忠臣蔵の四十七士銘々伝(その17)木村岡右衛門貞行は辞世の漢詩を兜の裏に縫い付けて討入り

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木村岡右衛門

「忠臣蔵」と言えば、日本人に最も馴染みが深く、かつ最も人気のあるお芝居です。

どんなに芝居人気が落ち込んだ時期でも、「忠臣蔵」(仮名手本忠臣蔵)をやれば必ず大入り満員になるという「当たり狂言」です。上演すれば必ず大入りになることから「芝居の独参湯(どくじんとう)(*)」とも呼ばれます。

(*)「独参湯」とは、人参の一種 を煎じてつくる気付け薬のことです 。転じて( 独参湯がよく効くところから) 歌舞伎で、いつ演じてもよく当たる狂言のことで、 普通「 仮名手本忠臣蔵 」を指します。

ところで、私も「忠臣蔵」が大好きで、以前にも「忠臣蔵」にまつわる次のような記事を書いています。

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しかし、上に挙げた有名な人物以外にも「赤穂義士(赤穂浪士)」は大勢います。

そこで今回からシリーズで、その他の赤穂義士(赤穂浪士)についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.木村岡右衛門貞行とは

木村岡右衛門貞行

木村貞行(きむら さだゆき)(1658年~1703年)は、赤穂浪士四十七士の一人で、通称は岡右衛門(おかえもん)です。変名は石田左膳。

家紋:丸に違い丁字

2.木村岡右衛門貞行の生涯

万治元年(1658年)、赤穂藩浅野家の譜代家臣・木村惣兵衛の子として赤穂にて生まれました。母は大岡次左衛門(赤穂浅野家家臣)の娘です。

弟に木村源右衛門(幕府旗本真田蔵人の家臣)、姉と妹も1人ずついました。

天和3年(1683年)に父・惣兵衛が死去しましたが、貞行が家督を継いだのはこの数年前と見られます。

赤穂藩内では馬廻り役兼絵図奉行職にあり、150石取りでした。また、学問に熱心小川茂助から陽明学を学びました。同じ赤穂浅野家家臣の牧太郎左衛門の娘を妻に迎え、その間に二男二女を儲けました。

元禄14年(1701年)3月14日に主君・浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだ際には赤穂にありました。

はじめ大石良雄に神文血判書は提出せず、盟約には加わりませんでしたが、赤穂城開城業務には絵図奉行として潮田又之丞高教と共に参加し、残務処理終了後は加東郡に移り住みました

慎重派であったらしく、第一次、第二次の仇討ち殉死の義盟には加わりませんでしたが、元禄15年(1702年)1月になってようやく山科の大石に神文血判書を提出しました。

またこの頃に妻子を大阪へ移し、長男・木村惣十郎は仏門に入れています。9月25日に江戸へ下向。按摩の石田左膳と名乗って本所林町の堀部安兵衛武庸の借家に住みました。

吉良邸討ち入り時の際には裏門隊に属しました。武林隆重が吉良義央を斬殺、間光興がその首をあげた後、伊予松山藩主松平定直邸に預けられました。

松平家では木村ら赤穂義士を罪人として厳しく扱った記録が残っています。

元禄16年(1703年)2月4日、預かり義士全員へ切腹が命じられ、同家家臣の宮原久太夫頼安の介錯で切腹しました。 享年46

戒名刃通普剣信士で、主君浅野長矩と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られました。

なお臨済宗の僧・盤珪禅師の弟子でもあり、戒名・英岳宗俊信士を授かっており、討ち入りの際にもこの戒名を書いた金短冊を左肩に縫い付けていたそうです。 しかし墓には「刃通普剣信士」のほうが刻まれています。

3.木村岡右衛門貞行にまつわるエピソード

(1)赤穂開城後は武具の売却を依頼するほど困窮した

浅野家譜代の家臣(150石)で、馬廻り役兼絵図奉行を勤めましたが、開城後は生活が困窮し「米飯にこまり候。具足を売却したい」と周旋を依頼しています。

(2)妻子らの行く末

長男の惣十郎(切腹当時9歳)は成人して、江戸霊岸寺内長台院(長昌院説有り)の僧侶となり、処分を免れました。

次郎四郎(切腹当時8歳)は、赤穂藩士大岡藤左衛門の養子となりました。

妻は大坂で消息不明となりました。

姉は後家となって加東郡垂水村に住みました。

(3)介錯した宮原久太夫頼安との因縁

介錯した宮原は木村を憎み、のち武士を捨て酒屋になったとする説もあります。なお、講談の脚色では宮原の父を木村が殺し、宮原を田んぼに放り込んで逃げたという話があります。

(4)『赤城盟伝』の跋文を書いた

前原伊助、神崎与五郎が討入に至る顛末を後世に伝えるために著した書『赤城盟伝』に彼が跋文を漢文で立派に書いています。

そのなかの句「良知之在人、不暫止。至剛至大之気、非万物一体哉」

4.木村岡右衛門貞行の辞世・遺言

木村岡右衛門・漢詩

辞世:泉岳寺で僧・白明に所望されて詠んだもの

思ひきや 我が武士(もののふ)の 道ならて かかる御法(みのり)の 縁に(あふ)とは

辞世の漢詩:兜頭巾の裏に漢詩(下記)を縫い付けて討ち入ったそうです。

身寄浮雲滄海東・・・身を寄す浮雲 滄海の東

久愆恩義世塵中・・・久しく恩義を愆(あやまる)世塵の中

看花對月無窮恨・・・花を見月に対して恨窮り無し

散作暁天草木風・・・散じて暁天 草木の風を作る