現代は、米ソの東西冷戦終結後の新たな米露中の覇権争いの真っ只中にあります。ところで、現在イギリスは、「EU離脱問題」で大揺れですが、フランスとの関係は西欧諸国の一員として表面上は一応仲が良いように見えます。
しかし、歴史を振り返ると、英仏の覇権争いは熾烈を極めています。
今回はこれについて考えてみたいと思います。
1.イギリスの歴史
イギリスの正式名称は「グレートブリテン北アイルランド連合王国」(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)です。
「イングランド」「ウェールズ」「スコットランド」「北アイルランド」という歴史的経緯に基づく4つの「カントリー」と呼ばれる国が、同君連合型の単一の主権国家を形成する独特の統治体制です。
最近は「ラグビーワールドカップ」や「サッカーワールドカップ」などのスポーツの世界でも「イングランド」とか「スコットランド」というカントリーの名前がよく出て来ます。また「北アイルランド紛争」があったり、「EU離脱問題」でも各カントリーによって意見のばらつきがあるのは歴史的経緯があるためです。
現在日本でも盛んに行われている行事「ハロウィン」の起源は、古代ケルト人が行っていた秋の収穫祭や悪魔祓いの儀式です。発祥地は「アイルランド」や「スコットランド」とされています。
(1)「ノルマンコンクエスト」以前
1066年の「ノルマンコンクエスト(The Norman Conquest of England)」(ノルマン征服)までのブリテン島は、次のような状況でした。
「イングランド」には「アングル人」(イングランド人の祖先)が住んでいましたが、古代ローマ時代にはローマの属州であった関係で、ローマ人、ガリア人、ゲルマン人が主に兵士として渡来しました。
「ウェールズ」には元々ケルト系住民が住んでおり、アングロ・サクソン民族に征服されたわけではありませんでした。「アーサー王伝説」は、アングロ・サクソンに抵抗したブリトン人(ケルト系の土着民族)の王の物語です。
「スコットランド」には元々ピクト人(コーカソイド種族)が住んでいましたが、ローマ軍やヴァイキングなどとの衝突を繰り返し、また異民族間の婚姻もあって次第に民族が融合して行きました。
「北アイルランド」にはもともとゲール人(ケルト系民族)が住んでいました。
このようにイギリスは、単一民族の日本と違って多様な民族が入り混じり闘争を繰り返して融合して来たのです。
(2)「ノルマンコンクエスト」とは
1066年に、「イングランド」はフランスのノルマンディー公ギヨーム2世によって征服されました。これが「ノルマンコンクエスト」です。
「ノルマンディー公国」はもともと「ノルマン人」(デンマーク人、ノルウェー人、ノーマン・ゲール人、オークニーヴァイキング、アングロ・デーン人など様々な民族から成り立つ)が9世紀にフランスに侵入して作った国です。
ノルマンディー公ギヨーム2世は、イングランドのエドワード懺悔王の死去に伴う後継者争いで王位継承権を主張して、ブリテン島に侵攻しました。数々の戦いで最終的に勝利したギヨーム2世は、イングランド王ウィリアム1世(征服王)として即位し、「ノルマン王朝」を開きました。
「ノルマンコンクエスト」はイギリスの歴史において、「外国の勢力の侵攻・征服が成功した最後の事例」です。
この「ノルマンコンクエスト」によって、フランス語とフランス文化もイングランドに持ち込まれました。
(3)「ノルマンコンクエスト」以降
ウィリアム征服王は、大陸の進んだ「封建制」を導入して王国の体制を整え、やがて人口と経済力に勝るイングランドがウェールズとスコットランドを圧倒して行きます。
14世紀から15世紀にかけては、フランス王位継承権をめぐってフランスとの間に「百年戦争」(1337年~1453年)が起こります。前半はイングランドの勝利が続きますが、結局ジャンヌ・ダルクの活躍などもあって最終的にはフランスの勝利に終わります。
百年戦争は、イギリス(当時はイングランド)とフランス両国の「ナショナリズム」「国同士のライバル意識」の高まりをもたらす結果となり、現在の「国民意識」の礎になりました。
この百年戦争のあとも、イングランドでは王位継承をめぐって、共にプランタジネット家の男系傍流である「ランカスター家」と「ヨーク家」との間で30年間に及ぶ権力闘争・内戦がありました。これが「薔薇戦争(ばらせんそう)」(1455年~1485年)です。「ランカスター家」が赤薔薇、「ヨーク家」が白薔薇を記章としていたのでこう呼ばれます。
