忠臣蔵の四十七士銘々伝(その18)倉橋伝助武幸は旗本出身との説がある謎の多い義士

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倉橋伝助

「忠臣蔵」と言えば、日本人に最も馴染みが深く、かつ最も人気のあるお芝居です。

どんなに芝居人気が落ち込んだ時期でも、「忠臣蔵」(仮名手本忠臣蔵)をやれば必ず大入り満員になるという「当たり狂言」です。上演すれば必ず大入りになることから「芝居の独参湯(どくじんとう)(*)」とも呼ばれます。

(*)「独参湯」とは、人参の一種 を煎じてつくる気付け薬のことです 。転じて( 独参湯がよく効くところから) 歌舞伎で、いつ演じてもよく当たる狂言のことで、 普通「 仮名手本忠臣蔵 」を指します。

ところで、私も「忠臣蔵」が大好きで、以前にも「忠臣蔵」にまつわる次のような記事を書いています。

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しかし、上に挙げた有名な人物以外にも「赤穂義士(赤穂浪士)」は大勢います。

そこで今回からシリーズで、その他の赤穂義士(赤穂浪士)についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.倉橋伝助武幸とは

倉橋伝助武幸

倉橋武幸 (くらはし たけゆき)(1670年~1703年)は、赤穂浪士四十七士の一人で、通称は伝助(でんすけ)です。変名は十左衛門。

家紋:三がい菱

2.倉橋伝助武幸の生涯

寛文10年(1670年)、赤穂藩浅野家家臣の倉橋武助の子として生まれました。母は幕臣大平弥五郎兵衛の伯母。

延宝4年(1676年)、7歳のときに父が死去したため家督を継ぎました。赤穂藩では中小姓15両3人扶持)として仕えました。

元禄7年(1694年)の備中松山城受取にも従軍し、そのまま一年半にわたって松山に残留しています。受け取りの様子で大石については「人々あれが赤穂の家老ぞと云ひて女共まで嘲笑す」と悪口が記されていますが、倉橋の記述はありません。

元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が吉良義央に殿中刃傷に及んだ際には、倉橋は長矩の参勤交代のお供をしていたため江戸に居ました。

同い年でもある堀部武庸に同調して江戸急進派の一人となり、大石とよく衝突しました。

元禄15年(1702年)6月には浅草茶屋にて杉野次房・武林隆重・前原宗房・不破正種・勝田武尭らと同盟の誓約をします。8月以降は本所林町の堀部武庸の借家に移り、十左衛門と変名しました。

