ホトトギス派の俳人(その16)杉田久女:虚子との確執で有名な悲運の女流俳人

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杉田久女

「ホトトギス派」の俳人と言えば、高浜虚子が代表格ですが、大正期には渡辺水巴(すいは)、村上鬼城(きじょう)、飯田蛇笏(だこつ)、前田普羅(ふら)、原石鼎(せきてい)が輩出しました。

昭和に入ると、山口誓子(せいし)・水原秋桜子(しゅうおうし)・阿波野青畝(あわのせいほ)・高野素十(たかのすじゅう)・山口青邨(せいそん)・富安風生(とみやすふうせい)を擁し、花鳥諷詠・写生俳句を提唱して『ホトトギス』の全盛期を形成しました。

特に山口誓子・水原秋桜子・阿波野青畝・高野素十は、「ホトトギスの四S」と称されます。

さらに中村草田男(くさたお)、川端茅舎(ぼうしゃ)、星野立子(たつこ)、中村汀女(ていじょ)ら新人を加えて、新興俳句の勃興にも伝統を堅持して揺るがず、俳壇の王座に君臨しました。

1951年、虚子は長男・高浜年尾(としお)に『ホトトギス』を継承させ、年尾没後の1979年からは年尾の二女・稲畑汀子(いなはたていこ)が受け継ぎました。

2013年(平成25)汀子の長男・稲畑廣太郎(こうたろう)が主宰を継承し、明治・大正・昭和・平成・令和の五代にわたる最古の俳誌としての歴史を誇っています。

これまでに14回にわたって、ホトトギス派の有名な俳人を(既に記事を書いている人を除いて)順番に詳しくご紹介してきましたが、最後に「久女伝説」と呼ばれる「高浜虚子との因縁の確執」があったことで有名な悲運の女流俳人の杉田久女をご紹介したいと思います。

1.杉田久女とは

杉田久女(すぎた ひさじょ)(1890年~1946年)は、鹿児島県出身のホトトギス派の女流俳人です。本名は杉田 久(すぎた ひさ)。高浜虚子に師事。

長谷川かな女、竹下しづの女とともに、近代俳句における最初期の女性俳人で、男性に劣らぬ格調の高さと華やかさのある句で知られました。家庭内の不和師である虚子との確執など、その悲劇的な人生はたびたび小説の素材になりました。

2.杉田久女の生涯

杉田久女は、大蔵省書記官・赤堀廉蔵と妻・さよの三女として鹿児島県鹿児島市で生まれました。

父の転勤に伴い、12歳になるまで沖縄県那覇市、台湾嘉義県、ついで台北市と移住して過ごしました。

1908年(明治41年)、東京女子高等師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・お茶の水女子大学附属高等学校)を卒業しました

1909年(明治42年)、旧制小倉中学(現・福岡県立小倉高等学校)の美術教師で画家の杉田宇内と結婚しました

夫・宇内は愛知県小原村(現・豊田市)で代々庄屋を務めた素封家の跡取りながら、東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業した人で、芸術家との結婚は、久女の憧れでした。画家で美術教師の夫の任地である福岡県小倉市(現・北九州市)に移りました。

1911年(明治44年)、長女の昌子が誕生(後の俳人石昌子。石一郎の妻)しました。

1916年(大正5年)次女の光子が誕生しました。この年、次兄で俳人の赤堀月蟾(げっせん)(渡辺水巴門下)が久女の家に寄宿し、この時に兄より俳句の手ほどきを受けました。

それまで久女は小説家を志していましたが、これをきっかけに『ホトトギス』に投句を始め、1917年(大正6年)ホトトギス1月号「台所雑詠」に初めて掲載されました。

この年5月に飯島みさ子邸での句会で初めて高浜虚子に出会いました。絵を描かなくなった夫との生活に失望する反面、虚子への崇敬を高めていき頭角を現すようになりました。

1920年(大正9年)、腎臓病を患い離婚話が持ち上がりましたが、夫の同意が得られず、家庭不和の一因となった俳句を一時中断しました。

このころ、当時の「北九州の文化サロン」とも言われた櫓山荘(ろざんそう)(現北九州市小倉北区中井浜)で、戦後の俳壇をリードすることとなる橋本多佳子(はしもと たかこ)(1899年~1963年)と出会い、俳句の手ほどきをすることとなりました。

