日本人が奴隷に売られた話。明治時代や昭和時代にもあった!?

フォローする



高橋是清

前に「戦国時代の日本人奴隷」の記事を書きましたが、今回は明治時代と昭和時代の日本人奴隷について考えてみたいと思います。

1.明治時代の日本人奴隷

(1)高橋是清

「日本のケインズ」とも呼ばれ「ダルマさん」の愛称で親しまれた高橋是清(1854年~1936年)は、13歳でアメリカに留学した時、「奴隷契約」を結ばされ奴隷になったという驚くべき経歴の持ち主です。

彼の父は幕府御用絵師ですが、庶子であったため、生後間もなくして仙台藩足軽の高橋家に養子に出されます。

ヘボン式ローマ字で有名なヘボン博士の塾で英語を学び、1867年藩命によりアメリカに留学します。しかし渡米の手配を頼んだアメリカ人貿易商ユージン・ヴァン・リードによって学費や渡航費を着服されます。更にホームステイ先であるこの貿易商の両親に騙されて、「年季奉公の契約書にサインさせられ、オークランドのブラウン家に売り飛ばされます

牧童やブドウ園で「奴隷」として働かされますが、本人は奴隷になっているとは気付かずに、「キツイ勉強」だと思っていたそうです。そしていくつかの家を転々と渡り、時には抵抗してストライキを試みるなど苦労を重ねます。この間に英語の会話と読み書き能力を習得したそうです。

彼は翌年帰国した後、英語教員の職に就きますが、放蕩三昧で教師を辞め、職を転々とします。しかし日銀に入行して頭角を現し、後に日銀総裁、首相を務めました。大蔵大臣を通算7度も務めますが、二・二六事件で暗殺されるという波乱万丈の人生でした。

ところで、彼の学費や渡航費を騙し取ったユージン・ヴァン・リードという人物は、後に駐日ハワイ総領事となり、明治初期に「日本人を初めてハワイに移民させた」ことで知られています。

(2)ハワイ移民

1848年にハワイ王国は外国人の土地私有を認めたため、サトウキビ栽培がヨーロッパ人による大規模なプランテーション農園となり、現地人の労働力だけでは賄えなくなり、1850年に中国から出稼ぎ労働の移民を受け入れます。しかし中国人は農園仕事への定着率が悪く、商売を始める者が多く出て来たため、中国人から日本人にシフトしようとする動きが出てきます。

ユージン・ヴァン・リードは、1859年に神奈川にあったアメリカ総領事館の書記生として日本に派遣されます。一旦アメリカに帰国後、1866年に「ハワイ王国の総領事の資格」を得て再来日し、江戸幕府と国交締結交渉を行いますが失敗し、横浜で貿易商を始めます。

1868年、江戸幕府から「日本人出稼ぎ労働者のハワイ移住に関する許可」を得ます。そして同年4月19日、江戸幕府解体後の明治政府の横浜裁判所に、「ハワイ総領事」の資格で、応募した移民への旅券下付申請をします。これに対して裁判所は、「日本とハワイに国交がない」ことを理由に「総領事としての資格を否認」し、江戸幕府の「日本人のハワイ移住に関する許可も無効」とします。

これに対して彼は、「無効処分の取り消しか、賠償金4000ドルを要求」する一方、6日後に「英国船で141人の日本人を乗せて移民を強行」しています。彼らは「元年者」と呼ばれています。

この141人のうち、少なくとも男性50人、女性6人は、「契約と実際の状況が違う」と年季を待たずに1870年に帰国しています。多分、「ハワイへ行けば大きな農場で豊かな生活ができる。ハワイは夢のような楽園」といった話に騙されて移住したのでしょう。

日本政府は「自国民を奪われた」として、1869年上野景範らの外交官をハワイに派遣して抗議しました。交渉の結果、契約内容が異なるとして40人が即時帰国し、残留希望者については待遇改善を取り付けました。

1885年には、ハワイ王国との間で「日布移民条約」が結ばれ、ハワイへの移民が公式に許可されるようになります。政府の斡旋した移民は「官約移民」と呼ばれ、1894年に民間に委託されるまでに約29,000人がハワイへ移住しています。

「官約移民」は、「3年間で400万円稼げる」といった謳い文句で盛んに募集が行われましたが、実態は「人身売買」に似ており半ば「奴隷」に近かったそうです。労働は過酷で、現場監督が鞭で殴る等の酷使・虐待が行われました。

