前に「栄花物語」と「大鏡」という歴史物語についての記事を書きましたが、その後に現れた歴史物語に「今鏡」「水鏡」「増鏡」という「鏡」の付くものがあり、四つ合わせて「四鏡」と言います。
あとの三つの「鏡」の内容については、あまり知られていませんので、今回わかりやすくご紹介したいと思います。なお「大鏡」についても簡単にご紹介します。
1.「四鏡」とは
「四鏡(しきょう)」とは、平安時代後期から室町時代前期までに成立した「鏡物(かがみもの)」と呼ばれる「大鏡」・「今鏡」・「水鏡」・「増鏡」の4つの歴史物語(歴史書)のことです。
成立時期は上の順番ですが、取り扱っている時代は、「水鏡」・「大鏡」・「今鏡」・「増鏡」の順番です。
余談ですが、成立順だと【大根水増し】という覚え方があります。
(1)「妄語戒」の影響による体裁の共通点
いずれも「鏡」という名前を冠しており、また非常に高齢の老人が「昔はこんな事があったなぁ」という話を2人でしていたり、作者に対して語ったりするという形式を取っています。
これは初めに成立した「大鏡」の特徴を後の3つが踏襲しているものです。
共通点として、「ご老人から昔のことを聞いたので書き留めた」という体裁になっていますが、なぜ、こんな言い訳めいたことをわざわざ書いたのでしょうか?
その理由は、当時の仏教では「妄語戒(もうごかい)」(*)という戒めがあったからです。
(*)「妄語戒」(不妄語戒)とは仏教用語で、「五戒」(不殺生・不偸盗・不淫・不妄語・不飲酒)や「十戒」(不殺生・不偸盗・不淫・不妄語・不飲酒・不塗飾香鬘・不歌舞観聴・不坐高広大牀・不非時食・不蓄金銀宝)の一つで「嘘をついてはいけない」ということです。
当時は「フィクション=作り話=嘘だからダメ!」ということになっていました。
逆に言えば、どんなに嘘っぽい話でも、「人から聞いた話だから、たぶん事実だよ」とすれば書き残せましたし、批判を受けにくかったということでもあります。
去年(2022年)の流行語大賞にノミネートされた「知らんけど」のようなものですね。要するに「責任回避」です。
余談ですが、妄語戒がそのように解釈されていた時代には、「紫式部は作り話を書いたせいで地獄に堕ちた」という話も広く信じられていました。
(2)叙述の形式(「紀伝体」と「編年体」)による区分
「四鏡」は、叙述の形式によってさらに二分することができます。
「大鏡」「今鏡」が「紀伝体」、「水鏡」「増鏡」が「編年体」という特徴があります。
「紀伝体(きでんたい)」は、王族や貴族など一人一人の生涯を順に収録したもので、伝記の集合体のような形式です。「紀伝体」の代表例は「古事記」や「大日本史」などです。
もう一方の「編年体(へんねんたい)」は、起こった出来事を年代順に書くものです。歴史の教科書や物語に近い形式です。代表例としては「日本書紀」や「栄花物語」などがあります。
また、「増鏡」によれば他に「弥世継」(いやよつぎ)と言われる「鏡物」(世継とは「大鏡」の別称)が存在していたことが明記されており、「今鏡」以後「増鏡」以前の歴史を扱ったと見られていますが、今日では亡失しており見ることはできません。
なお、「四鏡」に数えられない「吾妻鏡(あづまかがみ)」(東鑑)「後鑑(のちかがみ)」などの鏡物もあります。
2.「大鏡」とは
「世継物語」(よつぎものがたり)、「世継の翁が物語」(よつぎのおみながものがたり)、「世継のかがみの巻」(よつぎのかがみのまき)、「摩訶大円鏡」(まかだいえんきょう)とも呼ばれます。
平安時代後期、白河上皇が院政をしていた12世紀初め頃に成立。6巻。
第55代・文徳天皇の即位から第68代・後一条天皇まで、14代176年の天皇と朝廷の歴史が描かれています。
「栄花物語」と同じく藤原道長の栄華と人物を主眼として描いています。
万寿2年(1025年)、雲林院で催された菩提講に参集した大宅世継(190歳)、夏山繁樹(180歳)とその妻及び若侍がそれぞれの見聞を語り、批評する座談の形式を採っています。
同年は道長の栄華が絶頂にあった時で、その時点を捉えて彼に代表される藤原氏の繁栄の歴史を描くとともに、裏面の政権争奪等を鋭く暴き出して、優れた貴族社会史となっています。
本書の影響を受け「今鏡」「水鏡」「増鏡」のいわゆる「鏡物」が書かれました。
書名の「鏡」は、「歴史を明らかに映し出す優れた鏡」という意味です。