1922年(大正11年)夫婦揃って洗礼を受けクリスチャンとなりました。

1931年(昭和6年)帝国風景院賞金賞20句に入選しました。

1932年(昭和7年)3月、女性だけの俳誌『花衣(はなごろも)』を創刊し主宰しますが、5号で廃刊となりました。同年10月、星野立子・本田あふひと共に女性初の『ホトトギス』同人となりました

久女は句集の出版を切望ており、虚子に序文を頼むために再三にわたって手紙を送り上京もしましたが黙殺されました

久女をモデルにした虚子の小説『国子の手紙』(1948年)には、次のような記述があります。

その女は沢山の手紙をのこして死んだ。その手紙は昭和九年から十四年まで六年間に二百三十通に達してゐる。

1936年(昭和11年)には理由不明のまま日野草城吉岡禅寺洞と共に「ホトトギス」同人を除名されました

日野、吉岡は当時盛んだった「新興俳句運動」の中で、虚子との対立が鮮明でしたが、久女の除名ははっきりとした理由がわからず、多くの俳人を驚かせました。久女が自らの句集刊行を切望し、句集刊行に向けた行動(後に「久女伝説」と言われるもの)にその理由があるのではないかともされます。

以後は句作に没頭できず鬱々とした日々を過ごし心身を衰弱させました。

1939年全句を書き出して自選を行い俳人としての人生を総括しました

1945年10月、太平洋戦争後の食料難により栄養障害を起こし福岡県立筑紫保養院に入院しました。

1946年(昭和21年)1月21日、栄養障害に起因した腎臓病の悪化により同病院にて55歳で死去しました。

愛知県西加茂郡小原村(現・豊田市松名町)にある杉田家墓地に葬られました。戒名は無憂院釈久欣妙恒大姉。切望していた句集の出版は生前にはかなわず死後に長女の石昌子によって『杉田久女句集』(1952年)などが刊行されました

1957年(昭和32年)長野県松本市の赤堀家墓地に分骨されました。ここに記された「久女の墓」の墓碑銘は長女・昌子の依頼で虚子が筆を取りました。

3.「久女伝説」とは

高浜虚子は『ホトトギス』1946年11月号において久女を「遂には常軌を逸するやうになり、所謂手がつけられぬ人になつて来た」と断定し、これは虚子による小説『国子の手紙』(1948年)の原型となりました

さらに1952年10月に角川書店から刊行された『杉田久女句集』の序文で、虚子は「其の時分の久女さんの行動にやや不可解なものがあり、私はたやすくそれに応じなかつた。此の事は久女さんの心を焦立たせてその精神分裂の度を早めた」と記しました。

俳壇の大御所であった虚子によるこれらの表現は、その後の「久女伝説」に決定的な影響を及ぼし、池上浩山人など俳壇関係者の間でも事実として受け入れられました。

『国子の手紙』を参照した文芸評論家の山本健吉は、1951年6月刊行の新書『現代俳句』上巻において、久女について「人と同ぜず、敵多く、功名心強く、性行常軌を逸し」「友人・親族・肉親にすら愛想をつかされ、孤独不遇のうちに死んだ。極度の神経衰弱であったと述べ、客観的な証拠もないままに、高浜虚子の記述が事実として理解されました。

高浜虚子がこのように久女を描いた理由について「久女<探索>」の著者の増田連は、『ホトトギス』から久女を除名したやましさに正当性を与えることにあった(久女が常軌を逸して手がつけられないから『ホトトギス』から除名したと言い繕うことが目的)と推測しています。

高浜虚子の記述はその後の久女に取材したフィクション作品にも影響を及ぼしました。

松本清張の小説『菊枕』(1953年『文藝春秋』)も、虚子の記述を真実として受け入れた形で、杉田久女をモデルにして描いています。

小説では、久女は色白で背が高い「ぬい」という女性として出てきます。虚子は宮萩栴堂(せんどう)という名で登場します。

清張は久女の句について次のように書いています。

ぬいの句は、華麗、奔放と称され、後年評家によると、《奔放な詩魂、縦横なる詩才を駆って光炎を放った。その句は一言をもっていえば、古代趣味であり、浪漫派であり、万葉趣味である》と。

そしてそして小説『菊枕』の最後には、次のように書いています。

・・・昭和3年か4年の秋であった。ぬいは布で作った嚢(ふくろ)をもってしきりと出歩いた。帰ってくると嚢の花でも干すと、凋んで縮まる。それを香りがぬけぬように別な布嚢に入れ、さらに花を摘んできては干した。何をするのだと圭助(夫)がきくと、「先生に差しあげる菊枕です」と言った。/その菊の花がいっぱい詰まった枕は長さ一尺二寸ばかりで、普通の枕の上に重ねて頭を載せるのだと説明した。

