「大英博物館」は「泥棒博物館」か?

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ルーブル美術館

<2021/10/28追記>英仏の美術館が植民地時代に略奪した文化財を返還

「イギリスのケンブリッジ大学とフランスの美術館が植民地時代に西アフリカから略奪した文化財を返還した」という報道がありました。

今回の決定は今後、ヨーロッパの美術館・博物館などが植民地時代に略奪した文化財を返還する動きにつながるとみられます。

植民地時代の大きな影響は、歴史や地理、国際体制のみならず、地球上における文化財の配置にも及んでいます。植民地への拡大は、西欧を中心にして世界各地に広がったわけで、ヨーロッパ各国の大美術館が現在保有しているコレクションが、世界各地から持ち込まれた文化財によって充実していることは当然のことです。

イギリスのデイヴィッド・キャメロン首相が2010年にインドを訪問した時、世界最大のダイヤモンド「コ・イ・ヌール」をインドに返還するのかどうかとの質問を受けました。首相は、そのようなことになればいつか、「大英博物館が空っぽになってしまったことに気がつくでしょう」と答えています。植民地支配を受けた領土のなかでも、特に大きな被害を受けたのがアフリカです。専門家らは様々な数字を出していますが、おおよそ、アフリカの文化財の80%から90%がアフリカ大陸の外にあると試算されています。

西欧の美術館コレクションから文化財を植民地に対して返還することは、かなり長い間問題になっています。1960年代、植民地体制が最終的に崩壊したときに、旧植民地は旧宗主国に対して返還要求を行っていますが、当時は何の成果ももたらしませんでした。長い間、西欧諸国の一致した意見は、「旧植民地は植民地支配から解放されたこと、さらには国際体制に正式な参加者として迎えられたことに対して感謝するべきだ」というものでした。旧宗主国が何か他の物質的な義務を負っているとか、何百年も前に西欧の美術館に世界各地から持ち出されてきた大量の文化財を返還すべきだとか、そういった話は一切聞かれませんでした。

私は、海外出張でロンドンに行った時、「大英博物館」に行くつもりでした。しかしロンドン駐在員の人が日曜日に、バッキンガム宮殿・ロンドン塔・ウィンザー城などを案内してくれると言うので、その好意に甘え、「大英博物館」へは行けませんでした。

フランスの「ルーブル美術館」へは、ドイツ・オーストリア・スイス・フランスをめぐる「ロマンチック街道」の旅に夫婦で行った時に訪れました。

ところで、私は以前から気になっていたのですが、これらの博物館・美術館の膨大な収蔵品はどうやって集められたのでしょうか?

1.大英博物館

大英博物館は、1759年に開館した世界最大の博物館の一つで、約800万点が収蔵されています。そのうち、常設展示されているのは、約15万点です。

気の遠くなるような収蔵品数ですが、そのうちの多くは「個人の収集家の寄贈」によるものだそうですが、もちろん大英帝国による植民地からの「略奪品」も少なからず含まれています。

大英博物館の起源は、古美術収集家の医師ハンス・スローンの収集品に遡ります。その後、1823年の国王ジョージ4世が父親から相続した蔵書を寄贈したことが契機となって、「キングズライブラリー」が増設されたそうです。

大英帝国時代の植民地から持ち出された物は、そのほとんどが独立した現在では、文化財保護の観点や宗教的理由から、国外持ち出しが到底許可されないような貴重な遺物が少なくありません。

『パルテノン・スキャンダルー大英博物館の「略奪美術品」-』などにも示されているように、しばしば収蔵品の返還運動も起こされているそうです。

このような事情から、良心的なイギリス人からは「泥棒博物館」「強盗博物館と揶揄されています。

しかし、その反面、戦乱などによる破損や、整った環境で保護・管理されないことによる汚損または盗難から守られること、さらに大英博物館に一堂に会したことで研究が進むという一面があるとも言われています。これはちょっとイギリス人の手前勝手な理屈のように私は思いますが・・・

日本がそんなことをしたら、元植民地から「略奪美術品返還運動」や「賠償金請求」を執拗に続けられそうな話ですが、大英博物館については、それほど大問題にはなっていないようですね。

