<東海道五拾三次ノ内 掛川 日本左衛門>(歌川国貞 筆)
「日本左衛門」と言えば、私のような団塊世代以上の年配者には「石川五右衛門」や「鼠小僧」と並んで時代劇でもおなじみの盗賊で、「義賊」としても有名ですが、若い方はどうなのでしょうか?
日本左衛門も石川五右衛門も鼠小僧も、架空の人物ではなく、実在の盗賊です。しかし芝居による脚色もあって、虚像と実像が綯(な)い交(ま)ぜになっています。
そこで今回は日本左衛門の虚像と実像について、わかりやすくご紹介したいと思います。
1.日本左衛門とは
日本左衛門(にっぽん ざえもん)(1719年~1747年)は、江戸時代中期の浪人の異名。本名は濱島庄兵衛と言い、諸国を荒らした盗賊(強盗団)の一味の首領で、後に自首して獄門となりました。歌舞伎の白波五人男の一人である日本駄右衛門のモデルです。
「知らざぁ言ってきかせやしょう。浜の真砂と五右衛門が、歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ヶ浜、…名さえ由縁の弁天小僧菊之助たぁ、おれがことだ」。
これは、歌舞伎『青砥稿花紅彩画(白浪五人男)』浜松屋での弁天小僧の名セリフです。
5人の盗賊衆が七五調で名乗りをあげる次幕「稲瀬川勢揃」で、大親分日本駄衛門は「問われて名乗るもおこがましいが、生まれは遠州浜松在、十四の年から親に放れ、身の生業も白浪の、沖を超えたる夜働き、盗みはすれども非道はせじ、人に情けを掛川から、金谷をかけて宿々で、義賊と噂高札に…」と大見栄を切ります。
文久2年(1862年)、江戸市村座初演で大当たりし、現在も上演されるこの芝居。弁天小僧は架空の人物といわれますが、統領の日本駄衛門は、実在の人物である日本左衛門をモデルに描かれました。
2.日本左衛門の生涯
日本左衛門(濱島庄兵衛)は、尾張藩の七里役(しちりやく)の子として生まれました。若い頃から放蕩を繰り返し、やがて200名ほどの盗賊団の頭目となって遠江国を本拠とし、東海道沿いの諸国を荒らしまわったとされます。
七里役とは、七里(約28km)ごとに「七里役所」という中継所を置いた公用急飛脚のことです。
東海道の重要交通路を管轄した尾張藩などは、このような下級武士・七里役を、七里飛脚として宿場に2名、常時配置しており、藩の御状箱などの緊急伝達が発生すると、運ばせました。
藩の文書を運ぶという重要な役割を担っていたため、3人まで切り捨て御免が許されていることもあり、滞在していた宿場では、わがまま放題で、村人を困らせていたようです。
仕事も毎日ある訳ではないので、七里役の武士の中には、無宿者などを集めて「賭博場」を仕切る藩士も多かったとされます。
子供の頃から、そんな七里小屋に出入りしていた彼も、自然と悪だくみを覚え、今で言う「不良」になったようで、20歳のときに父から勘当されました。
こうして、彼は無宿者になると、23歳頃から、遠州・見附宿(静岡県磐田市見付)に根付いて、盗賊となります。
最大時には、200名の子分を従える盗賊団の頭目となり、裕福な商人や大地主から合計で約2600両を盗むという横暴を極めました。
見附宿は、天竜川の渡河もある重要な交通路で、江戸幕府の天領であったため、幕府も彼の取り締まりに動き出します。
1746年9月、被害にあった駿河の庄屋が、江戸北町奉行・能勢頼一に訴えました。
そして、老中・堀田正亮の命により、火付盗賊改めの役人・徳山五兵衛が、一味の追捕を命じられて、10月には、彼の人相書きを準備し、日本全国に指名手配しました。
指名手配の内容は下記のとおりです。
背は175㎝くらい、150㎝くらいの小袖を着て、歳は29歳 見かけは31歳、32歳に見える。