農奴のような過酷な労働条件に対して、日本人移民は激しく抵抗し、たびたびストライキを行ったそうです。このようなストライキは当地では違法とされ、牢獄送りとなったりしてなかなか待遇改善が行われなかったようです。

この「官約移民」の具体的交渉は、後に「移民帝王」と揶揄される在日ハワイ総領事ロバート・W・アーウィンに一任されていました。彼は「仲介手数料」を日本・ハワイ双方から徴収して莫大な利益を上げていました。1894年、アーウィンとの「仲介手数料」交渉が折り合わず、26回で「官約移民」は終了しています。

(3)ブラジル移民

1892年、ブラジル政府が日本人移民受け入れを表明し、1895年にブラジルとの間で「日伯修好通商航海条約が締結され、1908年から正式にブラジル移民が開始されます。約100年間で13万人が移住しました。

ブラジルはアフリカ大陸から送り込まれる黒人奴隷をコーヒー園などで働かせていましたが、内外から奴隷制度批判を受けたことから、1888年に奴隷制度を廃止しました。

その結果、労働者不足となったため、イタリア、スペイン、ドイツなどのヨーロッパ諸国からの移民を受け入れ始めます。しかしイタリア移民が奴隷のような住環境、労働の過酷さなど待遇の悪さから反乱を起こしたため、受け入れを中止します。

そのため再び労働者不足となり、日本人移民受け入れを表明したのです。一回目の移民募集を行った「皇国殖民会社」が「ブラジルでの高待遇や高賃金」を謳ったため、ほとんどの人が「数年間、コーヒー園などで契約労働者として働き、金を貯めて帰国する」つもりでした。

しかし、実態は「奴隷」と大差ないものでした。居住環境は悪く労働も過酷で、賃金も低かったため、帰国のための貯金どころではなく、借金が増える一方だったようです。当時の農園主はこのようにして小作人を土地に縛り付けたのです。そのため、日系移民の間では、「移民計画」を「棄民」(日本国に棄てられた民」と揶揄する声がでたほどです。

2.昭和時代の日本人奴隷

(1)山崎豊子の小説「大地の子」の陸一心

長野県から満蒙開拓団として入植し、家族と共にソ連国境近くの開拓地で平穏な生活を送っていた主人公は、1945年(昭和20年)8月9日の突然の(日ソ不可侵条約違反の)ソ連対日参戦により、避難を余儀なくされます。一家は、過酷な避難行やソ連軍の虐殺によって、祖父と母、末妹を失います。この時父親は陸軍に召集されており、満州に居場所は無くなったのです。

そして5歳の妹とも生き別れになり、中国人農家に売られて酷使される日々を過ごします。「奴隷のような扱い」に耐えかねて逃げ出したものの、長春で人買いの手にかかり、売られそうになります。そこで小学校教師の陸徳志に助けられ、陸一心と名付けられます。子供の無い陸徳志は、実の子のように愛情を込めて育ててくれます。

その後、様々な苦難を経て、陸一心は、日中共同の一大プロジェクトである製鉄所建設チームで働くことになり、図らずも日本の製鉄会社の上海事務所長の実父と対峙することになります。

その後、養父の仲介で父子水入らずの三峡下りの旅行に行き、実父から日本に来て一緒に暮らそうと誘われますが、「私はこの大地の子です」と答えて中国に残る決意をするという物語です。

蛇足ながら、彼らは一般に「中国残留孤児」と呼ばれていますが、彼らはもともと、決して「自分の意志で」中国に残留したのではありません。原作者の山崎豊子も決してこの言葉を使いません。彼らは戦争に翻弄され、日本・ソ連・中国の三つの国から理不尽な苦難を与えられた「戦争孤児」なのです。

(2)中国残留孤児

山崎豊子によれば「戦争孤児」ですが、彼らは陸一心と似たように誘拐されて人身売買の犠牲となり、「奴隷のような生活をした人も多数いたようです。

(3)ソ連が違法に連行した日本兵の「シベリア抑留者」

これは「人身売買」ではありませんが、それよりもひどいソ連という国家による「違法な強制連行」によって日本兵が酷寒のシベリアで「奴隷的な強制労働」をさせられた事例です。

約60万人の日本兵らがシベリアに抑留され、そのうち約5万5千人が彼の地で亡くなりました。ポツダム宣言受諾によって「武装解除された日本兵」を「捕虜」とすること自体、国際法違反ですし、ましてやシベリアに連行して「奴隷」のような強制労働に従事させたのは「武装解除した日本兵の家庭への復帰」を保証した「ポツダム宣言」に完全に反するものです。