による演出の挿入や作者が当時知っている範囲で書かれていることも多いために、作中のエピソードと史実が合致しない事例も有り得ます。なお「軍記物語」にも同様のことが言えます。
主な「歴史物語」には、「大鏡」のほか、「栄花物語」「今鏡」「水鏡」「増鏡」があります。「大鏡」「今鏡」「水鏡」「増鏡」を合わせて「四鏡(しきょう)」と呼びます。
(1)「大鏡」の概要
「大鏡」はいわゆる「四鏡」の最初の作品であり、内容的には2番目に古い時代を扱っています。非凡な歴史観がうかがえる問答体の書で、三巻本・六巻本・八巻本があります。
書名の「大鏡」とは、「歴史を明らかに映し出す優れた鏡」という意味です。古くは世継物語(よつぎものがたり)・世継の翁が物語(よつぎのおみながものがたり)・世継のかがみの巻(よつぎのかがみのまき)・摩訶大円鏡(まかだいえんきょう)などとも呼ばれており、作者の付けた書名は無かったものと考えられています。
(2)「大鏡」の内容
文徳天皇が即位した850年(嘉祥3年)から後一条天皇の1025年(万寿2年)に至るまで14代176年間の宮廷の歴史を、藤原北家、ことに道長の栄華を軸にして、大宅世継(190歳)と夏山繁樹(180歳)という長命な二人の老人が雲林院の菩提講で語り合い、それを若侍が批評するという対話形式で書かれています。
和語(大和言葉)に漢語・仏教用語を交えて書かれており、簡潔でありながら豊かな表現に富んでいます。
藤原兼通・兼家兄弟の権力争いや、藤原道兼が花山天皇を欺いて出家させる場面では、権力者の個性的な人物像が描写されています。そこには権力欲への皮肉・批判精神も垣間見えます。
1025年を現在時として叙述していますが、これは藤原道長の栄華の絶頂で擱筆(かくひつ)しようとした作者の作為で、実際は1025年以後40、50年から90年の間に成立したとみられます。
結末の後に「二の舞の翁の物語」などと呼ばれる後日譚が加えられていますが、この増補は「皇后宮大夫」が行ったものと記されていることから、これを行ったのは同時期に皇后宮大夫を務めていた源雅定、あるいはその前任者の藤原家忠であろうと推測されています。
作中大宅世継は、自分が生まれたのは清和天皇が譲位した年の1月15日だと言っています。
2.「大鏡」の作者は誰か?
作者は不詳ですが、「摂関家やその縁戚の村上源氏に近い男性官人」説が有力です。
藤原為業・藤原能信・藤原資国・源道方・源経信・源俊明・源俊房・源顕房・源雅定らの名が挙げられていますが、近年では「村上源氏の源顕房(*)とする説」がやや有力とみなされています。
(*)源顕房(みなもと の あきふさ)(1037年~1094年)は、平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏、右大臣・源師房の次男で母は藤原道長の娘(五女)・尊子。官位は従一位・右大臣、贈正一位。堀河天皇の外祖父。
後冷泉天皇の蔵人頭を5年経験し、25歳で参議。関白藤原頼通家との親しい関係のもと順調に昇進し、1083年(永保3年)兄俊房の左大臣と並んで右大臣になったことで「藤原氏にとって甚だ脅威」と言わしめました。
娘の賢子が藤原師実の養女として白河天皇に入り堀河天皇を生んだことで、その外祖父となり白河・堀河天皇時代(1072年~1107年)には兄を超え村上源氏の頂点に立ちました。
病死の報を聞いた堀河天皇は愁嘆のあまり食事に出てこなかったそうです。歌壇でも活躍。日記に『六条右府記』(若干の逸文)があります。
洛南の鳥羽離宮のそばに別荘を営みましたが、その地名「久我」(京都市伏見区)が後世、子孫(村上源氏の一流)の家名・久我家の由来となりました。
3.「大鏡」は何の目的で書かれたのか?