月代が濃く、5㎝くらいの引き傷があり、色白で歯並びは普通、鼻筋が通り、目は切れ長で細く、顔は面長。 自分からは手を下さず、黒皮の兜頭巾に薄金の面頬、黒羅紗、金筋入りの半纏(はんてん)に黒縮緬の小袖を着、黒繻子(しゅす)の小手、脛(すね)当てをつけ、銀造りの太刀を佩き、手には神棒という6尺余りの棒を持ち、腰に早縄をさげた出立ち。
本来、手配書は、親殺し・主殺しの重罪に限られて使われましたが、盗賊としては日本初の手配書となりました。
これにより盗賊団の幹部数名が捕縛されましたが、日本左衛門は逃亡しました。日本左衛門は伊勢国古市などで自分の手配書が出回っているという噂を聞き遠国への逃亡を図りましたが、安芸国宮島で自分の手配書を目にし逃げ切れないと観念しました。
延享4年(1747年)1月7日に京都にて京都町奉行永井丹波守尚方(あるいは大坂にて大坂町奉行牧野信貞)に自首し、江戸に送られ、北町奉行能勢頼一によって小伝馬町の牢に繋がれました。
刑罰は市中引き回しの上、獄門であり、同牢獄にて3月11日(14日とも)に徒党の中村左膳ら6名と共に処刑され、首は遠江国見附に晒されました。なお、処刑の場所は遠州鈴ヶ森(三本松)刑場とも江戸伝馬町刑場とも言われます。享年29。
遠州見附(金谷)の見性寺に、墓がありますが、晒された首を日本左衛門の愛人・三好ゆきが盗み出し、遠州金谷宿の宅円庵に埋葬したとされ、宅円庵に首塚がある次第です。
徒党を組んで美濃・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・近江・伊勢の八カ国で犯行(主に押し込み強盗)を重ね、諸説ありますが、確認されている被害は14件・2622両、あるいは14件・2627両余りと記す史料もあります。
その容貌については、175cmほどの当時としては長身の精悍な美丈夫で、鼻筋が通って色白で、顔に5cmほどもある切り傷があり、常に首を右に傾ける癖があったと伝わっています。
肥前平戸藩主松浦静山の随筆「甲子夜話(かっしやわ)」にも、日本左衛門の話が収録されています。
後に歌舞伎・青砥稿花紅彩画(あおとぞうし はなの にしきえ)で義賊「日本駄右衛門」として脚色されたほか、白浪物(しらなみもの)などで様々に取り上げられたため、その人物像、評価については輪郭が定かではありません。
3.日本左衛門の人物像
(1)伝説の人物像
『浜島竹枝記』という本では、日本左衛門の人物像について、「日本左衛門と申す者は、悪党大勢の棟梁と申しながら、知恵深く、威勢強く、力業、剣術早業の達者にて常に大小を指し…大勢の者をよく手なずけ…武家の方も恐れず、昼夜はいかい仕候」と述べています。
また『窓のすさみ』という書物によれば、率いる強盗の人数は「従う者五、六百」と記されており、大袈裟だとしてもその勢力の大きさを示しています。
また『甲子夜話』(肥前平戸藩主松浦静山著)には、「この人、盗みせし初念は、不義にして富める者の財物は、盗み取るとも咎めなき理なれば、苦しからずと心に掟して、その人その家をはかりて、盗み入りしとぞ」とあり、日本左衛門は、「箱を砕いて包みから、難儀な者に施し」「盗みはすれど非道はせず」などの盗みの哲学を手下に説いたとされています。
寛保3年(1743年)、駿府の夜の町で役人と斬り合いになり、手下に命じて役人を縛り上げると、「役目がらとはいえ、命を捨てて闘うとは健気である」と大親分らしく悠然と姿を消したというエピソードも残され、大掛かりで派手な義賊の姿は伝えられるごとに脚色され「恰好良い大泥棒」になっていきます。
しかし、三右衛門の訴状によると、娘の婚家に日本左衛門一味40名が押し入り、金千両、衣類60点を盗まれた上、嫁や下女たちまでが狼藉されたとあることから、実像はかなり荒っぽい盗賊だったようです。
また、日本左衛門の姿について、指名手配の人相書きから窺うことができますが、たいそう豪快な男が浮かんできます。
