ホトトギス派以外の俳人(その2)西東三鬼:モダンな感性を持つ俳句で新興俳句運動を推進

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西東三鬼

高浜虚子渡辺水巴村上鬼城飯田蛇笏前田普羅原石鼎水原秋桜子阿波野青畝山口誓子高野素十山口青邨富安風生川端茅舎星野立子高浜年尾稲畑汀子松本たかし杉田久女中村汀女などの「ホトトギス派の俳人」については、前に記事を書きました。

このように俳句の世界では、「有季定型」「花鳥諷詠」「客観写生」を旨とする「ホトトギス派」が伝統的に一大勢力となっており、上記のように有名な俳人が多数います。

しかし、最初ホトトギス派に所属したものの後にホトトギス派を離脱した「元ホトトギス派」をはじめ、ホトトギス派に反発した「反ホトトギス派」、独自の道を歩んだ「非ホトトギス派」の俳人もいます。

そこで今回から、このような「ホトトギス派以外の俳人」を順次ご紹介していきたいと思います。俳句に興味をお持ちの方なら、名前を聞いたことのある俳人が必ず何人かいるはずです。

なお、日野草城加藤楸邨・中村草田男河東碧梧桐荻原井泉水種田山頭火尾崎放哉などの「ホトトギス派以外の俳人」については、前に記事を書いていますので、それぞれの記事をぜひご覧ください。

1.西東三鬼とは

西東三鬼(さいとう さんき)(1900年~1962年)は、岡山県出身の俳人で歯科医でもあります。本名・斎藤敬直(さいとう けいちょく)。 歯科医として勤める傍ら30代で俳句をはじめ、伝統俳句から離れたモダンな感性を持つ俳句で「新興俳句運動の中心人物の一人として活躍しました。戦後は「天狼」「雷光」などに参加し「断崖」を主宰しました。

2.西東三鬼の生涯

西東三鬼は、岡山県苫田郡津山町大字南新座(現在の津山市南新座)に、父・敬止、母・登勢の四男として生まれました。家は代々漢学者の家系です。

1906年に父が死しし、以後長兄の扶養を受けました。高等小学校時代は条虫にかかり虚弱でした。1918年には当時大流行したスペイン風邪で母が死去し、東京の長兄のもとへ移住しました。

岡山津山中学校(現岡山県立津山高等学校)、青山学院中等部を卒業を経て、同高等部を中退しました。

1921年、日本歯科医学専門学校(現日本歯科大学)に進学し、1925年、同校を卒業しました。同年秋に結婚し、長兄在勤のシンガポールに渡り歯科医を開業しました。

1928年、不況による反日運動の高まりと自身のチフス罹患のため帰国し、東京の大森で歯科医院を開業しました。

1932年、埼玉の朝霞綜合診療所歯科部長に就任し、自営を廃業しました。1933年には、東京の神田共立病院歯科部長に就任しました。

1933年、歯科医師業のかたわら、外来の患者の誘いにより俳句を始めました。「三鬼」の号はこの時に即座のでたらめで作ったそうです。(「サンキュー」のもじりだとする説もあります)

同年、三谷昭らによって創刊されたばかりの新興俳句系の俳誌「走馬燈」に投句し、翌年1月に早くも同人に推され自選欄での発表を始めましたが、1936年までは平行して「青嶺」「天の川」「ホトトギス」「馬酔木」「京大俳句」など各誌に投句しています。

これらの投句先は新興俳句系・伝統系さまざまであり、三鬼が特定の師につく考えがなかったことがわかります

1934年末、新興俳句系各誌の連絡機関として「新俳話会」を設立しましたが、のちに発展的に解消し「十士会」となりました。

1935年3月、同人誌「扉」を創刊しました。4月、平畑静塔の招請で三谷昭らとともに「京大俳句に参加しました。以後同誌を主な活動の場とし新興俳句運動の中心的な存在の一人となりました

1937年無季俳句の制作に没頭、特に戦争を主題とした句を多く作りました。

1938年、胸部疾患を再発、腰部カリエスを併発し一時危篤に陥りましたが、奇跡的に回復しました。これを期に歯科医業を辞め、シンガポール時代からの知り合いを頼り小貿易商社の社員となりました。

1940年3月、「十士会」を母体として「天香」を創刊しました。8月、いわゆる「京大俳句事件」に連座して検挙され、執筆活動停止を命じられましたが起訴猶予となりました。

以後、戦後まで5年間句作を中止しました。1942年、商社を退社し、妻子を東京に置いて単身で神戸に移住しました。翌年、のちに「三鬼館」と呼ばれることになる西洋館(生田区山本通)に住まいを移しました。

1946年、栗林一石路、橋本夢道、石橋辰之助、日野草城、秋元不死男ら「京大俳句事件」(*)および「新興俳句弾圧事件」の関係者らが結成した「新俳句人連盟」に1947年6月1日入会、その日は第二回総会の席でした。

(*)1933年に創刊された「京大俳句」は「作風と批判の自由」を標榜しました。しかし、戦意高揚の俳句作成や使う季語すら国から推奨される時代に、厭戦や反戦の俳句を次々と掲載したことから特高から睨まれるようになり、一連の事件で少なくとも44名が検挙され、そのうち13名が懲役刑を受けました。

三鬼は席上、「日本民主主義文化連盟」からの脱退を動議しましたが、総会は15対14白票1となり、三鬼の動議は否決されました。入会当日に三鬼は連盟を脱退、富澤赤黄男らも三鬼に続くという分裂騒動を引き起こしました。

