アメリカのケネディ大統領とはどんな人物だったのか?またなぜ暗殺されたのか?

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ケネディ大統領

私がケネディ大統領をはっきりテレビで見たのは、1963年(昭和38年)11月22日の日米初のテレビ「衛星中継」(当時は「宇宙中継」と言っていました)の時でした。

この時、中継されたのはテキサス州ダラスの町をケネディ大統領とジャクリーン夫人がオープンカーに乗ってパレードする様子でしたが、画面は白っぽく不鮮明で画質は今ほど良くありませんでした。本当はカラー放送だったのかもしれませんが、我が家は白黒テレビでした。

しかし、この時、「ケネディ大統領暗殺事件」という悲劇が起こったのです。それは大変衝撃的なもので、最初は何が起こったのかよくわかりませんでした。ジャクリーン夫人があわてて助けを求めて逃げる様子も映し出されていました。

今回はケネディ大統領がどんな人物だったのか、またなぜ暗殺されたのかについてご紹介したいと思います。

1.ケネディ大統領とは

(1)生い立ち

ジョン・F・ケネディ(1917年~1963年)は、アイルランド系移民の実業家で駐英大使も務めたジョセフ・パトリック・ケネディの次男としてマサチューセッツ州ブルックラインで生まれました。

幼少期は病弱だったようです。1930年13歳の時にコネティカット州にあるカトリックの寄宿学校「カンタベリー・スクール」に入学しましたが、ホームシックと体調不良で家に戻り、兄が在籍していたチョート校に転校しています。

スポーツ選手として活躍し学校に順応する兄に対して激しいコンプレックスを持ち、鬱屈した気持ちから「反抗的な生徒」として有名になり、「モッカー(mocker)」(校則違反者、人を馬鹿にする人)というあだ名を付けられ、放校処分になりかけたこともあったそうです。

(2)青年期

1935年チョート校を卒業した彼は、ロンドン大学に留学しますが、すぐに体調を崩して「黄疸」の診断を受け、帰国しています。その後、プリンストン大学に入学しますが、体調不良となり「白血病」の診断を受けて退学しています。そして1936年に兄も在学していたハーバード大学に入学します。

彼の成績ではハーバード大学入学は不可能でしたが、父の尽力もあって入学できたそうです。ちなみに在学中の成績も当初は落第に近かったようです。しかし、彼はこの頃から健康を取り戻し、水泳・ゴルフ・ヨットなどに興じました。

ハーバード大学在学中に父が駐英大使となったこともあり、二度ヨーロッパ旅行をして見聞を広めています。1940年の卒業論文でイギリスのチェンバレン首相とドイツのヒトラー総統とのミュンヘン会談を扱った「ミュンヘンの宥和」を書いて教授から高い評価を受け、優等の成績で卒業しました。

1941年の春に、彼は陸軍士官候補学校と海軍を受験しましたが、健康状態を理由に合格できませんでした。そこで父が大使館付き武官だったカーク海軍大佐に頼み、「海軍士官養成コース」に入れるよう手配しました。

彼は1941年9月に海軍士官に任官しましたが、父の配慮で戦場に赴くことがないワシントンD.C.の「海軍情報局」に配属されます。

その頃、ワシントン・タイムズ・ヘラルド紙に勤めていた妹にスウェーデン人の同僚記者インガ・アバドを紹介され、恋人となります。スウェーデンは中立国でしたが、アバドはナチス党支持者でベルリンオリンピックの取材でヒトラーとも会っており、ドイツのスパイではないかとFBIが疑い捜査対象になったこともあるため、周囲の勧めもあって二人は別れています。

しかし、まもなくサウスカロライナ州チャールストン配属となった彼は、FBIの警告にもかかわらずアバドとの交際を再開しています。やがてアバドが別の男性と結婚したため、この恋は終わりました。

その後アメリカが第二次世界大戦に参戦した上、ドイツの宣戦布告を受けて交戦状態に入ったことから、父はこのあと二人が会うことのないように、彼を海上勤務に転勤させています。