作者は不詳ですが、「摂関家やその縁戚の村上源氏に近い男性官人」説が有力です。
藤原為業・藤原能信・藤原資国・源道方・源経信・源俊明・源俊房・源顕房・源雅定らの名が挙げられていますが、近年では村上源氏の源顕房とする説がやや有力とみなされています。
3.「今鏡」とは
「小鏡」(こかがみ)、「続世継」(しょくよつぎ)、「つくも髪の物語」とも呼ばれます。
平安時代末期、第80代・高倉天皇の在位中の嘉応2年(1170年)頃に成立。10巻。
内容は、第68代・後一条天皇の万寿2年(1025年)から第80代・高倉天皇(1170年)までの13代146年間の朝廷及び藤原、村上源氏両氏の歴史が主として描かれています。
はじめの3巻は帝紀、中の5巻は列伝、終わりの2巻は貴族社会の故実・逸話に割かれています。列伝のうち、巻四~六は藤原摂関家、巻七は村上源氏、巻八は親王です。
王朝末期から中世への過渡期において、政治的・社会的大変動があったにもかかわらず、政権争いなどの政治的出来事への関心は薄く、儀式典礼や風流韻事など学問・芸能に重点を置く記述を貫いています。
その一方で記述は歴史的事実に対して比較的忠実です。また、当時の物語に対する批判(「源氏物語」を書いた紫式部が妄語戒によって地獄に堕ちたとする風説)に老婆が反論する場面が盛り込まれるなど、仏教戒律を重んじて極楽往生を願うという当時の社会風潮が物語としての創作性を抑制したとする見方もあります。
これは長谷寺参りの途中で、「大鏡」に語り手として設定された「大宅世継」の孫で、かつては「あやめ」という名で紫式部に仕えたと称する150歳を超えた老女の昔語りを筆記したという体裁を採っているからかもしれません。
こちらもやはり作者はわかっていませんが、歌人として著名な藤原為経(*)ではないかという説が有力になってきています。
(*)藤原為経(ふじわら の ためつね)(1115年頃~没年不詳)(法名寂超(じゃくちょう)は、平安時代後期の僧侶・貴族・歌人です。藤原北家長良流、丹後守・藤原為忠の三男。
なお、描く年代が4番目の「増鏡」との間には13年間の空白があるのは、藤原隆信(寂超在俗の子)の著である歴史物語「弥世継」(いやよつぎ)(現存せず)がその時代を扱っていたためとされます。
また、巻十の「打聞」は和歌説話や「源氏物語」論等、余談めいたものですが、かえって注目されます。
4.「水鏡」とは
鎌倉時代の初期、1195年頃の成立。3巻。
神武天皇から仁明天皇まで57代の事跡を「編年体」で述べています。「大鏡」と異なり、本紀だけで皇族・大臣などの列伝はありません。
73歳の老婆が、長谷寺に参籠中の夜、修験者が現れ、不思議な体験を語るのを書き留めたという形式になっています。
「水鏡」独自の記事があるわけではなく、僧・皇円が著した「扶桑略記」(*)から抄出したものです。
(*)「扶桑略記」(ふそうりゃくき)は、平安時代の私撰歴史書です。総合的な日本仏教文化史であるとともに「六国史」(りっこくし)の抄本的役割を担って後世の識者に重宝されました。
寛治8年(1094年)以降の堀河天皇代に比叡山功徳院の僧・皇円が編纂したとされますが、異説もあります。全30巻よりなり、このうち巻二から六、巻二十から三十の計16巻と、巻一および巻七から十四の抄記が現存します。
内容は、神武天皇から堀河天皇の寛治8年(1094年)までの国史について、帝王系図の類を基礎に和漢年代記を書入れ、さらに六国史や「慈覚大師伝」などの僧伝・流記・寺院縁起など仏教関係の記事を中心に、漢文・編年体で記しています。
多くの典籍を引用していることは本書の特徴の一つですが、その大半が今日伝存せず、出典の明らかでない記事も当時の日記・記録によったと思われます。「水鏡」「愚管抄」など鎌倉時代の歴史書にもしばしば引用され、後世に大きな影響を与えました。
ただし、「水鏡」の序文には著者独自の歴史観が盛り込まれており、そこには特異性が認められます。
世の中をきはめしらぬはかたおもむきに今の世をそしる心の出でくるもかつは罪にも侍らむ。目の前の事をむかしに似ずとは世をしらぬ人の申す事なるべし。
意訳すると「人は『昔は良かった』と思いがちだが、それはその『昔』のことをよく知らないからであって、むやみに現在を批判するべきではない」となります。