最終的には、「ランカスター家」の女系の血筋を引くテューダー家のヘンリー7世が、武力で「ヨーク家」を倒し、ヨーク家のエリザベス王女と結婚して「テューダー王朝」を開きました。
その後、15世紀半ばから17世紀半ばにかけての「大航海時代」に入ると、イギリスはスペインやポルトガル、フランスやドイツなどのヨーロッパ諸国と共に、アフリカ大陸、アジア大陸、アメリカ大陸に進出します。そして「発見」した土地で先住民に対して略奪や搾取を行い、植民地化する「帝国主義」の時代となり「大英帝国」として繁栄します。
「アメリカ独立戦争」(1775年~1783年)では、アメリカを支援して参戦したフランスと戦いますが結局降伏し、1783年の「パリ条約」でアメリカの独立承認を余儀なくされます。
フランスはこの「アメリカ独立戦争」を、昔から因縁の深い憎き仇敵であるイギリスを弱体化させる絶好の機会と考えたのかもしれません。
「ナポレオン戦争」(1796年~1815年)は、ナポレオンによって起こされた戦争で、フランス革命を外国の干渉から守る「革命防衛戦争」として始まりましたが、次第に「革命の理念の拡大のための戦争」に変容し、最終的には「領土拡大のための侵略戦争」に変質しました。
このナポレオン戦争において、「対仏大同盟」(第1回:1793年~1797年、第2回:1799年~1802年、第3回:1805年、第4回:1813年)に最初から最後まで主導的に参加したのがイギリスです。対仏大同盟とはフランス革命およびナポレオンの大陸支配に対抗するヨーロッパ諸国の軍事同盟です。
1815年の「ワーテルローの戦い」で、再起を目指したナポレオンはイギリス・プロイセンなどの連合軍と戦って敗れ、セントヘレナ島に流されてナポレオン戦争は終わります。
17世紀末から19世紀初頭のイギリスとフランスのヨーロッパ本土およびアメリカ植民地・インド植民地を巡る抗争や戦争を「第2次百年戦争」(1689年~1815年)と呼んでいます。
これは「ウィリアム戦争」(1689年)から始まり、「カーナティック戦争」(1744年~1761年)、「プラッシーの戦い」(1757年)、「フレンチ・インディアン戦争」(1754年~1763年)、「アメリカ独立戦争」(1775年~1783年)などを経て「ナポレオン戦争」(1796年~1815年)までの戦争の総称です。
この「第2次百年戦争」によって、イギリスはフランスとの植民地抗争に勝利し、海外に広大な植民地を形成し、大西洋を舞台にしたヨーロッパ・新大陸・アフリカを結ぶ三角貿易を展開し、大英帝国の繁栄を謳歌します。また18世紀中頃には「産業革命」が起こり、イギリスは覇権国の地位を確立します。
「第一次世界大戦」(1914年~1918年)では、イギリスはロシアやフランス、日本などと「連合国」を形成し、ドイツ、オーストリアなどの「同盟国」と激しい戦闘を行い犠牲も大きかったのですが、ヨーロッパ諸国の紛争に干渉しない「モンロー主義」(孤立主義)を掲げるアメリカは最後になって参戦したので痛手は少なくて済みました。このことが第二次大戦後のアメリカの覇権確立につながります。
「第二次世界大戦」(1939年~1945年)でも、イギリスはフランス、アメリカなどと共に「連合国」としてドイツ、イタリア、日本などの「枢軸国」と戦いますが、戦後は、アメリカに覇権を奪われ「老大国」となります。
ところで、イギリスは上に述べたようにフランスとは深い関係にありますが、「生物学的事実」として「イギリス人のDNAの45%は、フランス人のDNAと一致する」そうです。
お互いにいがみ合いを繰り返してきた両国ですが、「兄弟げんかのようなものだった」という解釈もできます。
2.フランスの歴史
元々フランスの土地(当時はガリアと呼ばれていた)にはガリア人とケルト人が居住していました。
ガリア人はローマ帝国によって制圧されますが、その後フン族に追われたゲルマン民族の「民族大移動」が375年に起こります。その後、5世紀後半にゲルマン人の「フランク人」によって「フランク王国」(フランス王国の起源)が建国されます。
その後、イングランドとの「百年戦争」の勝利によって、フランスの「絶対君主制」は強固となり、ルネサンス期にはフランスは、世界的規模の「植民地帝国」となります。
ルイ14世はブルボン王朝の最盛期を築きますが、1789年の「フランス革命」によって絶対君主制は崩壊します。
ナポレオンの出現によって、フランスはヨーロッパ大陸に広大な版図を持ちますが、ロシア遠征の失敗やナポレオンの失脚によって、獲得した多くの版図を失います。
その後、二度の帝政を経て、現在は共和国(第五共和政)となっています。