彼は1943年4月に、日本海軍と対峙していたソロモン諸島のツラギ島に配属され、パトロール魚雷艇「PT109」の艦長になっています。

1943年8月にPT109は、日本海軍の駆逐艦「天霧」に不意に遭遇し衝突されて、魚雷艇は真っ二つに割れ、乗組員二人が死亡しています。彼は負傷して海に投げ出されましたが一命を取り留めました。

(3)政界入りから大統領へ

兄が戦死したため、父から「議員になるのはお前だ」と説得されて政治家になる決意を固めます。

民主党に入党し、1946年には「新しい世代から指導者を」をスローガンにして29歳の若さで下院議員に当選し、6年後には父から潤沢な選挙資金を得て上院議員になっています。

1953年9月36歳の時に、彼はフランス系アメリカ人の名門の娘で当時24歳のジャクリーン・リー・ブーヴィエ(1929年~1994年)と結婚します。

ジャクリーン夫人

ほぼ無名議員だった彼ですが、1956年の大統領選で民主党代表候補となったことで、一躍有名になります。この年の大統領選では敗れましたが、「1960年の大統領選の民主党候補はケネディだ」と議会や国民にその存在をアピールできました。

1958年の上院議員選挙では、マサチューセッツ州全体の73.6%という前代未聞の圧勝でした。「マフィアとの結びつき」も囁かれるケネディ家は、あらゆる手を尽くして選挙運動をしたようです。

1960年の大統領選挙では、当初間違いなく大統領になると言われていた対立候補のリチャード・ニクソンを「史上初のテレビ討論会」に引っ張り出したことが大きな勝因の一つです。

ニクソンが無愛想で老けて見えたのに対し、ケネディは若々しく気取らない態度で好感度を増し、「新しい大統領像」を強く印象付けました。

「ニュー・フロンティア政策」の巧みな演説で国民を魅了したことはもちろんですが、ケネディ家の潤沢な資金を活用した選挙運動がありました。具体的にはフランク・シナトラなどの有名歌手やハリウッド俳優を動員した選挙資金調達パーティー、マフィアやテレビ局への賄賂、街頭演説での聴衆へのソーダ配布など莫大なお金が動いたようです。

(4)大統領としての功績

当時のアメリカは、ソ連との冷戦が始まっており、1962年にはソ連がキューバにミサイル基地を造ったため、核戦争の危険をはらむ「キューバ危機」が起こります。

そこで彼はソ連のフルシチョフ首相と手紙のやり取りや、揺さぶり・腹の探り合いの交渉を重ねた末、キューバからミサイル基地を撤去させて米ソの全面核戦争を阻止し、平和的解決に成功しています。

交渉の終盤には、アメリカ軍の偵察機がキューバでソ連軍に撃墜されるなど危機的な状況もありました。もし核戦争が起きていれば、米ソでそれぞれ1億人以上の死者が出ただろうと言われています。

1963年には、イギリスとの間で空中および水中では水爆実験をしないという「部分的核実験禁止条約(PTBT)」を締結しています。

「平和部隊の創設」や「黒人の人権擁護」にも尽力しています。

また、「アポロ計画」を積極的に推進し、宇宙開発にも尽力しています。ただし、これが「米ソの宇宙開発競争」を招き、現在の米中ロの「宇宙覇権争い」につながったという意味では、功罪相半ばするとも言えます。

(5)大統領としての失敗と艶聞

失敗としては対ベトナム政策の失敗による「ベトナム戦争への介入本格化」があります。北ベトナムと南ベトナムとの間の統一後の体制を争う戦争であるベトナム戦争は1955年11月に始まりましたが、その後長期間にわたって泥沼化し、介入したアメリカおよびアメリカ国民を苦しめることになり、終結したのは1975年4月でした。

