三好長慶は戦国時代最初の天下人だった!?高槻の芥川山城から天下に号令した

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三好長慶

「戦国時代最初の天下人」と言えば、ほとんどの人が織田信長(1534年~1582年)と答えるでしょう。しかし、実はその前に三好長慶(みよしながよし)という武将が、高槻の芥川山城から天下に号令していたのです。

そして、高槻といえばキリシタン大名の高山右近(1552年~1615年)が有名で、三好長慶というのは全国的には無名です。しかし、実は高山右近の父はもとは三好長慶の部下だったのです。

今年のNHK大河ドラマにも三好長慶が登場することが決まった(山路和弘が演じる)そうなので、新しい視点からどのように描かれるのか楽しみです

そこで今回は、歴史に埋もれた高槻ゆかりの武将三好長慶について考えてみたいと思います。

1.三好長慶とは

三好長慶(1522年~1564年)は、阿波芝生城主三好元長の嫡男として阿波国(徳島県)に生まれた戦国時代の武将で、畿内・阿波国の戦国大名です。

父の三好元長は、阿波守護細川家の家臣で、細川晴元を畿内の支配者に押し上げた人物でした。しかし元長の勢力拡大を恐れた細川晴元および三好一族の三好政長・木沢長政らの策謀によって蜂起した「一向一揆」によって殺害されます。

長慶は、父の死によって10歳で家督を継ぎ、2年後には管領細川晴元に仕えます。

その後、将軍足利義輝と細川晴元に「離反」と「帰参」を繰り返します。

しかし、1549年(天文18年)には、父の敵である細川晴元軍に大勝して京に入り、天下人となって「三好政権」を樹立します。1553年(天文22年)には将軍足利義輝・晴元連合軍を破って将軍らを近江へ追放し、「事実上の独裁政権」を樹立します。形式的には将軍も管領も存続していますが、「長慶の傀儡政権」になっていました。そして彼は将軍不在となった京の治安を守り、公家の所領の警護をしています。もしこの時に、将軍足利義輝や管領細川晴元を追撃して徹底的に滅ぼしていれば、三好政権はもっと盤石なものになっていたかもしれません。

そして彼は高槻の「芥川山城」に移ります。

1558年(永禄1年)には義輝と和睦し、1560年(永禄3年)には飯盛城(大阪府大東市・四條畷市)に移り、芥川山城は息子の義長に任せました。

しかし1563年(永禄6年)に長男義興の死で気力を失い、「乱世の梟雄」とも称される家臣の松永久秀(1508年~1577年)に実権を奪われてしまいます。

なお、キリシタン大名として有名な高山右近の父は、三好長慶に仕え、三好氏の重臣である松永久秀に従って、大和国宇陀郡(奈良県)の沢城を居城としていたことがあるそうです。

2.三好長慶が「戦国時代最初の天下人

(1)「天下人」とは

「天下人」とは、「天下の政権を掌握した人」のことで、「主に戦国時代から江戸時代初期にかけて、琉球(沖縄県)と蝦夷地(北海道)の大半を除く日本全土を自らの支配下に置き、日本全土を統一した者」のことです。

織田信長は、畿内を含む京都とそこにいる朝廷を押さえていたので、全国性を持っていたと言えます。豊臣秀吉・徳川家康は名実ともに「全国政権」となり、「天下人」という名前にふさわしい戦国大名です。

ちなみに、自らの事業を「天下の草創」と称した源頼朝は日本全国規模の支配には至りませんでした。室町幕府を開いた足利尊氏も同様です。

(2)天下人の条件

①天下を掌握すること

②武士として政権を立てること

③朝廷の臣下として振舞うこと

④政権が「全国性」を持っていること

(3)三好政権

「三好政権」は、1549年(天文18年)から1568年(永禄11年)まで存続した日本の「中央政権」です。同時代における他の戦国大名の「地方政権」とは大きく異なり、織田政権に先立つ統一政権の先駆的な存在という評価もあります。

当時、三好長慶に匹敵する大名は相模国の北条氏康くらいでしたが、関東と畿内では経済力・文化・政治的重要性などで大きな差があり、三好政権の方が「中央政権」だったと言えます。

「政庁所在地」は、摂津国飯盛城(本拠)と摂津国芥川山城でした。

本拠を四條畷や高槻などに置いたことは、現代の東京や大阪、京都の都市に比べると見劣りするように思われるかもしれません。しかし、高槻は京都と大阪の中間地点で交通の要衝でしたし京の都にも距離的に近く畿内全域にも睨みを利かすことができるので、次に述べるような広大な支配地域を考えるとそれほど不適当ではありません。飯盛城のある河内はもともと三好長慶の父の旧領だったので本拠地としたようです。