「平安時代後期」は、「源平合戦の時代」や「鎌倉時代」「戦国時代」などと比べて派手な合戦はなかったものの、藤原道長が栄耀栄華を極めるに至る歴史の激動期でもありました。
その栄枯盛衰を間近で見聞する立場にあった作者が、摂関家と天皇家との権力争いや摂関家どうしの政治闘争の渦中にあった人物から一定の距離を置いて、史実を公正な立場で冷静に見つめ記録に残しておきたいという願望が執筆の動機だったのではないかと私は思います。
ただし、藤原道長に好意的で、藤原伊周に冷淡なのは、母親が藤原道長の娘である源顕房が作者だとすれば、いくら「公正な立場」を取ろうとしても、どうしても「身びいき」になってしまうのは無理からぬことだと思います。
純然たる第三者で中立公正な立場であるべき新聞でも、「不偏不党はあり得ない」のが現実です。
「大鏡」自体が藤原道長の栄華を中心に描かれているため、結果的に道長の政敵となり、歴史的には敗者となった伊周が悪く書かれるのは、「勝者の歴史」(歴史は勝者によって作られる)の常で、仕方ないことかもしれません。
「大鏡」では歴史を叙述するにあたり、雲林院の菩提講聴聞(ぼだいこうちょうもん)に参詣した大宅世継(おおやけのよつぎ)、夏山繁樹(なつやまのしげき)、若侍(わかざむらい)の3人を登場させ、歴史はこれら3人の座談、問答によって語り進められ、作者は純粋な聞き手として、それを傍らで観察しながら記録する趣向になっています。
これは歴史の表裏明暗を多角的にとらえ、公正な歴史叙述の展開を意図したものです。その構成は、まず序があり、次に文徳天皇から後一条天皇までの14代の天皇について記した帝紀(ていき)、藤原冬嗣(ふゆつぐ)から道長までの摂関大臣の列伝(れつでん)、藤原氏の繁栄の跡を系譜的に総括した藤原氏の物語、最後に風流譚(たん)、神仙譚などを収めた昔物語が置かれていて、中国の『史記』などにみられる紀伝体ですが、これは、人間の動きを凝視し追跡することによって歴史が顕現すると考えた作者が、人間を多角的、立体的に把握できる有効な方法として採用したものです。
このような歴史叙述の方法を用いて、政治世界に生きる男たちの織り成す凄絶(せいぜつ)なドラマを、瑣末(さまつ)的な説明や描写を切り捨てた簡潔な文体によって、生彩ある筆致で描いています。
作者の透徹した歴史認識によって選択された事象は、多く説話を用いて語られていますが、それらの説話は、作者の豊かな想像力と創意によって形成され、変容されたもので、虚構や事実の錯誤や誇張による歪曲(わいきょく)などもあります。
しかし、それらは、事実性を拒絶した虚妄の話ではなく、事実を包摂した虚構の世界であり、それによって、善悪、正邪、美醜などのさまざまな矛盾をもったものとして人間を描き、歴史の本質に迫ることができました。
「大鏡」は歴史物語のなかでも傑出した作品で、その問答、座談形式は後代の歴史物語に大きな影響を与え、確かな史眼と鋭い批評精神は、鎌倉時代の慈円による史論書「愚管抄(ぐかんしょう)」などに継承されていきました。
4.「大鏡」はどのように流布したのか?
当時は印刷技術がなく、全て「写本」によって流布しました。
現存本は、写本として建久(けんきゅう)本、千葉本、池田本(いずれも欠けている巻のある零本(れいほん)。天理図書館蔵)、東松了枩(りょうしょう)氏蔵本、京大付属図書館蔵平松本、書陵部蔵桂宮(かつらのみや)本、蓬左(ほうさ)文庫本などがあり、刊本として古活字本、整版本などがあります。