1990年大英博物館 第1集 都市が生まれ文字が生まれた~メソポタミア・文明の誕生~

2.ルーブル美術館

ルーブル美術館は、1793年に開館した世界最大級の美術館(博物館)であるとともに、世界最大級の史跡の一つです。

収蔵品数は38万点以上で、先史時代から19世紀までの様々な美術品約3万5千点が公開されています。

ルーブル美術館は、フランス王フィリップ2世が、12世紀に要塞として建設したルーブル城(ルーブル宮殿)の中にあります。

最初は、王室所有の物や教会財産から没収した絵画が中心でしたが、フランス皇帝ナポレオン1世が諸国から美術品を略奪したことにより、所蔵品は増大し、「ナポレオン美術館」と改名したこともあったそうです。

1815年のワーテルローの戦いでフランスが敗北したことにより、美術品の略奪を受けたスペイン・オーストリア・オランダ・イタリアなどの諸国がフランスに返還を求めました。しかし、ルーブル美術館の上層部は、略奪美術品の多くを自分たちの「プライベートコレクション」に紛れ込ませて隠匿し、ほとんどこれに応じませんでした。

これに憤った諸国は、ワーテルローの戦いに勝利したイギリスに特使を送り、美術品返還への協力を求めました。この結果、多くの美術品は返還されましたが、残された美術品も存在しました。最終的には、イタリアとフランスの間で「未返還の略奪美術品についての協定」が交わされ、フランスの別のコレクションとの交換や賠償金の支払いで決着しました。

その後ルイ18世・シャルル10世の統治時代、第二帝政時代にさらに増え続けました。第三共和政の時代にも、遺贈・寄贈によって着実に増えて行きました。

[SUB]【パリ1区、世界最大の美術館「ルーブル美術館」】散歩 !パリ在住フランス政府公認ガイド中村じゅんじと歩くパリ散歩

3.「ロゼッタストーン」の謎

「ロゼッタストーン(ロゼッタ石)」は、1799年にナポレオンがエジプト遠征(侵攻)をした時に、ナイル川河口近くのロゼッタで発見されたギリシャ文字などが刻まれた石碑です。

三段にわたって異なる言語(聖刻文字・古代エジプト文字・ギリシャ文字)で同一の内容が書かれており、のちにフランスの言語学者シャンポリオンが解読に成功しています。

「ロゼッタストーン」の命運ですが、このまま行けば、フランスの「戦利品」として、ルーブル美術館にでも展示されるはずでした。ところが、フランス軍は、エジプトでイギリス軍とオスマントルコ軍の攻撃を受け、フランス軍は敗北します。

その後、フランスがエジプトで発見した考古学的・科学的収集物の所有権をめぐって論争が起こり、文物の輸送はイギリス・オスマントルコ・フランスが協同して行うことになります。所有権は結局うやむやのままでした。

詳しい経緯はよく分かりませんが、1801年にイギリスは「戦利品」として「ロゼッタストーン」を「没収」してしまい、現在は「大英博物館」に展示されています。

大英博物館が創立250周年を迎えた2003年7月には、エジプトがロゼッタストーンの返還を要求しました。同様に、ギリシャは大英博物館に対してエルギン・マーブルの返還を要求しています。

しかし、大英博物館・ルーブル美術館・ペルガモン博物館など30以上の主要博物館は、次のような共同声明を出し、返還を拒否しています。

「過去に得られた事物は、今と異なるその過去の価値観と感覚でとらえなければならない。これらの博物館は、一国の国民のみならず、世界中の人々に対して開かれている」

4.日本のコレクション

一般論として、「文化財や絵画・彫刻などの美術工芸品」の散逸を防ぐことは、非常に重要なことです。

日本でも個人の一大コレクションに「大原コレクション」と「安宅コレクション」があります。

「大原コレクション」は、倉敷市の「大原美術館」に収蔵されています。

大原美術館

大阪市の「東洋陶磁美術館」は「安宅コレクション」の散逸を防止するため、安宅産業の主力銀行であった住友銀行(現在の三井住友銀行)が大阪市に寄付して建設した美術館です。

東洋陶磁美術館

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