徳川家康が幕府を開いた江戸は不毛の土地でしたし、織田信長が安土城を建てたのも琵琶湖の外れでしたが、都市計画によって町を繁栄させました。

「支配地域」は、阿波・讃岐・淡路・摂津・河内・和泉・山城・大和・丹波・若狭・播磨に及びました。

3.三好長慶が織田信長のような「天下人」になれなかった理由

(1)京にある室町幕府を倒すに至らなかったこと

将軍や細川晴元らに対して、戦いと和睦を繰り返し、室町幕府を徹底的に追い詰めるまでには至らず、京を制圧し切れなかったことです。

(2)政権基盤が一族の少数者だけで構成されていて脆弱であったこと

織田信長の場合は、子飼いの家臣団のほかに木下藤吉郎や明智光秀などの「外部人材」を積極的に登用しました。

豊臣秀吉には、弟の秀長のほかに竹中半兵衛や黒田官兵衛のような「軍師」がおり、「側近」に石田三成のような有能な官僚タイプの家臣がいました。

徳川家康には、幼少時代に今川家や織田家に人質に取られるなど弱小大名の嫡男でしたが、苦楽を共にした強固な家臣団がいました。

それに比べると、三好長慶の場合は、少数の一族が中心の政権で、しかも一族の間でも争いがありましたので、組織基盤が脆弱という弱点がありました。

(3)政権を支えた人々の相次ぐ死

そのような中で、三好政権を支えてきた三好長慶の嫡男の三好義興、弟の三好実休、安宅冬康、十河一存などの相次ぐ死によって、1561年以降は一気に衰退の道をたどります。

「三好三人衆」(三好長逸・岩成友通・三好政康)と共に数々の武功を挙げてきた松永久秀の讒言によって、弟の安宅冬康を謀殺してしまったことは痛恨の極みでしょう。

結局、三好長慶の嫡男義興の死後、三好家は十河一存の子・三好義継が養子として継ぐことになりますが、1573年に織田信長によって攻められ、三好本家は滅亡します。ちなみに松永久秀も織田信長によって滅ぼされています。

(4)信長のような非情さがなく、寛大な心を持った武将であったこと

三好長慶の戦歴を見ると、同じような相手と何度も戦い、勝利しては和睦し、また戦うと次は負けか和睦といったように、「合戦」と「和睦」の繰り返しです。

彼は非常に寛大な心を持った武将だったようです。逆に言えば「決断力にかける一面」を持っていたようです。

ただ、彼が将軍や管領を徹底的に追い詰められなかったのは、長年続いた権威はそう簡単に否定したり葬り去ることはできないということもあります。織田信長でさえ、将軍足利義昭の度重なる抵抗に最後までてこずりました。

天皇家はその最たるもので、征夷大将軍をはじめとする幾多の権力者も、その権威を利用して実質的に無力化することはあっても天皇制の否定はしませんでした。武家政権に反乱を起こした天皇や上皇を捕らえて流罪に処した例はいくつもありますが・・・

(5)城下町の都市計画構想が欠如していたこと

徳川家康は、当時としては辺鄙で不毛の荒れ地である江戸を優れた都市計画構想によって繁栄する町に変貌させました。

織田信長も、比叡山のような宗教勢力との争いに勝利して彼らの利権を排除した楽市・楽座で町を繁栄させました。

豊臣秀吉も堺の商人をうまく利用して大坂の町を繁栄させました。

(6)人材登用による他国攻略構想などが欠如していたこと

織田信長は、外部人材として登用した木下藤吉郎や明智光秀をうまく使って、天下統一に向けた戦を仕掛けて次々に勝利しました。

豊臣秀吉は、竹中半兵衛や黒田官兵衛のような「軍師」の知恵を借りて次々に敵を攻略しました。また有力大名である徳川家康に対しては「人たらし」の才能を存分に発揮してうまく制御していました。

徳川家康は、関ケ原の戦いに勝利して天下統一した後、大名を「親藩」、東軍の「譜代大名」、西軍の「外様大名」に分けて「分離し統治する」「分割統治」(Divide and conquer)のやり方を実践しました。三代将軍の徳川家光は「参勤交代制」を設けて、徳川幕府に対抗することができないように妻子を江戸に人質として取るとともに、参勤交代で諸大名の出費を増やして諸大名の勢力を削ぐ政策を実行して成功しました。

三好長慶の生きた時代は下剋上全盛時代で、天下統一の機がいまだ熟していなかったという事情もあったでしょうが、以上のような点で、三好長慶は劣っていたと言わざるを得ません。ただし明智光秀のように「三日天下」(実際には13日天下)に終わることなく、19年も続いたことは特筆に値すると思います。

4.三好長慶の文化的功績

三好長慶は、文芸に秀でており、「連歌の名手」であったと言われています。朝廷との関係を重んじてたびたび「連歌会」を開く教養人でした。また畿内の文化人とも親密で、連歌会や茶会を何度も開いています。

また宗教に関しては寛容で、「キリスト教の布教」を認めたことでも知られています。キリスト教・神道・仏教等の宗派を問わず、幅広く自由に信仰することを認めています。