ぬいは昭和十九年、圭助につれられてある精神病院にはいった。はじめは、俳句を作らねばならぬなどと口走り、しきりと退院をせがんだが、その後は、終日、ひとりで口の中で何か呟いていた。ある日、圭助が面会に行くと、非常によろこび、「あなたに菊枕を作っておきました」と言って、布の嚢をさしだした。時は夏であったから、菊は変だと思い、圭助が内部を覗くと、朝顔の花が凋んでいっぱいはいっていた。看護婦がぬいにせがまれて摘んできたのである。

圭助は涙が出た。狂ってはじめて自分の胸にかえったのかと思った。

そのほか、吉屋信子の小説『底のぬけた柄杓-私のみなかった人「杉田久女」』(1963年『小説新潮』、『底のぬけた柄杓 憂愁の俳人たち』新潮社、1964年)でも題材とされました。

テレビドラマでは『山ほととぎすほしいまま』(1964年、RKB毎日放送「近鉄金曜劇場」、秋元松代作、渡辺美佐子主演)、『台所の聖女』(1988年、NHK、田辺聖子原作、樹木希林主演)などが制作されました。

高浜虚子の没後、増田連などにより進められた実証的研究では、『国子の手紙』をはじめ高浜虚子による久女関連の情報の真偽は疑問視されており、田辺聖子は評伝小説『花ごろもぬぐやまつわる・・・わが愛の杉田久女』(1987年)を発表し久女像の転換に大きく寄与しました。

現在では久女の実像を踏まえ、近代女性俳人の嚆矢としてその作品が評価されるようになっています。

なお、杉田久女の手紙に関しては、虚子自身が『国子の手紙』という小説の題材にしていますが、久女の娘たちの話によれば事実とは異なる「狂気の女」のように描かれています。

この小説は次のような書き出しで始まっています。

こゝに国子という女があった。その女は沢山の手紙を残して死んだ。(中略)国子はその頃の女子としては、教育を受けていた方であって、よこす手紙などは、所謂水茎の跡が麗しくて達筆であった。それに女流俳人のうちで優れた作家であるばかりでなく、男女を通じても立派な作家の一人であった。が、不幸にして遂にここに掲げる手紙の様な精神状態になって、その手紙も後には全く意味をなさない文字が乱雑に書き散らしてあるようになった。

ただ、次のような実際の彼女の手紙を読むと、序文をもらいたい必死さというか、追い詰められた絶望感が伝わって来て、彼女が哀れに感じられます。

先生のお子様に対する御慈愛深い御文章に接すると、あの冷たい先生にも、かかる暖かい一面がおありかとしみじみ感じます。老獪と評される先生にこの暖かい血がおあり遊ばすことを誠に嬉しく存じ上げました。(中略)先生ご自由にお突き落とし下さいまし。先生は老獪な王様ではありましょうが、芸術の神ではありませぬ。私は久遠の芸術の神へ額づきます。(中略)ただせめて句集一巻だけを得たいと存じます。どんなに一心に句を励んでも、一生俳人として存在するさへ許されぬ私です。句集出版のことはもう後へ引くことは出来ません。先生のご序文を頂戴いたしたく存じます。

4.杉田久女の句風

ごく初期には女性の視点から日常生活の些事を観察したいわゆる「台所俳句」を詠みましたが、やがて句柄の大きい、万葉調ともいえる浪漫的な句風に到達。虚子は死後編まれた『杉田久女句集』の序で、その作風を「清艶高華」と表現しました

「足袋つぐや ノラともならず 教師妻」は、イプセンの『人形の家』を踏まえた句です(ノラはヒロインの名)。「ダイヤを捨て、馬車を捨て、芸術家の夫に嫁したが、一枚の画も描かず、田舎教師に堕してしまった」(橋本多佳子「久女のこと」)というのが久女の日ごろの嘆きでしたが、かといってノラのように家を出ることもできない自分の境涯を顧みての句です

