間違いやすい日本語(その1)王道、おざなりとなおざり、割愛と省略など

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間違えやすい日本語

我々が何気なく使っている日本語ですが、長い年月の間に本来の意味とは違う意味で広く使われる(誤用される)ようになることがよくあります。これは「日本語の変遷」と呼ばれるものですが、「日本語の変遷」は自然の流れであり、そのこと自体は良い悪いの問題ではありません。ただ、本来の正しい意味や使い方を知っておくことは必要ではないかと思います。

今回は「間違いやすい日本語」をいくつかご紹介しますので、参考にしてください。

(1)「王道」

「王道(おうどう)」とは、次のような意味があります。

①儒教における理念で、古代中国の伝説上の帝王である尭・舜などの「仁徳による統治」のこと。これに対して「武力や策略による統治」は「覇道(はどう)」と呼ばれます。

②(王のための)楽な方法のこと。下記のことわざにある「 royal road 」の訳語です。

「学問に王道なし」(There is no royal road to learning.)という有名なことわざがあります。これは、ギリシャの数学者ユークリッドが、エジプト王プトレマイオス1世(トレミー)から「もっと楽に簡単に幾何学を学ぶ方法はないのか?」と聞かれ、「幾何学に王道なし」と答えた故事に基づくことわざです。

「学問に王道なし」の類義語に「下学上達(かがくじょうたつ)」という四字熟語があります。これは「身近で平易なことから学んで、次第に高度で深い道理に通じること」です。科学でも「基礎研究」があって初めて「応用科学」も花開くわけです。何事も「基礎・基本という土台」がなければ、「砂上の楼閣」「空理空論」となります。

③転じて、平成以降は「正攻法」「定番」「定石」の意味で用いられるようになりました。

(2)「おざなり」と「なおざり」の違い

「おざなり」も「なおざり」も、「いい加減に対処する」という意味では同じですが、「おざなり」は「いい加減であっても何らかの言動をする」のに対して、「なおざり」は「いい加減、かつ何もせずに放置している」という違いがあります。

「おざなり(御座成り)」は、江戸時代の幇間(太鼓持ち)や芸者衆が、客によって扱いを変えたり、形ばかりの取り繕った言動をすることを指す「隠語」でした。そこから転じて「その場しのぎで済ませること」や「いい加減に物事を済ませること」を表すようになりました。

これに対して「なおざり(等閑)」は、「気に留めないこと」というのが元の意味で、「何もせずおろそかにしておくこと」や「成り行き任せにしておくこと」です。

(3)「割愛(かつあい)」と「省略(しょうりゃく)」の違い

「時間がありませんのでこれについては割愛します」という言い方をよくしますね。

「割愛」は、「惜しいと思うものを、思い切って捨てたり手放したりすること」「必要で惜しいものだけれども、やむを得ずカットすること」です。これに対して「省略」は、「重要でなく、不要なものだからカットすること」です。

したがって、「この部分は重要でないので割愛させていただきます」という使い方は完全な間違いです。

「割愛」の語源は、出家する際のことを言う仏教用語です。出家は、愛する家族や故郷から旅立つことを意味し、並々ならぬ覚悟が必要でした。その愛する者から引き裂かれる思いを「愛を割く」つまり「割愛」と表現し、気持ちを断ち切る意味として使われるようになったのです。

(4)「最右翼」と「席次」

現在では「最右翼(さいうよく)」は、「優勝候補の最右翼」「首位打者の最右翼」などと、「競争者の中で最も有力な者」という意味で使われることがほとんどだと思います。

これは戦前の士官学校や旧制高校などでは、成績順に席が決まり、「最も優秀な者は教室の最後列の最も右の席に座る」ことになっていたことに由来します。そして順次二番・三番と左へ行き、最後列が終わるとその前の列の右側から順次座ることになっていたのです。

そして、一年の時の席順(これを「席次(せきじ)」と言います)は、入学試験の成績順だったそうです。入学試験の合格発表は、現在は「受験番号順」に掲示され、名前はわかりませんが、昔は成績順に名前が張り出されたそうです。従って、自分が何番の成績で合格したのか一目瞭然だったそうです。

今は、入学の時も在学中も卒業の時も、成績が何番かは、明確にわからないようになっています。高校の時の「校内模試」で自分が何番くらいかがわかる程度です。しかし昔は卒業の時も「首席で卒業」などと成績順がはっきりしていたようです。

文字通りには、「左右に広がったものの、最も右側の部分」という意味で、火野葦平の「土と兵隊」でも「我々の荒川部隊は最右翼に敵前上陸する」などと使われています。

また、「最も右翼的な思想、またその思想を持つ人」「極右」という意味もありますが、この意味ではあまり使われないようです。