急進派として敵情の偵察にあたり、呉服太物を商っていた前原伊助の店の手代となって吉良邸内部を探るため苦労を共にしました。

吉良邸討ち入りの際には裏門隊に属しました。武林隆重が吉良義央を斬殺し、一同がその首をあげたあとは長府藩毛利家にお預けとなりました。

赤穂義士たちは罪人扱いで、収容小屋の窓や戸には板を打ち付けられ、昼夜交代で複数の番人が見張るなど厳しい対応を受けました。

元禄16年(1703年)2月4日に毛利家家臣江良清吉の介錯で切腹した。享年34

戒名刃鍛錬剣信士で、主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られました。

3.倉橋伝助武幸にまつわるエピソード

(1)元は床屋

元は床屋で刃物の扱いが上手く、浅野家に足軽奉公に来たとされます。

主家改易後の江戸潜伏中に、後家のお蘭に惚れられ男妾(囲われ者、ひも)となりましたが、後家の執拗なお色気攻撃に音(ね)を上げたそうです。

(2)討ち入り後の引き上げ時の逸話

倉橋伝助は討ち入りの引き上げで、深夜にもかかわらず酒屋に勝手に入り「酒を出せ」と脅しました。主人は恐れ戦き、無理やり酒を出させられました。

義士たちは店の前に酒樽を運び出し、大高子葉(源五)らが中心になり午前六時まで騒いだそうです

『ちくま味噌』現当主・竹口作兵衞は「当時の店主は、赤穂義士に脅されて仕方なく、酒や料理を出したのである」と述べています。

しかし実際の義士一行は上杉家や津軽家の追撃を警戒し、飲食せずに泉岳寺に急いでいます。一行が粥をたくさん食べたのは泉岳寺においてです。

(3)『赤穂義士銘々伝~倉橋伝助』あらすじ

講談では幕府旗本の出で放蕩の果てに髪結になり、中間として奉公した話があります。

大目付である長谷川丹後守には金三郎という次男の息子がいる。金三郎は女遊びに呆ける毎日でついには勘当され、京橋の小野屋という表向きは魚屋、実はバクチ場に身を寄せる。ある日のこと賭場で、金三郎の隣の席に五十年輩の男が座る。男は金三郎の姿を見ると、正体は身分ある人だと見抜き、このような場にいるべき方ではないと考える。金三郎に10両を渡し、この金で真っ当な仕事をしてくれ、上総街道の先に長南(ちょうなん)という所がありそこに浅野源太という男がいるのでその者を頼っていけと告げる。

10両という金を貰った金三郎だが遊びに使ってしまい、あっという間に所持金が二分にまで減る。先の男の言葉に従い上総長南を訪れるが、夜になって泊まるべき旅籠も見つからず、髪結床の軒下で寝てしまう。主人の「いかり床」権次が店先で寝ている金三郎を見つけ起こす。当初は不審に思っていた権次だが、金三郎が浅野源太という者を訪ねてきたと言うと、喜んで家の中に招き入れる。権次は金三郎のことについて事前に源太から聞かされていたのだ。あいにくと源太は京、大坂への旅に出ており当分の間は帰ってこないと言う。金三郎は権次に勧められこの家に厄介になる。

権次は店の手伝いをさせ、最初は井戸の水汲み、そして髭剃りの練習をさせるがこれが実に上手い。上手いはずで金三郎は勘当される前、将軍様の髪や髭を整える役を言い付かっていたことがあったのだ。金三郎が店にでるようになると、男っぷりが良くて仕事が上手いので店の評判は上がる。権次にはかつて2人の息子がいたのだが、両名とも若くしてこの世を去っている。また、横丁のお梅坊が金三郎に恋心を抱いている。ある日権次は金三郎に、お梅坊を嫁に迎え夫婦でこのいかり床を継いで貰えないかと頼む。自分は武士の身分である。それは勘弁願いたいと、金三郎はこれまでの身の上を話す。権次と妻は、婿養子になってくれるものだと期待していたが、そんな自分たちが愚かだったと涙する。

権次の勧めで金三郎は江戸へ帰ることになる。江戸で口入れ屋をしている者の紹介を受け、その伝手で鉄砲洲の浅野内匠頭長矩の屋敷に足軽として住み込む。金三郎は素性は知れぬよう、母方の姓を使い「倉橋伝助」と名乗った。この新参者の倉橋は大変な弓術の巧者で家中で一番という腕である。さっそく足軽から士分に取り立てられることになったが、その際身分や過去の役職を記した書面を提出しなければならず、これに偽りを書くわけにはいかない。

内匠頭は伝助を呼び付け、なぜ長谷川丹後守という身分ある者の子息なのに名を偽っていたのかをの聴き尋ねる。事情を知った内匠頭は、伝助こと金三郎を長谷川の屋敷へ使者として送り親子対面が叶うよう取り計らう。屋敷で応対に出た御用人の佐藤重兵衛は金三郎が幼いころから世話を受けた者である。「あなたは金三郎様」と久しぶりの若様の姿を見て重兵衛は泣く。金三郎は丹後守の御前に出る。次の間で金三郎の母親と兄がこの様子を見ており「今のは金三郎では」と問う。「他人の空似であろう」と丹後守は取り合わないが、袂は涙で濡れている。

数日後、内匠頭の助力があって丹後守と金三郎は親と子としての対面が叶う。内匠頭から深い恩義を受けた金三郎は、その後赤穂四十七士の一人として主君の仇討ちに加わるのであった。

4.倉橋伝助武幸の辞世・遺言

辞世・遺言ともに無し。