作者については源雅頼説などもありますが、国書の伝存目録である『本朝書籍目録』仮名部に「水鏡三巻 中山内府抄」とみえることから、作者は中山忠親(*)説が有力です。
(*)中山忠親(なかやま ただちか)(1131年~1195年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿です。藤原北家師実流(花山院家)・藤原忠宗の三男。官位は正二位・内大臣。中山内大臣・堀河内大臣と号しました。中山家の始祖。
長寛2 年(1164 年)参議となり、以後、権中納言を経て寿永2年 (1183年) 年正二位権大納言。高倉天皇の中宮徳子 (平清盛の娘) の中宮権大夫、安徳天皇の皇太子時代の春宮大夫 (とうぐうたいふ) をも兼ね、一方では後白河法皇の院庁 (いんのちょう) の別当でもありました。
文治1元年(1185 年)源頼朝から議奏公卿に推されました。建久2 年(1191年)内大臣、同5年 に出家しています。朝廷の儀式や故実に詳しく、「貴嶺問答」があります。
日記「山槐記」は当時を知る好史料の一つで、歴史物語の一つ「水鏡」も彼の作といわれます。
彼の筆跡「神護寺四十五個条起請文」は有名です。晩年、中山 (黒谷の地) に別宅を構えたため中山内大臣と称されました。
5.「増鏡」とは
南北朝時代の1338年から1358年頃に成立した歴史物語です。いわゆる「四鏡」の一つで、成立順と内容の双方で最後に位置する作品です。
治承4年(1180年)の後鳥羽天皇誕生から、元弘3年/正慶2年(1333年)の「元弘の乱」で後醍醐天皇が鎌倉幕府に勝利するまでを描いています。
17巻本と19巻本(20巻本)があり、前者を「古本」、後者を「増補本」とするのが通説ですが、異論もあります。
作者は未詳ですが、北朝の廷臣であるものの南朝を開いた後醍醐天皇を敬愛し、文学と学問に精通し、和歌では二条派寄りの、羽林家または大臣家以上の家格の貴族と考えられています。
具体的には、二条良基(*)説が比較的有力であるものの確証はなく、その他には二条為明説や洞院公賢説などがあります。
(*)二条良基(にじょう よしもと)(1320年~1388年)は、南北朝時代の公卿、歌人であり連歌の大成者です。従一位。摂政、関白、太政大臣。二条家5代当主。最初の関白は在任13年間の長期にわたり、死の間際まで通算5度にわたって北朝4代の天皇の摂政・関白を務めました。
「弥世継」(現在亡失)を継承して、治承4年(1180年)の後鳥羽天皇の誕生から、「元弘の乱」で後醍醐天皇が隠岐に流され、その後、元弘3年(1333年)6月に京都に戻るまでの、15代150年の事跡を編年体で述べています。
嵯峨の清凉寺へ詣でた100歳の老尼が語る昔話を筆記した体裁をとっています。ただし、現存の本においては尼は最初の場面だけの登場になっていることから、当初は他の「四鏡」と同様に尼が登場する最後の場面が書かれた部分が存在していたとする説もあります。
「歴史物語」の形式はとっていますが、特定個人の宮廷生活の記録が混淆しており、典雅な文体で書かれています。
構成は全体が三部に分かれており、
- 第一部は後鳥羽院を中心に記しており、(おどろのした)から(藤衣)まで。
- 第二部は(三神山)から(千島)までで後嵯峨院を中心に記述。
- 第三部は(秋のみやま)から(月草の花)までで後醍醐天皇の即位から隠岐配流・親政回復までを記述。
この時代の和漢混淆文ではなく擬古文体で書かれているのも特徴です。
書名の由来は、序の部分に「愚かなる心や見えんます鏡」と老尼が詠んでおり、さらに筆者の「いまもまた昔をかけばます鏡 振りぬる代々の跡にかさねん」という歌からです。
「ます鏡」とは、第一義には、「真澄(ますみ)の鏡」の略であり、古語で「よく澄んだ鏡」という意味です。
国文学者の井上宗雄氏は、古を「今の鑑」(現代への手本)とする「今鏡」の訓戒の精神とは違い、「ます鏡」という題には、過去を偽りなく写す鏡であるという歴史的事実をありのままに記すことを重んじる精神が現れているのではないかとしています。
さらに、岡一男・山岸徳平・鈴木一雄各氏らによる、「大鏡・今鏡・水鏡のいわゆる三鏡にさらに一つを増す(付け加える)というダブルミーニングなのではないか」という説もあります。
なお、現在は普通「増鏡」と表記されますが、写本では「真寸鏡」「益鏡」「ますかゞみ」といった表記もあります。「源起記」という題を用いる写本もあります。