「花衣 ぬぐやまつはる 紐いろいろ」は、虚子に「女の句として男子の模倣を許さぬ特別の位置」にあると賞賛された初期の代表作です

「谺して 山ほととぎす ほしいまゝ」の句は風景院賞金賞の入選作で、英彦山に何度も登りようやく「ほしいまゝ」の座五を得たということです

「ホトトギス」除名後は「虚子ぎらひかな女嫌ひのひとへ帯」のような句も作りましたが、終生虚子を慕い「ホトトギス」への投句を続けました。

俳句のほかにも豊かな文学的教養に裏打ちされた随筆、小説、女性俳人研究なども残しており、これらも死後に長女によって刊行されています。

5.杉田久女の俳句

花衣

<春の句>

・花衣(はなごろも) ぬぐやまつはる 紐いろいろ

・花大根に 蝶漆黒の 翅をあげて

・蝶追うて 春山深く 迷ひけり

・むれ落ちて 楊貴妃桜(ようきひざくら) 尚あせず

・風に落つ 楊貴妃桜 房のまま

・入学児に 鼻紙(はながみ)折りて 持たせけり

・ぬかづけば われも善女(ぜんにょ)や 仏生会(ぶっしょうえ)

・無憂華(むゆうげ)の 木蔭はいづこ 仏生会

雛市(ひないち)に 見とれて母に おくれがち

・蒸し寿司の たのしきまどゐ 始まれり

・鳥雲に われは明日たつ 筑紫かな

・仰ぎ見る 吾に鈴懸(すずかけ) 恵むなり

・芥子(けし)蒔(ま)くや 風に乾きし 洗髪

・防人(さきもり)の 妻恋ふ歌や 磯菜つむ

・姉ゐねば おとなしき子や しやぼん玉

<夏の句>

・谺(こだま)して 山ほととぎす ほしいまま

・月の輪を ゆり去る船や 夜半(よわ)の夏

・かくらんに 町医ひた待つ 草家(くさや)かな

・新茶汲むや 終りの雫 汲みわけて

・仰ぎ見る 樹齢いくばくぞ 栃の花

・青づたや 露台支へて 丸柱

・ゐもり釣る 童の群に 我もゐて

・羅(うすもの)に 衣通(そとお)る月の 肌(すはだ)かな

・縁側に 夏座布団を すゝめけり

・落ち杏(あんず) 踏みつぶすべく いらだてり

・傘にすけて 擦(す)り行く雨の 若葉かな

・仮名かきうみし 子にそらまめを むかせけり

・忌(き)に寄りし 身より皆知らず 洗ひ鯉

・コレラ怖(お)じ 蚊帳吊りて喰ふ 昼餉(ひるげ)かな

・石南花(しゃくなげ)に よき墨とゞき 機嫌よし

<秋の句>

・紫陽花に 秋冷いたる 信濃かな

・朝顔や 濁り初(そ)めたる 市の空

・白萩の 雨をこぼして 束ねけり

・よそに鳴る 夜長の時計 数へけり

・砂糖黍(さとうきび) かじりし頃の 童女髪

・秋の夜や あまへ泣き居る どこかの子

・白妙の 菊の枕を ぬひ上げし

・ぬひ上げて 菊の枕の かほるなり

・秋来(き)ぬと サファイア色の 小鯵(こあじ)買ふ

・雨つよし 弁慶草(べんけいそう)も 土に伏し

・うそ寒や 黒髪へりて 枕ぐせ

・葉鶏頭(かまつか)の いただき躍る 驟雨(しゅうう)かな

・書肆(しょし)の灯に そぞろ読む書も 秋めけり

<冬の句>

・足袋つぐや ノラともならず 教師妻

・鶴舞ふや 日は金色の 雲を得て

・冬の朝 道々こぼす 手桶の水

・寸分の 隙間うかがふ 隙間風

・わが歩む 落葉の音の あるばかり

・鯛を料る 俎(まないた)せまき 師走かな

・山茶花(さざんか)の 紅つきまぜよ 亥の子餅(いのこもち)

・節分の 宵の小門(こもん)を くゞりけり

・身にまとふ 黒きショールも 古(ふ)りにけり

・雪道や 降誕祭の 窓明かり

・な泣きそと 拭(ぬぐ)えばひびや 吾子(あこ)の頬

<新年の句>

・書初(かきぞめ)や うるしの如き 大硯

・唇を なめ消す紅や 初鏡(はつかがみ)

・娘(こ)にゆづる 櫛笄(くしこうがい)や 花の春

・松とれし 町の雨きて 初句会

・御手洗(みたらし)の 杓(しゃく)の柄(え)青し 初詣