脱退翌年の1947年、石田波郷、神田秀夫と「現代俳句協会」を設立しました。この頃山口誓子の疎開原稿句集『激浪』に感銘を受けて誓子に近づき、1948年に誓子を擁して「天狼」を創刊しました。

また鈴木六林男らの同人誌「雷光」に招聘され指導者として参加しました。12月、平畑静塔の世話で大阪女子医科大学附属香里病院(現関西医科大学香里病院)歯科部長に就任、2月に移っていた兵庫県加古郡別府町から大阪府北河内郡寝屋川町に移住しました。

1952年、「断崖」を創刊、主宰しました。 1956年、香里病院を辞し神奈川県三浦郡葉山町に移住、角川源義の斡旋で角川書店の総合誌『俳句』編集長に就任しました。

翌年に辞職し俳人専業となりました。

1961年、胃癌を発病しました。年末には「俳人協会」の設立に参加しました。

1962年4月1日、自宅にて61歳で死去しました。角川書店本社楼上にて初の俳壇葬が営まれました。墓所は津山市の天法輪山成道寺。没後に第2回俳人協会賞が贈られました。

1992年、故郷津山市で三鬼の業績を記念し「西東三鬼賞」が創設されました。

3.西東三鬼の句風

異国でのボヘミアン的な生活を経て、遅れて30代で俳句の世界に身を投じたことから、従来の俳句的伝統の束縛を受けず自由な発想の句を多く作りました。句材も基地や地下街、空港、異人といった新鮮な題材を好んでとりあげています。

三鬼自身、ダンス、乗馬、ゴルフ、ギター、マンドリン、油絵などをよくし、口髭とベレー帽がトレードマークでした。

五木寛之は「ヨーロッパの一神教的な発想からはとらえれられない混沌としたアジア的人間」と三鬼を評しています。句法的にも伝統俳句の発想を嫌い、切れ字をあまり用いず直叙的な句が多いのが特徴です。

戦時中は出征経験を持たないまま戦争を詠むいわゆる「戦火想望俳句」の連作を作り、新興俳句の一環として戦争を題材とした無季句の制作を推進しましたが、戦後は有季を基本とした作風に戻りました。

「神戸」「続神戸」「俳愚伝」などの自伝的散文も残しており、『冬の桃』というタイトルで小林桂樹主演でNHKテレビでドラマ化されました(早坂暁脚本、全7回 1977年)。

4.西東三鬼の俳句

西東三鬼

<春の句>

・薄氷(うすらい)の 裏を舐めては 金魚沈む

・春園(しゅんえん)の ホースむくむく 水通す

・頭悪き 日やげんげ田に 牛暴れ

・野遊びの 皆伏し彼等 兵たりき

・仰ぎ飲む ラムネが天露 さくら散る

・春を病み 松の根つ子も 見あきたり

<夏の句>

・おそるべき 君等の乳房 夏来(きた)る

・岩に爪 たてて空蝉(うつせみ) 泥まみれ

・炎天の 犬捕り低く 唄ひ出す

・晩婚の 友や氷菓を したたらし

・生創(なまきず)に 蠅を集めて 馬帰る

・女立たせて ゆまるや赤き 旱星(ひでりぼし)

・暗く暑く 大群衆と 花火待つ

・九十九里 浜に白靴 提げて立つ

・胸毛の渦 ラムネの瓶に 玉躍る

・モナリザに 仮死いつまでも こがね虫

・黒みつつ 充実しつつ 向日葵立つ

・穀象(こくぞう)の 群を天より 見るごとく

・父のごとき 夏雲立てり 津山なり

・ひげを剃り 百足虫(むかで)を殺し 外出す

・蝮(まむし)の子 頭くだかれ 尾で怒る

・美事なる 蚤(のみ)の跳躍 わが家にあり

・昇降機 しづかに雷の 夜を昇る

・算術の 少年しのび 泣けり夏

・朝すでに 砂にのたうつ 蚯蚓(みみず)またぐ

<秋の句>

・中年や 遠くみのれる 夜の桃

・倒れたる 案山子(かかし)の顔の 上に

・枝豆の 真白き塩に 愁眉(しゅうび)ひらく

露人ワシコフ 叫びて石榴(ざくろ) 打ち落す

・梯子(はしご)あり 台風の目の 青空へ

・秋の夜の 漫才消えて 拍手消ゆ

・秋の暮 大魚(たいぎょ)の骨を 海が引く

・飢ゑてみな 親しや野分(のわき) 遠くより

<冬の句>

・水枕(みずまくら) ガバリと寒い 海がある

・中年や 独語おどろく 冬の坂

・落葉して 木々りんりんと 新しや

・わが天使 なりやをののく 寒雀(かんすずめ)

・クリスマス 馬小屋ありて 馬が住む

・大寒や 転びて諸手(もろて) つく悲しさ

・柔肌(やわはだ)の ホットケーキに ふとなごむ

・限りなく 降る雪何を もたらすや

・ばら色の ままに富士凍て 草城忌

<新年の句>

・鏡餅 暗きところに 割れて坐す

・一波(ひとなみ)に 消ゆる書初め(かきぞめ) 砂浜に

・傍観す 女手に鏡餅割るを

<無季>

・広島や 卵食ふ時 口ひらく

・白馬を 少女瀆れて 下りにけむ