「廃仏毀釈運動」とは何だったのか?

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廃仏毀釈運動

私たちは中学や高校の歴史の授業で、明治維新の頃に起きた「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動」というのを習いました。「仏像や寺院を破壊する運動」という程度であまり詳しいことは知らない人がほとんどではないでしょうか?

今回は、この「廃仏毀釈運動」について、じっくり考えて見たいと思います。

1.「廃仏毀釈」とは何か

「廃仏毀釈」とは、「仏教寺院・仏像・経巻を破棄(破毀)し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃すること」です。「廃仏」は(破壊)し、「毀釈」は迦の教えを壊()すという意味です。

キリシタン大名の高山右近なども神社仏閣を焼き払ったり、仏像を破壊したり、神官・僧侶を迫害したりしました。

江戸時代前期には、儒教の立場から「神仏習合」を廃して「神仏分離」を唱える動きが高まり、池田光政や保科正之などの諸大名が、仏教寺院を削減する抑制政策を採りました。徳川光圀の指導による水戸藩の廃仏は大規模で、領内の半分の寺が廃されました。

しかし日本では一般的に、明治政府が行った「『神仏習合』を廃して『神仏分離』を推進する運動」のことを指します。

2.明治維新の頃の「廃仏毀釈運動」の目的は何か

明治新政府は、「神格化した天皇」と「それを支える国家神道」を統治の道具として使うために、「神仏習合」を廃して「神仏分離」を行いました。1868年4月5日の「太政官布告」がそれで、「神仏分離令」と呼ばれています。

次いで1870年2月3日に明治天皇の名で出された「大教宣布詔(たいきょうせんぷのみことのり)」で、「天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、日本を『祭政一致の国家』とする国家方針」が示されました。

もともと、「神仏分離令」と「大教宣布詔」は、神道と仏教の分離を示したもので、「仏教排斥」を命じてはいませんが、結果的に「廃仏毀釈運動」と呼ばれる破壊活動を引き起こします。

しかし、「神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭」が行われ、祭神の決定・寺院の廃合・僧侶の神職への転向・仏像仏具の破壊・仏事の禁止などが見られました。

一向宗が強い三河・越前では「一向一揆」が起こりましたが2~3年で終息しています。

伊勢国では伊勢神宮のお膝元ということもあり、激しい「廃仏毀釈運動」が起こりました。宇治山田では300以上あった寺院が15に激減しています。

美濃国の苗木藩は徹底した廃仏毀釈を行い、領内の全ての寺院・仏壇・仏像が破壊され、藩主の菩提寺も廃されました。現在でも葬儀は神道形式で行う家庭がほとんどだそうです。

薩摩藩では、1616の寺院が廃され、還俗した僧侶が2966人に上ったそうです。

奈良でも、東大寺の大仏が危うく大砲で吹き飛ばされそうになったこともあるそうです。ちなみに東大寺の大仏は、明治時代の廃仏毀釈運動での災難のほか、太平洋戦争中に弾丸として鋳潰されそうになったこともあるそうです。

1871年2月23日の太政官布告で、「寺社領上知令」が出され、境内を除く寺や神社の領地は国が接収しました。

3.今後の仏教や檀家制度の展望

私は宗教を一切信じていないので、詳しいことは知りませんが、日本にある宗教で、「檀家制度」によって、「家」を縛り付け、「月参り」や「葬儀の際の読経」、「戒名料」名目で「永続的な集金システム」を持っているのは仏教(特に浄土真宗)ぐらいではないでしょうか?

新興宗教や、キリスト教にも、別の「集金システム」があるのかも知れませんが、詳しいことは分かりません。

少なくとも、浄土真宗の「檀家制度」は今や「存在理由」を失っており、早晩消滅すべき運命にあると私は考えています。


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