身の丈五尺八、九寸(身長175cm位)、年は29歳程、鼻筋が通って色白、面長、頭に5cmほどの傷あり。 また、自分からは手を下さず、黒皮の兜頭巾に薄金の面頬、黒羅紗、金筋入りの半纏(はんてん)に黒縮緬の小袖を着、黒繻子(しゅす)の小手、脛(すね)当てをつけ、銀造りの太刀を佩き、手には神棒という六尺余りの棒を持ち、腰に早縄をさげた出立ち…といいますから、相当派手な強盗の親分です。芝居に登場するのも当然でしょう。
(2)盗みの手口
日本左衛門一味の強奪の手口は、記録によるとかなり大掛かりなもので「盗みに入るときには、周辺の家に見張りをたて、道筋には番人を配置して押し入り、支配者の異なる旗本知行地を転々と逃走する」と記録にあります。
「いつも若党や草履取を連れ歩き、押込む時には50~60人余りを使い、提灯30張を灯し、近所の家の門口には抜刀を持った子分が5、6人ずつ見張りに立つ。押し入ると家族を縛り上げ、金の置き場所を案内させて強奪する」と『浜島竹枝記』に記されています。
延享3年(1746年)には掛川藩領の大池村や駿河府中の民家に押し入り、二千両を奪ったといい、芝居『白浪五人男』浜松屋の場も、駿府の呉服屋「唐金屋」で起こった日本左衛門一味の巧妙な詐欺を描いた話であるともいわれます。
また、東海道金谷の石畳上り口にある庚申塔は、夜盗に出る前に身支度をした所であるという伝承もあります。「見ざる、言わざる、聞かざる」の庚申さんと、夜盗に出る日本左衛門の組み合わせとは、いかにも洒落がきいたエピソードです。
(3)義賊贔屓
日本左衛門が盗賊を働いていたのは八代将軍吉宗の時代で、幕府の窮状を救うため享保の改革が進められたころです。
庶民は倹約と重税に息苦しい生活を余儀なくされていました。そこに日本左衛門のような盗賊が出現して、江戸から来た侍たちが大捕り物を繰り広げたら庶民の間で義賊像がふくらんでもおかしくありません。
役人や権力者を翻弄して逃げ来る怪盗に江戸庶民は拍手を送りました。反権力のヒーローを求める心理が、盗賊を義賊にまつりあげていったのです。
そして事件から120年後、白浪狂言の名人河竹黙阿称作『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』(演目では『白浪五人男』)が庶民にもてはやされました。
延享4年(1747年)3月、日本左衛門は遠州見附で処刑され、首は見附の三本松の仕置き場にさらされました。その首を愛人が盗み出し、金谷宿川会所跡の南にある宅円庵に葬ったといわれ、今も日本左衛門の墓と「月の出るあたりは弥陀の浄土かな」の句碑があります。
4.日本左衛門にまつわる史跡やその他の逸話
・現在に残る日本左衛門の史跡として、東京都墨田区・徳之山稲荷神社に日本左衛門首洗い井戸の碑があり、ほかにも遠州見附・見性寺に墓があり、遠州金谷宿・宅円庵には首塚があります。
首塚には斬首の後に晒された首を日本左衛門の愛人が盗み出し、宅円庵で弔ったと言う言い伝えがあります。首塚の脇にはその旨が記された看板があります。
・随筆『耳嚢(みみぶくろ)』(*)巻之一によると、日本左衛門の処刑後、その子分の1人である山伏の逃亡話が記述されており、棒術を用い、相当な手だれであったが、機知を働かせた大阪の町同心によって捕縛されたとあります。
(*)江戸時代中期から後期にかけての旗本・南町奉行の根岸鎮衛(1737年~1815年)が、佐渡奉行時代(1784年~87年)に筆を起こし、死の前年の文化11年(1814)まで、約30年にわたって書きためた全10巻の雑話集
・領内を荒され、しかも捕縛できなかった遠江国掛川藩主小笠原長恭(1740年~1776年は、奥州棚倉へ転封となりました。棚倉は懲罰的転封先として知られています。また、相良藩主本多忠如(1711年~1773年も「盗賊取り締まり等閑」の咎で奥州泉藩へ転封となりました。