1960年に北ベトナムでは「南ベトナム解放民族戦線」(ベトコン)が誕生し、同年12月には南ベトナムへの攻撃を開始しました。これに対して彼は1961年、南ベトナムに援軍を派遣し、介入を本格化させました。1962年には、上空から枯葉剤を散布する「ランチハンド作戦」を開始しました。

また、マリリン・モンローなどのハリウッド女優との浮名も流しています。

ケネディ大統領とジャクリーヌ夫人

2.ケネディ大統領暗殺事件

ジャクリーヌ夫人が逃げる

この「ケネディ大統領暗殺事件」で最初に逮捕されたのは、リー・オズワルドでした。しかしオズワルドは逮捕された2日後に、ダラス警察署でジャック・ルビーに銃撃され死亡しました。

翌年に出された「ウォーレン委員会」の公式調査報告は、事件を「オズワルドの単独犯行」として、「大統領は後方から撃たれた」と結論付けました。ただしこの結論については、当初から疑問の声が上がっていました。

別の殺人罪で逮捕されていたオズワルドを暗殺犯に仕立て上げ、真相をオズワルドが語らないよう口封じのために「真犯人の何者か」がジャック・ルビーに銃撃させた疑いがあるのです。

(1)ケネディ暗殺の黒幕候補

ケネディ暗殺の黒幕候補としては次のようにいくつかの説があります。

①CIA

ケネディとジャクリーヌ

彼は軍の弱体化を政策に掲げており、「CIAの解体」も宣言していました。実際、政府関係者にも彼を快く思わない多数の敵がいたことも判明しており、そのような人物によって殺害されたのではないかというものです。

彼が暗殺された時、車に同乗していた人物は元CIA関係者で、彼が辞職させた人物だったそうです。またパレード時は通常時速20km以上で走行するのですが、この時は狙撃されやすくするかのように時速10kmで走行していたそうです。

②ジョンソン副大統領

ジョンソン副大統領

大統領の座を狙っていたジョンソン副大統領(1908年~1973年)がケネディ暗殺を企てたというものです。確かに一番得をするのはジョンソン副大統領です。

実際にケネディが暗殺される直前に、あたかも暗殺されることを知っていたかのように身を隠しており、ケネディ暗殺後は「なぜだ?奴らは私たちを全員殺すつもりか?」と発言していたそうです。

③マフィア

彼は大統領選挙の時に、マフィアから支援を受けて当選したとされています。しかし彼は大統領になると、「マフィアを撲滅する方針」を打ち出しており、これがマフィアの怒りを買って暗殺されたのではないかというものです。

④亡命キューバ人グループ

キューバに対する彼の対応に不満や反感を持つ亡命キューバ人グループが暗殺を企てたとするものです。

⑤キューバ政権

カストロ暗殺計画を進めた彼に反発したキューバ政権が暗殺を企てたとするものです。

⑥軍産複合体

南ベトナム情勢が悪化しても一向に動かない彼に対して反感を持つ軍産複合体などの謀略だとするものです。

(2)暗殺の真相は2039年公表へ

ケネディ暗殺に関する文書などの真相は、事件から「76年後」の2039年に公開されることになっています。

通常は「50年後」に公開されるのですが、なぜ76年後なのかというと、「ケネディ暗殺に関係した人物が全員亡くなるのが76年後だから」との見方が強いようです。

しかし、公開される内容が「事件の真相を語るもの」かどうかは疑問の余地があります。仮に政府関係者が犯人だったとすると、国民への影響も懸念されるため「差し替えられた真相」が公開される可能性が高いからです。

3.ケネディ大統領の名言

(1)国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国のために何をなすことができるのかを問うてほしい。

(2)楽な人生を願い求めるな。より強い人間になれるように願いなさい。

(3)行動には常に危険や代償が伴う。しかしそれは、行動せずに楽を決め込んだ時の長期的な危険やコストと比べれば取るに足らない。

(4)もし自由社会が、貧しい人々を助けることが出来なければ、富める少数の人々も守ることが出来ないだろう。

(5)私たちは、今までになかったものを夢見ることが出来る人々を必要としている。



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